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刑部

江戸時代・毛利氏のおさえの城 (2024/05/21 訪問)

近代城郭の城らしい石垣の城、主郭部からの景色は絶景です! 昨日は穴子飯、焼き牡蠣、お好み焼きでしたが今日は石見パークの生姜焼き。やはり城廻りにはその土地のグルメを食するのが最高です!

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カズサン

横内城主堤弾正夫妻の墓碑が注目です (2024/05/20 訪問)

 三内丸山遺跡開門の前に近くの横内城に初登城、前日浜松を出発し約950km程を高速道を飛ばし、SAで仮眠車中泊を重ねて、津軽SAで岩木山を眺め青森を実感、青森中央ICを降りて横内城へ。

 住所:青森県青森市横内亀井146-1朝日山常福院
 駐車場:常福院山門を入って北隅、数台の駐車可能。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

  西の山門は仁王門、山門内に横内城跡の解説板、山門を潜ると横内城主堤禅定夫妻の墓所が目を引きます、治世良く地元の方に慕われているようです、正面は本堂で朝の読経が響き渡ていました、本堂西前の龍神庭が奇麗に整備されていますが元は2郭の西側の堀跡の様子、本堂浦の東側には崖の切岸で横内川に落ち込んでいる。
 2郭の常福院北に1郭の稲荷神社があり西側の堀、中間の道が堀跡のようで東の横内川に落ち込んでいる。(1郭、2郭の表示は余湖図コレクションの俯瞰図に依ります)

 堤弾正は南部氏の一族で堤弾正家は4代続く、南部氏一族である津軽為信に攻められ天正13年~18年当たりに落城?。
 墓所の石塔は明治28年に横内城主3代堤弾正則景と同室朝日御前の墓標として建立された。
 
 こじんまりと堀に曲輪、横内川に落ち込み崖、切岸が残って居る。
 

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AJ

江州あれこれ (2016/05/21 訪問)

近江・長浜城(滋賀県長浜市)は、犬山や伏見をモデルにした模擬天守。江戸時代にはすでに田畑だったため、遺構の残りは良くないという印象です。

とはいえ、同じく近江の浅井氏(小谷城)攻めの戦功により秀吉が初めて一国一城の主となった場所。のちに政権の最高幹部となる石田三成との出会いの場とされる観音寺(米原市)からも程近く、JR長浜駅前には「三献茶」の像が。

家臣の屋敷は三の丸に並んだといいますが、現在は検討がつきづらい状況。そんな中、比較的わかりやすいのが山内一豊と妻・千代が暮らした「伊右衛門屋敷跡」でしょうか。本能寺、賤ヶ岳を経て長浜に入ったのがこの「功名が辻」カップル。掛川に移るまで当地を治めたそうです。

さて、近江をこよなく愛したと伝わるのが松尾芭蕉。大坂で亡くなると、生前の希望通り木曽塚に埋葬されたといいます。義仲寺(大津市)を訪れてみると、そこには弟子の又玄が詠んだとおり、木曾義仲と「背中合わせ」(厳密には隣り合わせ?)の俳聖が。

琵琶湖はもちろん、当時から大動脈だった東海道に近く、風光明媚な場所だったようですが、今は住宅街の中でちょっと窮屈。敷地内には小ぶりながら巴御前の塚も。この地で義仲を弔って信州へ立ち去ったとか。

再びところ変わって大津市・近江神宮。主祭神は天智天皇。御製が百人一首の第1番に選ばれていることから、社が競技カルタの甲子園とされているのは有名な話。

国内初の水時計(漏刻)を設置したことから「時間の祖神」とも称される天智天皇。そんな和風クロノスにちなんで、敷地内には各メーカーが寄進した日時計などが多数。時間を忘れて散策、というわけにはいかなそうです。

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー76城目 (2024/05/11 訪問)

3月16日の敦賀延伸からほぼ2か月が経過。漸く北陸新幹線の延伸部分に乗車することができました。敦賀駅は特急の乗り継ぎだけでなく改札の外に出るのにも時間がかかります。これは不便ですね。特急乗り継ぎに難渋される関西の皆さんがお気の毒でなりません。レンタカーを借り受けてまず向かったのが佐柿国吉城。ゴールデンウイーク明けでは麓の居館辺りの草がかなり伸びてきてしまっていました。散策マップを片手に隅々までめぐることができました。5つの郭が連なる連郭曲輪群に足を踏み入れたのは今回が初めて。大きな比高差に吃驚です。本丸までの距離表示の木にアクリルのカバーがかけられていたり、登城路に土留めの板が設置されていたりと整備が進められていてとてもうれしくなりました。

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赤い城

鷲の山城 香川県高松市 (2023/05/06 訪問)

城びと未登録、南北朝時代に築かれた城です。
鷲峰寺の背後の山が城趾です。
鷲峰寺本堂左手、八十八ヶ所霊場巡りの道を進んで行きます。
霊場巡り途中で鷲ノ山山頂への案内板があるので左手に。
ここからピークを3つ経て主郭に到達します。

途中はほぼ尾根道でいくつか堀切の跡のような部分も見られますが派手な遺構はありません。
主郭から東にも尾根が伸び、曲輪がありました。

帰りは二郭と思われる第3ピークから東側の尾根を下りました。

城廻りというよりはハイキング、結構な運動にはなりました。

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しんちゃん

夜景がキレイ (2015/02/23 訪問)

ギックリ腰の朝田さん。たしかにそんな変態は貴方ぐらいでしょう。なぜそのような過酷な試練を自らに‥ (守山城の投稿を参照)
私も30代のころは変態と呼ばれていました。「しんちゃんは鉄人を通り越して変態だね」と呼ばれていましたね。(遠い眼)そんな私も40の声を聴いて両膝変形性関節症‥これジーさんがかかる病例でしょうに。最初は歩くのもヒーヒーでしたが、それから城めぐりを始め山城を600ほど歩いて、富士山も登って体力も回復してきました、ありがたや‥。今何とか歩けるのも山城のおかげです。
私もいずれ真の「変態」に帰り咲きたいと思っています。(今は別の意味で変態ですが)

守山城の投稿でした。ここは夜景がすごくきれいです。アベックがいっぱいいましたね。長崎や横浜なんて目じゃなかったですよ。夜景で重要なのは距離感ですね。目の前が夜景の光でいっぱいになりました。今は知らんですけど。

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しんちゃん

南北に長い城域を持つ (2015/10/23 訪問)

城生城は神通川の左岸にある丘陵上に築かれています。文和年間(1352~1356)に斎藤常喜によって築かれたとされ天正11年(1583)に佐々成政によって攻められ落城したとのことです。
落城後、佐々成政によって改修が加えられているようで、主郭の周囲には空堀が配されています。城址碑のある細長い部分と北の広い部分を主郭とするとして、主郭の南側には特に複雑な縄張りが配されているようです。

チンチン山は富山市婦中町にある遺跡です。新町大塚古墳ともいいますが、行き倒れた僧が鉦を鳴らしながら読経をして、やがて亡くなったためチンチン山というらしいです。深い意味は無いです。近くを通りかかったら不思議な名前の遺跡があったので寄って見ただけです。(チンチンってNGワードじゃないんだ へっへっへ‥)

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朝田 辰兵衛

岩手城(新潟県上越市) (2024/05/25 訪問)

【いわで じょう】標高:115m,比高:約60m。上越市柿崎区岩手字城山に位置します。ここも猿毛城と同様に,主郭の塚に祠があります。『温古之栞』によると,承久3(1221)年の承久の乱の際,順徳上皇方であった宮崎定範の居城であったとあり,貞治3(1364)年には守護上杉憲顕が重臣宇佐美氏に岩手城を守らせたとありますが,真偽のほどはわからなく,謎に包まれています。
見どころは主郭東側の堀切だと思います。眺望は北側に米山,南側に春日山城ですが,この日は草木の繫茂で南側の眺望は開けていませんでした。猿毛城登城のウォーミングアップにちょうど良いです。

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しんちゃん

家康公の鷹狩りのための御殿‥の一画にあった陣屋 (2024/05/25 訪問)

中泉御殿は徳川家康が鷹狩りの際に用いる宿泊所として中泉村に築いたとされ、中泉陣屋は御殿の一角に置かれ「中泉代官所」とも呼ばれました。陣屋のあった場所は御殿遺跡公園として整備されています。周辺に遺構は有りませんが、御殿の裏門が西願寺に、表門が西光寺に移築され、案内板が建てられています。
また磐田市の民家には陣屋の表門が移築されているようです。

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びーこ

ホントに5日で掘ったの〜? (2024/05/19 訪問)

本来だったら、信長らしい一直線の大手道をグイグイ登っていくのが醍醐味なのかもしれないが、
まずは小牧山城史跡情報館「れきしるこまき」に立ち寄って情報収集することをお勧めする。
石垣模型や城郭シアターなど様々なコンテンツを備えているが、これらは後でゆっくり見るとして、トイレ脇のレクチャールームでひっそりと上映されていた春風亭昇太師匠の「小牧山散歩!信長の城コース、家康の城コース」が面白いし、分かり易かった。ぜひこちらを視聴してから登城して欲しい。

◆土塁
今回一番楽しみにしていたのはこの土塁。「どうする家康」で榊原康政が5日で掘ったというアレである。写真だと分かり難いかもしれないが、とにかく深くて広い土塁。堀に降り立ってみたかったが、立ち入り禁止。残念・・・

◆大手道
真っすぐに伸びる大手道があるのは、小牧山城と安土城だけらしい。安土城のような立派な石造りではないが、十分存在感はある。一番の下から一気に登ろうとしたが、やっぱり途中で息切れ・・体力不足を痛感。

◆石垣
岩盤の上に積み上げられた野面積の復元石垣は、なかなかの迫力!石垣の崩壊で落ちた転落石が落ちたままの場所に転がっているのも面白い。

◆模擬天守(小牧山歴史館)
1年前にリニューアルしたということで、映像を使った斬新な展示が多く、楽しみながら見学することができた。また、展望室は犬山城ほどではないが開放的で、風を感じながらしばし遠い昔に思いを馳せる・・・

◆土塁断面展示
文字通り土塁の断面をそのまま展示してある。これは面白い!他では見たことない。大手口とは反対側にあるのでちょっと歩く必要があるが、これはぜひ見て欲しい。

それにしても、小牧山歴史館と小牧山城史跡情報館の2館見学で200円というのは破格!リニューアルもしているのに大丈夫か?と心配になってしまった。
それからフレンドリーなスタッフの方々の対応にも感謝したい。掃除も行き届いており、気持ち良く見学することができた。

小牧山城でのランチは市役所の食堂を予定していただが、残念ながらこの日はに日曜日ということでお休み。本来なら6階の食堂からお城と土塁を眺めながらランチができたはず。

代わりに愛知県民のソウルフード「スガキヤ」でラーメンとチャーハンを頂いた。普通に美味しかったが、登城後のビールにありつけなかったのが残念・・・フードコートにビールなし。覚えておこう。

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しんちゃん

夕方訪問なので写真が暗い。 (2023/01/04 訪問)

串木野城は串木野氏の城で南北朝の合戦の際には五代・串木野忠秋は南朝方に味方しますが、島津貞久に敗れ、忠秋は知覧に逃れたそうです。以来当地は島津氏の支配下に置かれ、島津義久が弟の家久を串木野・隈之城の地頭に任じ、嫡男・豊久がここで生まれたとされています。
零汰さんの投稿にもありますが、私も「ドリフターズ」の島津豊久の印象が強いです。「ヘルシング」も好きなのですが、独特のケレン味たっぷりの平野節というセリフ回しがクセになるんですね。私が「城びと」を投稿する半年ほど前から投稿が途絶えてしまっているのが残念な限り。
多くの人が入ってきて(もちろん若い人も)城びとがもっと盛り上がり、長く続いてくれればと思っています。城びとを初めて一年を過ぎた私の感想です。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/17 訪問)

福岡・佐賀のお城廻第一日目その3

水城へは太宰府駅からのレンタサイクルを利用して大宰府政庁跡などと共に登城。
大野城から水城館までの下り道は暴走族対策でところどころ凸部があり、自転車でもスピードの出し過ぎは注意です。大野城、大宰府政庁跡などをめぐるのは自転車が便利です。
水城館のすぐ上にも展望台があるのですが、そこから徒歩20分かけてさらに上の展望台にいくと水城全体が良く見えます。私は電動アシスト自転車だったので、上の展望台に行く別のルートが住宅街脇階段からあるのでそこまで自転車で行き楽しました。

本日の行程は以下の通り
※基肄城、大野城と共に登城

6:25羽田(航空機)、8:20,8:30福岡空港(地下鉄)、8:35,8:40博多(JR)、9:13基山
 (徒歩17分)基山町民会館(9:00-20:00 続百名城スタンプ)
9:55基山町役場(コミュバス)、10:06丸林
 (徒歩15分水門跡)基肄城跡

(水門跡から徒歩30分)12:44JRけやき台、12:53二日市(徒歩14分)13:17西鉄二日市、13:25太宰府
 ※駅レンタサイクル(9時-18時:電動アシスト800円)約7㎞走行
 (約4.2㎞上り)大野城跡 焼米ヶ原駐車場
 (約1.0km)県民の森センター(百名城スタンプ)

 (約7.9km)水城館(9:00-16:30月休 続百名城スタンプ)
  水城

 (約2km)大宰府政庁跡見学
  ※政庁跡側の太宰府展示館でもスタンプ押印可
 (約1.9km自転車返却)18:02太宰府、18:24西鉄福岡(天神)
 泊:博多

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/17 訪問)

福岡・佐賀のお城廻第一日目その2

大野城跡は、公共交通機関では行きづらく、想像以上に広かったです。
ネットの記事で太宰府駅から電動アシスト自転車で行ったという記事がいくつかあったので、私もチャレンジ・・・、が、これが甘かった。
駅から焼米ヶ原駐車場まではずっと上りが続き、途中岩屋城跡を経て約30分くらいで行けました。ただこの時点で自転車のバッテリーは50%、スタンプのある県民の森センターについたころには40数%。百間石垣まで行く予定だったが、どれだけ上りかわからず、ここで大野城を下ることにしました。
次の水城館まではほとんど下りで自転車バッテリーは充電され、水城館につく頃には50%越えに復活。百間石垣まで行けたかなと半分後悔してます。水城館以降はほぼ平坦ですが、結構後から足に来たので、大野城跡内は自動車で回るのが良いかと。

本日の行程は以下の通り
※基肄城、水城と共に登城

6:25羽田(航空機)、8:20,8:30福岡空港(地下鉄)、8:35,8:40博多(JR)、9:13基山
 (徒歩17分)基山町民会館(9:00-20:00 続百名城スタンプ)
9:55基山町役場(コミュバス)、10:06丸林
 (徒歩15分水門跡)基肄城跡

(水門跡から徒歩30分)12:44JRけやき台、12:53二日市(徒歩14分)13:17西鉄二日市、13:25太宰府
 ※駅レンタサイクル(9時-18時:電動アシスト800円)約7㎞走行
 (約4.2㎞上り)大野城跡 焼米ヶ原駐車場
 (約1.0km)県民の森センター(百名城スタンプ)

 (約7.9km)水城館(9:00-16:30月休 続百名城スタンプ)
  水城

 (約2km)大宰府政庁跡見学
  ※政庁跡側の太宰府展示館でもスタンプ押印可
 (約1.9km自転車返却)18:02太宰府、18:24西鉄福岡(天神)
 泊:博多

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/17 訪問)

福岡・佐賀のお城廻第一日目

基肄城跡は、公共交通機関では行きづらいとこですが、コミュニティバスなど使って行きました。
水門跡から東北門跡、基山山頂までぐるっと回る予定でしたが、東北門跡過ぎたあたりで電話がかかってきて話しながら歩いていると道を間違えて城跡エリアの真ん中を流れる筒川に出てしまい、上る元気もなかったのでそのまま川沿いに水門跡までショートカット。それでもこの時点で1万7千歩くらい(朝からですが)歩いていました。
ぐるっと回るコースでも約2時間くらいではないでしょうか。とにかく歩くので、トレッキングシューズなどちょっとした山歩きの装備がおすすめです。

本日の行程は以下の通り
※大野城、水城と共に登城

6:25羽田(航空機)、8:20,8:30福岡空港(地下鉄)、8:35,8:40博多(JR)、9:13基山
 (徒歩17分)基山町民会館(9:00-20:00 続百名城スタンプ)
9:55基山町役場(コミュバス)、10:06丸林
 (徒歩15分水門跡)基肄城跡

(水門跡から徒歩30分)12:44JRけやき台、12:53二日市(徒歩14分)13:17西鉄二日市、13:25太宰府
 ※駅レンタサイクル(9時-18時:電動アシスト800円)約7㎞走行
 (約4.2㎞上り)大野城跡 焼米ヶ原駐車場
 (約1.0km)県民の森センター(百名城スタンプ)

 (約7.9km)水城館(9:00-16:30月休 続百名城スタンプ)
  水城

 (約2km)大宰府政庁跡見学
  ※政庁跡側の太宰府展示館でもスタンプ押印可
 (約1.9km自転車返却)18:02太宰府、18:24西鉄福岡(天神)
 泊:博多

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トク

三方ヶ原(2/2)-崔ヶ崖(でどうする家康の名場面を振り返る) (2024/02/13 訪問)

三方ヶ原の戦いで最後の激戦となった崔ヶ崖(さいががけ)を訪れてきました。三方ヶ原墓園からまた同じバスで戻り浜松城の少し手前「さいが崖」バス停で下車しました。バス停の前には、夏目広次の碑がありました(写真⑤⑥⑦)。またその向かい側には、本多忠真の碑(写真⑧⑨)と崔ヶ崖資料館(写真①)がありました

まず資料館へ入ってみました(無料です)。小じんまりしていますが、手作りの人形で合戦シーンが作られているなど(写真②③)、資料も結構わかりやすく内容も充実していました。それもそのはず磯田先生の監修だそうです(写真④)。気さくなボランティアの方々もいらっしゃり、資料を見ながらドラマのシーンなどの質問をすると、いやあれは実はね・・・などととても熱心にの解説して下さり、え~!そうだったんですか? などと話が盛り上がってしまいました(笑)。

次に、本多忠真と夏目広次の碑の前に立ってみました。この二人は家康を逃がすために、自ら犠牲になりましたよね。ここに立っていると、大河ドラマ「どうする家康」でのこの二人の名セリフが思わず浮かんでしまいました。

【本多忠真の名セリフ】
叔父上とともに戦うと泣き叫ぶ本多平八郎(忠勝)に対し

「行け平八郎~!」
「お前の死に場所はここじゃねえ!」
「お前はお前の好きな殿を守れ~!!」

そしてぐいと酒を飲み、武田軍に向かって
「ここから先は一歩も通さん!」

【夏目広次の名セリフ】
「そなたは幼い頃、わしとよう遊んでくれたあの吉信じゃ」
「いえ広次にございます、さあ殿、早くお逃げ下され」
「うそじゃ、死ぬな吉信、死ぬな~!」
と泣き叫ぶ若き家康に対し、家康の身代わりとなるべく金の鎧兜を身につけながら、うっすらと笑みを浮かべ

「殿、殿はきっと大丈夫・・・」

思い出しただけで、また泣けてしまいました😭~。


さあ次は【関ケ原の26人】いよいよ最後(26人目)の旅を、この三方ヶ原の祝田(ほうだ)の地から始めたいと思います。できれば最後まで、またよろしくお願いいたします!
 

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刑部

元春の隠居城 (2024/05/21 訪問)

元春は帰国することなく小倉城で没した為、広家の時代に完成した館。その後廃城なので周りは山の中城下町はありません。資料館をまず見てから城址を見学、石垣が綺麗でした!

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カズサン

初登城にて毒沢城初番投稿 (2024/05/22 訪問)

 未投稿に成っていた寺林城に続き毒沢城も初登城して毒沢城初投稿致します。
 平成29年(2017年)5月には花巻市土沢城、遠野市鍋倉城探訪し毒沢城はパスした経緯の有る城跡です。

 住所:岩手県花巻市東和町中内9区
 駐車場:県道284線沿い毒沢城登城口前駐車場(39°20'49"N 141°14'06"E h=170m)、小型車2台可能、グーグルマップに駐車場マークが載っています。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 寺林城を終えて東北道経由釜石道東和ICを出て県道39号線を南下し県道284号線へ国道456号線手前400m程に駐車場、標柱、案内板が有り良く分かりました。
 駐車場に毒沢城跡周辺案内図(平成5年4月15日毒沢城跡保存会作成)が有り本丸までのポイントポイントの距離が記載されて、登城口を登ると、本丸まで400mの指示板、320m、300m、250m、200m、100mと記載あり、県道沿いに毒沢城跡案内解説板縄張図付き(平成13年9月東和町教育委員会作成)が有り、隣スロープ登城口に毒沢城跡入口の標柱が在ります。
 
 駐車場側の丸太階段を登って本丸まで400mの表示板、踊り場過ぎて第二段の丸太階段、踊り場、第三段目の丸太階段上ると本丸まで320mの表示板、近づいてくる誘惑で登城を誘われます、その後は、山寺の水、池、水芭蕉池と続き平場の遊歩道、本丸まで100mに来てロープ付き手摺、二段階の登り丸太階段が続き本丸到着です、本丸手前右手に本丸切岸と曲輪案内図では二の丸?とある、登って左手に曲輪三の丸?とある、西側から北側に廻り込んでる三の丸、北側には東屋、本丸内部は草叢状態、他の二の丸三の丸も同じ状態、本丸中心に毒沢城跡の標柱、本丸一段下がった東曲輪に毒沢館の由来案内板、草叢状態であまり歩き回れませんでした。
 本丸まで100m辺りに低い堀が有り南側の東に伸びた尾根曲輪の様子が窺える。また平場の遊歩道本丸まで250m~200m辺りは北郭の南裾に当たるようです。
 北郭が北東方向に有るようですが草が茂り道もわからず、本曲輪のみで終了しました。
 遊歩道は草もあまりないが100m手前から左右の曲輪本丸は草叢状態、この時期ですからしょうがないのでしょう、山城は晩秋から春先まででしょうかね?

 歴史は案内板によると、毒沢氏の築城、源氏流れの和賀氏族、天正18年の秀吉奥州仕置きで毒沢氏は追放、毒沢氏一族の毒沢一忠は末子作十郎(藤吉)を伊達政宗に願い出て小姓に奉公その折、毒沢氏から只野氏に改めて、その後中新田に1200石を給わった。一女は政宗の側室に成り政宗第10子宗勝を産み後に一関藩主(3万石)となる。(案内板抜粋)

 
 毒沢城を認識してから7年振りの登城と成りました、熊を警戒しての登城ですがここには熊注意の看板は無く少しは安心でした。
 

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イオ

復元も模擬もこれはこれで (2024/04/06 訪問)

五月山南麓の台地辺縁部に位置し、西は崖地、北は杉ヶ谷川が天然の堀切、東と南に堀と土塁をめぐらせた城で、南北朝期に池田教依が築いて居城としました。応仁の乱では東軍について大内政弘に攻められ、戦国前期の細川氏の内紛では細川高国に攻められて落城。大物崩れの後、堀を拡げ土塁を設け曲輪を拡張して強化するも、今度は織田信長に攻められて落城。池田勝正は信長に仕えて、虎口を強化し能勢街道を取り込んだ惣構の織豊系城郭に改修しました。勝正が弟の池田知正や荒木村重らにより追放されると村重が城主となるも、伊丹城(有岡城)に居城を移したことにより廃城となりました。その後、信長の有岡城攻めの際に陣城として改修され、信長もたびたび在陣しています。

阪急宝塚線・池田駅から登城(池田城跡公園まで徒歩約15分)。主郭は池田城跡公園として整備される一方で大きく改変されてもいますが、発掘調査の成果に基づき、公園内に礎石、井戸、枯山水、排水溝、虎口、土塁が復元されています。木造の櫓風展望休憩舎の一階は池田城についてのパネル展示、二階の廻縁からは公園内と池田の街を見渡すことができます。この日は池田五月山さくらまつりが開催されていて、枝垂桜も満開、芝生地には野点の席が設けられ、櫓前のステージでは邦楽演奏も行われていました。南門を出て東側に下りて行くと堀切があり、空堀散策路(堀底道)を北に向かうと、東門への木橋が架かっていました。池田城跡公園を出た後は惣構の跡をたどってみましたが、高低差や細道にそれらしい雰囲気を感じはしても、明瞭な痕跡は見られませんでした。

明瞭な遺構は主郭東側の堀切くらいのものですが、発掘調査に基づいていろいろと復元されており、櫓も門も木橋も模擬ながらもそれらしい雰囲気があるので、街中の城としてはこれはこれでヨシ! という感じでした。
 

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刑部

毛利元就の居城 (2024/05/21 訪問)

元就・隆元のお墓参りと城址の探索ができる一石二鳥の山城、最初に元就及び親族のお墓参りそこから本丸を目指しました。石垣はほとんど崩れてましたが曲輪ひとつひとつがしっかり残されていて歩くたびに感動の連続です。下山は尾崎丸経由で戻りましたが途中獣臭が凄くヤバイ雰囲気で歩いているとゴソゴソと大きな音が・・・猪?熊? 城びとグッズの熊よけ鈴を大きく鳴らしながら下山。そんなこともあり毛利元就の銅像へ行くのを忘れて帰り。資料館は休みだったので御城印は買えませんでした残念。

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T-Shionoya

長篠城 丸馬出のある姿を見てみたい (2024/01/29 訪問)

立派な堀と土塁に興味があり1月末に訪れた愛知県新城市の長篠城。

豊橋平野から北東に進んだ平地の最奥部、豊川と宇連川の合流点に築かれた城。
南側は50mの断崖がその2つの川に落ち、本丸北西部も碁石川が天然の要害となる地形。
山を越えれば、東は遠江、北は信濃に繋がる要衝。

1508年に菅沼元成が築城し、長篠菅沼氏は今川氏&徳川氏に従属。
一時期は武田氏に服従するが、信玄の死後に徳川が奪還すると奥平貞昌(信昌)が城主に就任。そして長篠・設楽原の戦いを迎えます。

訪問時は対岸の牛渕橋より崖の様子を眺めてから入城。主郭、弾正曲輪土塁、瓢曲輪東の搦手門跡まで巡り、最後に史跡保存館へ。
主郭の折れを備えた堀と土塁は見応えがあり、パンフレットによると主郭の土橋は虎口に対してオフセットしていたとのこと。
一方、駐車場や史跡保存館が建つ帯曲輪は土塁や堀を失っている点が残念で、他の史跡指定エリアも民家が建つなど多くが侵入不可。各所に標柱が建つものの、100名城としては遺構が少なくマニアックな印象。

それでも滞在時間は2時間半。
丸馬出のある姿を見てみたいと感じた、私の城郭巡りの174城目でした。

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