ほんしょうじ

本證寺

愛知県安城市

別名 : 本証寺、本證寺城、野寺御本坊
旧国名 : 三河

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本堂
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ぴーかる

本證寺 (2024/09/23 訪問)

【本證寺】
<駐車場他>駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>本殿・堀
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅4城目。現地説明板によると本證寺は鎌倉時代後期の創建とされ、室町時代には岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに三河三か寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派の有力寺院になっていました。1563年に松平家康の家臣が守護不入権を犯したことが発端となり三河一向一揆が起こりました。一揆は翌年に終結しお坊さん達は家康領から追放されます。1585年に本證寺は赦免され江戸時代に本證寺が再興されます。
 境内に残る多くの建造物が江戸時代の建立で境内が国史跡に指定されています。特に本堂の大きさと立派さは見応えがあり、本堂内の天女の欄間には見惚れます。当時は外堀と内堀があり位置は戦国時代のままだそうですが、形状は江戸時代に伽藍形式に合う幅広の形式に改変したようです。外堀は現在は埋めたてられています。
 戦国時代の城郭寺院としての遺構はあまり見られなかったが、江戸時代初期・中期に建立された建造物や水堀は史跡としての見応えがありました。本證寺城の御城印2種類が庫裏玄関にて販売されていますので購入しました。また安城市歴史博物館には本證寺の鬼瓦や出土品の展示物が多くあります。

<満足度>◆◆◇

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T-Shionoya

本證寺の城郭伽藍 (2024/01/27 訪問)

城郭施設が残る珍しい寺院とのことで1月に訪問した愛知県安城市の本證寺。

鎌倉後期の創建と伝わり、室町時代には地域の本願寺派の有力寺院に成長。
矢作川西岸の平坦な碧海台地上に位置し、戦国期に入ると自衛のために堀と土塁が必要となったのでしょうか。
1563年に三河一向一揆が起こると、一揆方の拠点の1つとなり家康と対立。その結果、空誓らが一旦は領国追放となりますが、1585年に赦免され再興を果たしました。

現在も内堀内は本證寺の境内で、本堂や庫裏、裏門、鼓楼などは江戸期から残る建造物。また内堀周辺エリアは令和9年の史跡公園化に向け発掘調査と工事が進行中。ただし内堀や土塁が戦国期に存在したという決定的な証拠は得られていないとのこと。

訪問時は本堂周辺の内堀や鼓楼を確認した後、裏門から境内の外側を散策。
隅櫓のような鼓楼やクランク形状をした内堀は、正に要塞の雰囲気。
境内北側は草木が少々伐採され、一般にはまだ未公開の土塁が一部確認可能な状態。

滞在時間は約1時間半。
3年後が気になる城郭伽藍の本證寺が、私の城郭巡りの172城目となりました。

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小城小次郎

現存櫓でいいんじゃないか (2023/01/28 訪問)

三河一向一揆の舞台ともなったお寺は本格的な城砦寺院としての姿を今に伝える。鼓楼なんか現存櫓の扱いでいいんじゃないかな。前回は見落とした外堀跡や主要部北辺の土塁等も(外からだけど)しっかり見てきた。

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三河三ヶ寺 (2023/09/07 訪問)

本證寺(安城市)、上宮寺(岡崎市)、勝鬘寺(岡崎市)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼ばれていました。徳川家康が三河一向一揆と戦ったときの本願寺側の主要拠点となった寺です。本證寺に行ったときに他の寺も行ってみることにしました。

本證寺 
 城びとに登録されている城郭寺院です。

上宮寺
 一説には家康公の家来菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたことが三河一向一揆のきっかけといわれています。その後、再建されていましたが1988年に本堂や庫裏などが全焼しました。1996年に近代的な作りで再建されています。境内には本願寺教団の再興に力を尽くした松月院妙春尼(徳川家康の生母於大の方の妹)の墓があります。
JR西岡崎駅より徒歩約10分行くことができます。

勝鬘寺
 三河一向一揆の際には蜂谷半之丞、渡辺半蔵ら一揆勢が立てこもり家康方の大久保党と戦ったとされています。現在の本堂は1734年に再建されたものです。
JR岡崎駅より徒歩10分くらいです。

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城郭情報

分類・構造 城郭寺院
天守構造 なし
築城主 慶円
築城年 建永元年(1206)頃
主な城主 一向宗
遺構 横堀(水堀)、鐘楼
指定文化財 国史跡(本證寺境内)、市文化財(鼓楼・鐘楼・経蔵・裏門)、県指定有形文化財(本堂、木造慶円上人坐像)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県安城市野寺町野寺26