ようがいやまじょう

要害山城

和歌山県西牟婁郡

別名 : 要害ヶ城、高瀬要害山城、馬谷城
旧国名 : 紀伊

投稿する
①堀切
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:要害山城 (2025/05/31 訪問)

紀伊田辺駅でレンタカーを借り、車で50分くらいで分岐点(33.637511、135.405170)に着きました。
GPSが「NatIRte42」沿いの為IC間を行ったり来たりしてしまい、彷徨った結果、到着まで50分くらいかかりました。(本来は25分くらいで到着する距離です)
分岐点を右折せず直進して突き当りを左折し、次の分岐点(33.639514、135.408578)を峠の茶屋方面へ進み、登城口説明板付近(33.638701、135.410811)に着きました。

1494年(明応3年)安宅氏の家臣の吉田春秀によって築かれたと云われています。
安宅本城を居城とした安宅氏は龍松山城を居城とする山本氏との争いに備える為にこの地に城を築いたと云われています。
1494年(明応3年)に山本主膳守はこの地に兵を送り「馬谷城合戦」と呼ばれる戦いが起こりました。

堀切、竪堀などを確認しました。眺望はあまりよくありません。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=八幡山城へ向かいました。
当初の予定では、八幡山城の攻城の前に安宅中山城(城びと未登録 和歌山県白浜町)と土井城(城びと未登録 和歌山県白浜町)を攻城する予定でしたが、要害山城到着に時間がかかった為、スルーしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

いんげん丸虫

別名; 高瀬要害山城 馬谷城 (2024/12/29 訪問)

標高70mの山城です。
登城口には看板があり、駐車スペースが
あります。
この城跡の見どころは西斜面の畝状空堀
ですね。ここまでしっかりとした状態は
珍しいですね。土塁の部分が崩れずに
底部も明確で竪堀として残ってます。

+ 続きを読む

小城小次郎

シダがすごい (2023/11/03 訪問)

安宅本城を中心とする諸城からはちょっと離れているが「境目の城」としての役割が評価され(?)国史跡「安宅氏城館跡」に含まれている。畝状竪堀は季節を間違うとシダにびっしり覆われている(泣)。

+ 続きを読む

イオ

境目の城 (2021/01/10 訪問)

戦国前期に熊野水軍・安宅氏により築かれた城で、幕府奉公衆・山本氏の支配地域との境目にあたるため、たびたび攻防戦の舞台となりましたが、羽柴秀吉の紀州攻めの際に廃城となったようです。

熊野古道・大辺路を見下ろす山上に主郭、その西下と東下に曲輪を設けた山城で、先人の投稿にあるように、草堂寺に車を駐めて大辺路を歩いて登城することも検討しましたが、登城口まで車で行けるようなので、国道のトンネルを出てすぐ東に入り、製材所を抜けて紀勢道の高架をくぐって少し進むと、案内板と説明板のある登城口近くに車2台分ほどの駐車スペースがありました。

登城口から5分ほど登ると東尾根を断ち切る堀切に着きます。ここからが城域です。堀切から西に少し上ると腰曲輪があり、奥からロープ伝いに急斜面を登ると主郭です。主郭からは山本氏の支配地域である富田川流域を広く見渡せます。主郭西下の曲輪は周囲を土塁が囲み、北西部の虎口を出て斜面を下っていくと、シダで見づらい部分はあるものの、西側斜面一帯に畝状竪堀群が広がっています! さらに竪堀の上端は横堀で繋げられていて、小さな城ながら境目の城らしい守りの堅さを感じます。そして、最初の堀切まで戻って尾根沿いに数条の堀切や竪堀が設けられている(はずの)東尾根にも行ってみましたが、ほとんど自然地形な上に、シダが生い茂っていて何が何やらよくわかりませんでした。

年末からの寒波と年明け早々のコロナ感染拡大で、雪と人の多いところに行くのはやめておこう と、麒麟がくる紀行を取り止め、南紀白浜の国史跡「安宅氏城館跡」をめぐることにしましたが、今年の城始めの要害山城は、コンパクトながら畝状竪堀群などなかなかに見応えがありました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 吉田春秀
築城年 明応3年(1494)
主な城主 吉田氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群
指定文化財 国史跡(安宅氏城館跡)
住所 和歌山県西牟婁郡白浜町富田