しぎさんじょう

信貴山城

奈良県生駒郡

別名 : 信貴城、磯城
旧国名 : 大和

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①信貴山城址碑
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)7日目:信貴山城 (2024/09/28 訪問)

奈良交通バスの信貴大橋バス停から徒歩15分くらいで、空鉢護法堂参道口(34.610008、135.670322)に着き、そこから空鉢護法堂(信貴山の主郭で最高所)を目指しました。

築城年代は定かではないようですが、河内国との国境に近い要衝にあることから南北朝時代頃から砦や陣が設けられたようです。
本格的な城郭を築いたのは木沢長政で1536年(天文5年)の頃と云われています。
木沢長政は河内国守護職畠山氏の家臣で飯盛山城主となるなど重用されたが、主君畠山義堯を裏切って細川晴元に接近しました。
1542年(天文11年)河内太平寺合戦で長政は討死し、二上山城とともに信貴山城も落城しました。
1559年(永禄2年)松永弾正久秀が大和へ入国すると、多聞山城とともに信貴山城も改修して拠点としました。
1564年(永禄7年)三好長慶が飯盛山城で病没すると、松永久秀は三好三人衆と将軍足利義輝の暗殺するなど畿内での勢力を増したが、三好三人衆と仲違いしたことにより、大和より追い出した筒井順慶が三好三人衆と結んで筒井城の奪還を計ります。
三好家中で孤立した久秀は高屋城主の畠山高政と結んでこれに対抗しようとしたが、上芝での戦いに敗れ、その後、三好三人衆の陣があった東大寺の奇襲に成功した久秀でしたが、信貴山城は三好・筒井軍によって攻め落とされました。
1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長に久秀はいち早く降り、その加勢を得ると信貴山城を取り戻しました。
1570年(元亀元年)筒井順慶の勢力が盛り返すと、翌1571年(元亀2年)には辰市城合戦で大敗を喫し、その後、筒井順慶も織田信長に帰順し、その斡旋もあって和睦となりました。
その後、将軍足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻しましたが、1573年(天正元年)甲斐の武田信玄が没すると包囲網も破綻し、久秀は多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へ退きました。
1577年(天正5年)久秀は佐久間盛信に従って本願寺攻めに加勢していましたが、再び毛利輝元や上杉謙信、本願寺など反信長勢力に荷担し信貴山城に籠城しました。
信長は筒井順慶などを主力とする大軍を送り込み、久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると勧告するが久秀はこれを拒否。久秀は天守に籠もって自爆して果てました。

なんとか松永屋敷までは行きたかったのですが、バスの時間がせまり石碑の写真を撮って撤退です。
後で気づきましたが、登るのに一生懸命で遺構の写真を一枚も撮っていませんでした。何をしに行ったのやら。。。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=高安城を目指す為、信貴山門バス停から近鉄バスで高安山バス停に向かいました。

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ランフランコ

#31 磯城 (2024/02/10 訪問)

信貴山の山頂であり、朝護孫寺の空鉢護法内に記念碑のみ残ってます。

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九兵衛

石垣探し (2023/06/10 訪問)

藪を掻き分けたり、竪堀に落ちそうになったり、残存している石垣を探すのに苦労しました。

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おっちゃん

信貴山城跡実測図 (2016/12/17 訪問)

現地案内板より抜粋。

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城郭情報

分類・構造 山城
天守構造 天守櫓[4重/1559年頃築/焼失(落城)]
築城主 木沢長政
築城年 天文5年(1536)
主な改修者 松永久秀
主な城主 木沢氏、松永氏
廃城年 天正5年(1577)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、門跡
指定文化財 町史跡(信貴山城跡)
再建造物 石碑
住所 奈良県生駒郡平群町信貴山2280-1
問い合わせ先 平群町役場総合政策課
問い合わせ先電話番号 0745-45-1001