いなやつまじょう

稲八妻城

京都府相楽郡

別名 : 稲屋妻城、南稲八妻城、狛稲八妻城、狛稲八間城、政ヶ谷城
旧国名 : 山城

投稿する
南稲八妻の比定地の登城口
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

イオ

二つの比定地 (2025/02/23 訪問)

奥田甚助の城とも稲八妻氏の城とも伝わりますが、詳細は不明です。山城国一揆では、一揆解体後も守護支配に反対する国人が籠って最後まで抵抗を続けましたが、伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤により攻め落とされ、山城国一揆は終結しました。

稲八妻城の所在地は諸説あって明らかではないようなので、とある煩悩の登城目録さんが紹介しておられる3か所のうち、南稲八妻と北稲八間の比定地を訪れました。まずは城びとでの位置情報の地である南稲八妻から。京奈和道の跨道橋を渡ったところに路駐して登城開始。登城口には柵が置かれていますが、以前にネットで見た「進入禁止」の表示は外されていたので、車止めの柵であって人は進入禁止でなくなったものと判断して柵の脇から入らせてもらいました。

登城口正面の尾根筋に直登すると、北から続く尾根(曲輪らしき平坦地も?)の南端に土塁があり、土塁を乗り越えたところが主郭です。主郭はおおむね三角形をしていて、南西隅の土塁の先には細い西尾根が続いています。主郭の南辺には土塁がめぐり、南東隅の土塁の先からは南尾根が続いていますが、縄張図を入手できなかったこともあって、灌木と竹と倒竹に阻まれて南尾根の途中で断念。引き返した少し先に堀切と曲輪があったらしいことは帰宅してから知りました…。

続いては北稲八間の比定地にも。城山の小字が残る丘陵が城跡とされ、城山の麓には山城国一揆と稲屋妻城の説明板が立てられています。城山には配水施設が設けられていて城郭遺構は見られませんが、東屋のある頂部からの眺望はなかなかのものでした。また城山から南に約300mの墓地には、山城国一揆で若くして命を落とした14名を供養する五輪塔と石仏が大切に守り継がれています。

…ということで、この日は生駒山地周辺の6城をめぐりました。いずれもさして比高のない城ばかりではありますが、小規模でも遺構のある城を6つは自分としてはがんばったほうかな、と。ただ、稲八妻城で縄張図無しでもそれなりに見て回れる自信がついたのは良いとしても、遺構があるという確証もなく藪に突っ込んで行くような根性はまだないことも実感しました。…まだ?(笑)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:稲八妻城 (2024/10/02 訪問)

新祝園駅から徒歩25分くらいで、南稲八妻跨道橋(34.757799、135.777916)に着きました。

応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続きました。
南山城(みなみやましろ)も例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていました。
1485年(文明17年)南山城の国人衆や農民らが両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めます。その際、農民らの立て籠もったのが草路城とされます。
1493年(明応2年)伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになりました。
これに反対する一部の国人衆は稲八妻城に立てこもって抵抗したそうです。
上記のように、山城国一揆(1485~1493年)が崩壊した稲八妻城は、文献上には現れるものの、その城跡は未だ確定されていないとのことです。

戦国時代の1559年(永禄2年)に、松永久秀が大幅に改修の手を加え、大和国侵攻への拠点としたのではないかとされています。
久秀は1559年(永禄2年)信貴山城を大修築、翌1560年(永禄3年)には多聞山城を築城し、大和国にその勢力を伸ばしていきます。
稲八妻城の終焉は、1568年(永禄11年)の信長上洛によるとされています。

高い城塁?を直登しました。倒れた竹が行くてを阻みましたが、なんとかそれらしき場所に辿り着けました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=超昇寺城を目指す為、新祝園駅から電車で大和西大寺駅に向かいました。
当初予定の次の攻城先は槙島城でしたが、時間に余裕ができたので、9日目にバスの遅延で行けなかった超昇寺城に行くことにしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

山城国一揆最後の戦場 (2024/04/19 訪問)

稲八妻城は南稲八妻跨道橋を越えた先の竹林の丘が城址のようです。バーが有るので跨いで入って登っていくと曲輪らしき扁平地がありました。頂部あたりに主郭があり土塁が比較的良く残ります。ここまでの比高はそれほど高くないです。丘城になりますが、山城のように南と西の尾根に曲輪が配されています。
山城国一揆で蜂起した一揆勢が最後に寄った城とされています。守護代として入ってきた古市澄胤の軍との戦いは激しく双方の戦死者は200にも及んだそうです。抵抗むなしく稲八妻城は陥落、山城国一揆は終焉となりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

山城一揆 (2023/07/20 訪問)

山城一揆の中心的役割を担ったとされる城で、後には松永久秀が治めたこともあるとされています。稲八妻城の場所はいくつか説があるようです。京都府埋蔵文化財情報を見ると①植田②北稲八間③南稲八妻が比定地とされています。城びとでは南稲八妻が城址となっています。かなり大規模な城であったという説もあります。京奈和自動車道の跨道橋を渡った所が登城口らしいのですが、ネットの情報で立ち入り禁止になっているとのことでした。行ってみるとやはり柵がありましたので無理をしないで撤退しました。それなりの興味を持っていたので少し残念でしたが、仕方ありませんね。他の候補地である北稲八間城山に案内板があるとのことで写真に収めて帰って来ました。精華町教育委員会が作成している案内板を見ると城山説が有力となっています。

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 山城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 奥田甚助、稲八妻氏
遺構 曲輪、横堀(空堀)
住所 京都府相楽郡精華町南稲八妻皿池他(推定地)