いなやつまじょう

稲八妻城

京都府相楽郡

別名 : 稲屋妻城、南稲八妻城、狛稲八妻城、狛稲八間城、政ヶ谷城
旧国名 : 山城

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①空堀
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:稲八妻城 (2024/10/02 訪問)

新祝園駅から徒歩25分くらいで、南稲八妻跨道橋(34.757799、135.777916)に着きました。

応仁の乱が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続きました。
南山城(みなみやましろ)も例外ではなく、畠山氏は跡目争いから畠山義就と畠山政長が争いを続けていました。
1485年(文明17年)南山城の国人衆や農民らが両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めます。その際、農民らの立て籠もったのが草路城とされます。
1493年(明応2年)伊勢氏に近い国人達は自ら自治を放棄する集会を開き惣国は解体され、守護の支配下に入ることになりました。
これに反対する一部の国人衆は稲八妻城に立てこもって抵抗したそうです。
上記のように、山城国一揆(1485~1493年)が崩壊した稲八妻城は、文献上には現れるものの、その城跡は未だ確定されていないとのことです。

戦国時代の1559年(永禄2年)に、松永久秀が大幅に改修の手を加え、大和国侵攻への拠点としたのではないかとされています。
久秀は1559年(永禄2年)信貴山城を大修築、翌1560年(永禄3年)には多聞山城を築城し、大和国にその勢力を伸ばしていきます。
稲八妻城の終焉は、1568年(永禄11年)の信長上洛によるとされています。

高い城塁?を直登しました。倒れた竹が行くてを阻みましたが、なんとかそれらしき場所に辿り着けました。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=超昇寺城を目指す為、新祝園駅から電車で大和西大寺駅に向かいました。
当初予定の次の攻城先は槙島城でしたが、時間に余裕ができたので、9日目にバスの遅延で行けなかった超昇寺城に行くことにしました。

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しんちゃん

山城国一揆最後の戦場 (2024/04/19 訪問)

稲八妻城は南稲八妻跨道橋を越えた先の竹林の丘が城址のようです。バーが有るので跨いで入って登っていくと曲輪らしき扁平地がありました。頂部あたりに主郭があり土塁が比較的良く残ります。ここまでの比高はそれほど高くないです。丘城になりますが、山城のように南と西の尾根に曲輪が配されています。
山城国一揆で蜂起した一揆勢が最後に寄った城とされています。守護代として入ってきた古市澄胤の軍との戦いは激しく双方の戦死者は200にも及んだそうです。抵抗むなしく稲八妻城は陥落、山城国一揆は終焉となりました。

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山城一揆 (2023/07/20 訪問)

山城一揆の中心的役割を担ったとされる城で、後には松永久秀が治めたこともあるとされています。稲八妻城の場所はいくつか説があるようです。京都府埋蔵文化財情報を見ると①植田②北稲八間③南稲八妻が比定地とされています。城びとでは南稲八妻が城址となっています。かなり大規模な城であったという説もあります。京奈和自動車道の跨道橋を渡った所が登城口らしいのですが、ネットの情報で立ち入り禁止になっているとのことでした。行ってみるとやはり柵がありましたので無理をしないで撤退しました。それなりの興味を持っていたので少し残念でしたが、仕方ありませんね。他の候補地である北稲八間城山に案内板があるとのことで写真に収めて帰って来ました。精華町教育委員会が作成している案内板を見ると城山説が有力となっています。

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畠山政長と畠山義就の狭間で (2020/01/18 訪問)

応仁の乱に先駆けて大和は、動乱にあった。畠山の影響を排除したい国人、農民が最期に立て籠ったとのこと。
比高はないが、登城側の東を除いて急峻。本郭から南と西に尾根が続く。尾根の付け根を掘って平削地と土塁を作っているので、尾根道よりも本郭が低い。倒木、倒竹で、遺構が見辛い。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 奥田甚助、稲八妻氏
遺構 曲輪、横堀(空堀)
住所 京都府相楽郡精華町南稲八妻皿池他(推定地)