奥田甚助の城とも稲八妻氏の城とも伝わりますが、詳細は不明です。山城国一揆では、一揆解体後も守護支配に反対する国人が籠って最後まで抵抗を続けましたが、伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤により攻め落とされ、山城国一揆は終結しました。
稲八妻城の所在地は諸説あって明らかではないようなので、とある煩悩の登城目録さんが紹介しておられる3か所のうち、南稲八妻と北稲八間の比定地を訪れました。まずは城びとでの位置情報の地である南稲八妻から。京奈和道の跨道橋を渡ったところに路駐して登城開始。登城口には柵が置かれていますが、以前にネットで見た「進入禁止」の表示は外されていたので、車止めの柵であって人は進入禁止でなくなったものと判断して柵の脇から入らせてもらいました。
登城口正面の尾根筋に直登すると、北から続く尾根(曲輪らしき平坦地も?)の南端に土塁があり、土塁を乗り越えたところが主郭です。主郭はおおむね三角形をしていて、南西隅の土塁の先には細い西尾根が続いています。主郭の南辺には土塁がめぐり、南東隅の土塁の先からは南尾根が続いていますが、縄張図を入手できなかったこともあって、灌木と竹と倒竹に阻まれて南尾根の途中で断念。引き返した少し先に堀切と曲輪があったらしいことは帰宅してから知りました…。
続いては北稲八間の比定地にも。城山の小字が残る丘陵が城跡とされ、城山の麓には山城国一揆と稲屋妻城の説明板が立てられています。城山には配水施設が設けられていて城郭遺構は見られませんが、東屋のある頂部からの眺望はなかなかのものでした。また城山から南に約300mの墓地には、山城国一揆で若くして命を落とした14名を供養する五輪塔と石仏が大切に守り継がれています。
…ということで、この日は生駒山地周辺の6城をめぐりました。いずれもさして比高のない城ばかりではありますが、小規模でも遺構のある城を6つは自分としてはがんばったほうかな、と。ただ、稲八妻城で縄張図無しでもそれなりに見て回れる自信がついたのは良いとしても、遺構があるという確証もなく藪に突っ込んで行くような根性はまだないことも実感しました。…まだ?(笑)
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