能勢氏の陣屋跡です。本能寺の変では明智方に属して没落した能瀬氏ですが、関ケ原の戦いでは徳川家康方に属して戦後旗本として復活し、この地に陣屋を構えたと伝わっています。良好な石垣が残っています。
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2024/01/12 22:01
2023/10/14 18:55
2021/12/09 11:14
清和源氏流能勢氏陣屋石垣が良く残ってます (2011/10/25 訪問)
清和源氏頼光流能勢氏の陣屋、室町幕府では中枢で勢力を誇って居ましたが光秀に加担した事で秀吉勢力に本城丸山城、城下町焼討にあい、能勢氏離散、関ヶ原での能勢頼次軍功により旧領復帰し新たに石垣造りの陣屋を築城し明治維新まで治政を行う。
平成23年10月兄と三田陣屋初登城、城下町散策し地黄陣屋の手前で史跡マークの有る野間の大けやきを参拝見学、この欅は大阪府内一の大きさ、国内で四番目の大木でゆうに千年以上の樹齢を誇ってる。
車は能勢町立東中学校目指し、駐車場が無く分からず大手食違い石垣門の前のスペースに路駐。
探訪は以前より雑誌、写真集で認知して居ましたが初の登城、西側中央の大手門跡食違い石垣虎口、西から南へぐるっと築かれてる高石垣、南には排水石樋も有る、西側の北方向は高石垣で築かれてるが住宅が有り良く観察出来ない処も有る、北側は地形の関係で低い石垣、内部は校庭等で利用?当時、北奥中学校の下段に水堀が残ってる、奥中央に石垣で囲まれた小区画に能勢氏古城跡の石碑と鳥居、灯籠で祀ってる。
陣屋石垣域は南北約110m超、東西約60mの長方形で南、西、北が石垣、東は水堀と上段の段丘に成ってる、西中央に大手門虎口と石垣が良く残ってる、万石以下の旗本ですが築城時が関ヶ原から大坂の役の前、戦国の気風も有り、清和源氏の流れである能勢氏の意地、一旦離散した苦渋への反発など相まって過分なる石垣の城(陣屋)を築城したのでしょうか?
でも城好きには有り難い城郭遺構で能勢氏に感謝です。整備保存の能勢町にも感謝です。また登城が10年前なので写真は古く、最近投稿の写真は中学校体育館も無くなり石垣周囲の樹木、住宅が撤去整備されてる様です、また機会があったら訪ねたい城です。
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2019/12/14 08:13
能勢氏近世の城(陣屋跡) (2019/11/16 訪問)
【地黄城】
<駐車場他>駐車場はなし。停めれるとすれば北の搦め手門跡の所に駐車できそう。
<交通手段>バイク
<見所>石垣・門跡
<感想>バイクで摂津国の城巡り第2弾、2城目。まずはここも城の歴史の説明から。
私の丸山城の投稿で述べた能勢頼次は山崎合戦後の秀吉軍に攻められ丸山城落城後、難を逃れてその後徳川家康の小姓となり、関ヶ原に参加して、元の領地を回復し7800石として地黄城(陣屋)を築いた。能勢氏はその後明治まで続く。
城跡は東西南北の単郭の長方形で、東側以外を石垣で囲んでいる。西側に大手食い違い門跡があり、北側に搦め手の虎口跡がある。北西隅に櫓があったようで石垣が出隅になっている。郭の大きさはサッカーコートと同じくらいに見えました。民家が石垣に迫って建っているので見えずらかった。
<満足度>◆◆◇
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 能勢頼次 |
築城年 | 慶長7年(1602) |
主な城主 | 能勢氏 |
遺構 | 曲輪、石垣、虎口 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 大阪府豊能郡能勢町 |