まるやまじょう

丸山城

大阪府豊能郡

別名 : 地黄古城、天王丸、城山城、能勢城
旧国名 : 摂津

投稿する
駐車スペースの縄張図
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

登城道レポート (2023/01/06 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。期待に違わず、コンパクトながら、堅い守りを感じさせる土の城でした。比高はありませんが、急傾斜の地形。舌状台地の根本側を守る広い堀や出丸(天王丸)。
先人の投稿で予習すると、アプローチは、3通り。私と前後して訪問された、とある煩悩の登城目録さんは、南西の大手道から行かれたのでしょうか。南麓の民家の私道みたいなところを抜けて行きます。田んぼの畦道は鹿、猪対策の柵が張り巡らされて、通れません。大手道登城道は整備、維持されてます。2019年11月に訪問された、ぴーかるさんは、国道沿いの駐車スペース、説明板の脇からの登城道を使われたようです。当時は、きれいに伐採されていると投稿されています。説明板に、「能勢地黄城築城400年記念事業2015.4」とあり、このときに、大手道とは別に、国道からアプローチしやすい道を作られたのかと思われます。2023年12月に訪問された、屠岸賈さんは、駐車スペースからの道は「薮藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます」とレポートされてます。該車道から、天王丸に取りつくことができます。今回、登りは、駐車スペース脇から、行ってみました。冬場ながら、すすき等が生えて道が薄くなっています。丸太の土どめをたよりに進みますが、崩れ気味。本丸下の帯郭の道痕が薄くなっているところをわりと長く横移動させるので、ちと不安になります。最後に切岸を登って、三の丸にでます。下山は、大手道を使いました。大手道及び城域は、下草もなく、見学しやすいです。二ノ丸の小さなお社の木札が倒れてたので戻しておきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

能勢氏の城 (2024/01/11 訪問)

 能勢氏の城で、登城路は整備されていて散策しやすい城址です。曲輪跡、堀切、竪堀、土塁が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

楊士奇

北側からの登城路 (2023/12/03 訪問)

R477沿いの駐車スペースからの登城路は藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます。

+ 続きを読む

るるパパ

大阪最北、秀吉に攻められた土の城がそのままに (2021/05/09 訪問)

大阪最北の能勢町、田んぼと里山が広がる大阪とは思えないのどかな地域です。少し離れた場所からホタテ貝を立てたように見えるのが丸山城。比高はわずか50メートルですが、本丸、二の丸、その下の曲輪と三段に整地されていて、その美しさ、当時のままの保存状態に驚かされます。本丸と下の曲輪高低差は5メートル以上。簡単には攻略できません。城の最北の狼煙台からは下を見ると20メートルはあります。堀切や竪堀もきれいに残っています。特にすごいのが本丸。幅30メートル、奥行50メートルが真っ平らです。どんな権力者がいたのか?実は能勢さんだそうです。光秀の配下となり山崎の戦いの後、秀吉軍に攻められ落城。各地を転々とした後、家康に召し抱えられ旧領を与えられました。徳川の世では大名、町の名前にまでなったそうです。戦国時代には何度も何度も戦いの舞台となりました。リアル戦国の城ゆえにこの作り、納得です。なお木がないと、城は横から見るとワッフルのような形(諏訪原城をかなり小さくした舌状台地風)。城の東側の駐車場からはワッフルの背中から登る感じでかなり急です。南側に民家がありその横から西側に回ると大手門跡と大手道があります!こっちのほうが、道路から遠いこともあって、当時の雰囲気を味わえます。なお、石垣や、入り組んだ虎口はありません。土だけです。だからこそ、リアリティーを感じます。行ってみて損はないですよ!それにしても、都会のすぐ近くにこんなに素晴らしい城があるとは思いませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明
築城主 能勢頼国
築城年 長元年間(1028〜1038)
主な改修者 不明
主な城主 能勢氏
廃城年 慶長7年(1602)
遺構 曲輪、帯曲輪、堀切
住所 大阪府豊能郡能勢町地黄
問い合わせ先 能勢町教育委員会生涯学習課社会教育係
問い合わせ先電話番号 072-734-2452