まるやまじょう

丸山城

大阪府豊能郡

別名 : 地黄古城、天王丸、城山城、能勢城
旧国名 : 摂津

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①城址碑と案内板
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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:丸山城 (2025/05/23 訪問)

籾井城から車で30分弱で、説明板前の空スペース(34.959441、135.459672)に着きました。
登城口は3か所あるようです。自分は説明板前の空スペースに駐車したので、②ルートを選択しました。
①南側の石造九重塔から大手道を進む方法
②案内板付近にある入口(34.959688、135.459643)
③道が若干わかりにくいが北側から入る方法

築城年代は定かではないようですが、長元年間(1028年〜1037年)能勢頼国によって築かれたと云われています。
能勢氏は清和源氏頼光流で、山県国直の子国基が能勢郡田尻荘の地頭となり能勢氏を称したそうです。
1578年(天正6年)21代城主であった能勢頼道は荒木村重に同調し、織田信長に反旗を翻したり、明智光秀の本能寺の変に加担したともいわれ、一時領地を失いました。
関ヶ原合戦で能勢頼次は東軍に属して戦功があり、旧領を回復しましたが、1602年(慶長7年)地黄城の築城に伴い廃城となりました。

②ルートを選択しましたが、お薦めできません。階段的なものはありますが、郭に着くまで草木と格闘です。
竪堀、土塁などが確認できますが、主郭には案内板など何もありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=地黄城に向かいました。

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登城道レポート (2023/01/06 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。期待に違わず、コンパクトながら、堅い守りを感じさせる土の城でした。比高はありませんが、急傾斜の地形。舌状台地の根本側を守る広い堀や出丸(天王丸)。
先人の投稿で予習すると、アプローチは、3通り。私と前後して訪問された、とある煩悩の登城目録さんは、南西の大手道から行かれたのでしょうか。南麓の民家の私道みたいなところを抜けて行きます。田んぼの畦道は鹿、猪対策の柵が張り巡らされて、通れません。大手道登城道は整備、維持されてます。2019年11月に訪問された、ぴーかるさんは、国道沿いの駐車スペース、説明板の脇からの登城道を使われたようです。当時は、きれいに伐採されていると投稿されています。説明板に、「能勢地黄城築城400年記念事業2015.4」とあり、このときに、大手道とは別に、国道からアプローチしやすい道を作られたのかと思われます。2023年12月に訪問された、屠岸賈さんは、駐車スペースからの道は「薮藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます」とレポートされてます。該車道から、天王丸に取りつくことができます。今回、登りは、駐車スペース脇から、行ってみました。冬場ながら、すすき等が生えて道が薄くなっています。丸太の土どめをたよりに進みますが、崩れ気味。本丸下の帯郭の道痕が薄くなっているところをわりと長く横移動させるので、ちと不安になります。最後に切岸を登って、三の丸にでます。下山は、大手道を使いました。大手道及び城域は、下草もなく、見学しやすいです。二ノ丸の小さなお社の木札が倒れてたので戻しておきました。

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能勢氏の城 (2024/01/11 訪問)

 能勢氏の城で、登城路は整備されていて散策しやすい城址です。曲輪跡、堀切、竪堀、土塁が残っています。

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李牧

北側からの登城路 (2023/12/03 訪問)

R477沿いの駐車スペースからの登城路は藪で覆われ通行不可。少し北に歩き、Pみちくさの奥の小径に行くと、切通の脇から簡単に登れます。

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明
築城主 能勢頼国
築城年 長元年間(1028〜1038)
主な改修者 不明
主な城主 能勢氏
廃城年 慶長7年(1602)
遺構 曲輪、帯曲輪、堀切
住所 大阪府豊能郡能勢町地黄
問い合わせ先 能勢町教育委員会生涯学習課社会教育係
問い合わせ先電話番号 072-734-2452