「元就と 苦楽共にし 郡山城(もとなりと くらくともにし こおりやまじょう)」
大永3年(1523)に元就公が毛利家の家督を継いでから永禄13年(1570)で亡くなるまで、郡山城は元就と共にありました。
その間に異母弟の相合元綱を殺害したり、尼子晴久率いる三万の大軍に攻められたり(吉田郡山城の戦い)と、いろいろしんどい時も有ったようです。
元綱との仲は良好だったようですが、元就の家督相続に不満を持つ家臣が元綱を担ぎ出し謀叛を計画、しかし元就に察知されて船山城で元綱は討ち取られました。この事件は毛利家の黒歴史として、元就にとっても触れたくない案件であったようです。
「三矢の訓」の元となった「三子教訓状」には息子たちに一致協力して毛利家を盛り立てていくよう書き残してあり、自ら弟を殺めたことへの後悔があったのかもしれません。
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