三矢の訓 継がるる 吉田郡山城
「三矢の訓」も「百万一心」も「団結」を謳っているのでどっちかでいいかな…と。収まりの悪い「吉田郡山城」と合わせるには(音数の少ない)「三矢の訓」オンリーで詠んでみました。なんとかうまく着地させたと思いますが,いかがでしょうか…?
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!
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2023/04/05 20:46
【かるた】吉田郡山城の読み札 (2021/10/08 訪問)
三矢の訓 継がるる 吉田郡山城
「三矢の訓」も「百万一心」も「団結」を謳っているのでどっちかでいいかな…と。収まりの悪い「吉田郡山城」と合わせるには(音数の少ない)「三矢の訓」オンリーで詠んでみました。なんとかうまく着地させたと思いますが,いかがでしょうか…?
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2023/03/31 21:23
【かるた】吉田郡山城の読み札
百万一心 三本の矢が守る 吉田郡山城
毛利元就は吉田郡山城の普請のときに人柱に代えて「百万一心」と書かれた石を埋め、みんなで心と力を合わせてことにあたるように教えたとされています。三本の矢の教えとともに一致団結の大切さを示したものです。その心が尼子の大軍の猛攻にも耐えられたのでしょう。その一方で毛利元就は敵に対しては一致団結を壊すことを得意としていたように思います。
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2022/08/29 13:43
吉田郡山城 (2020/11/08 訪問)
南北朝時代の1336年(建武3年)毛利時親が郡山南東に小規模な山城を築いたのが始めといわれる。16世紀中頃、毛利元就は標高390mの郡山全体を要塞化し、山頂の本丸を中心に多くの尾根に270もの曲輪を配した西日本最大級の中世山城に拡張改造した。その後、元就の孫の輝元も城の整備を行ったが、山城の限界から広島城を築いて1591年(天正19)本城を移した。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は大きく所領を削られ周防・長門へ移り、広島城・郡山城を含む安芸は福島正則に。江戸初期に廃城となり、石垣や土塁の一部や曲輪の跡がある。
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2022/08/28 12:41
身近なお城 (2020/10/16 訪問)
尾根を巧みに開発して広げていったことを感じました。
同じ山城でも、春日山城には高さを感じましたが、郡山城は横への広がりを感じました。
満願寺跡は今でも荘厳な空気に包まれています。
登城口にある清神社(すがじんじゃ)の杉がとても立派です。
近所の幼稚園の遠足なのか、子どもが城に登っていて、お城が身近な存在なのだと思いました。
この日は朝イチに郡山城、夕方に新高山城の山城ダブルヘッダーでした。
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毛利氏の先祖が築いた山城を、元就が戦国大名として勢力を伸ばすと共に整備拡大されていった。山頂の本丸を中心に大小の曲輪を築き、その数は270を超えたといわれている。今は建物がなく石垣もわずかに残るのみだが、登山道沿いに多くの曲輪跡が見られる。
大永6年8月10日(新暦1523年9月19日)に毛利元就が郡山城へ入城してから今年で500年! 入城記念事業の一環で、郡山城など毛利氏の城を描いた絵図類を所蔵資料の中から紹介する企画展を開催。5月14日・28日、6月11日・25日(いずれも日曜日)の11:00~11:30には、学芸員(秋本哲治副館長)による展示解説も(申込不要)。 会期:4月29日(土)~6月26日(月)火曜休館 入館料:500円
※ 内容は変更となる可能性があります、予めご了承くださいませ。
城地種類 | 山城 |
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築城年代 | 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336) |
築城者 | 毛利時親 |
主要城主 | 毛利氏 |
文化財史跡区分 | 国史跡(毛利氏城跡) |
近年の主な復元・整備 | 毛利元就、毛利輝元 |
天守の現況・形態 | 不明 |
主な関連施設 | 石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸 |
住所 | 広島県安芸高田市吉田町吉田 |
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問い合わせ先 | 安芸高田市生涯学習課 |
問い合わせ先電話番号 | 0826-42-0054 |