五龍城から江の川沿いを下り、郡山城へ。五龍城では誰にも会いませんでしたが、さすがに郡山城、炎天下でもちらほら登城者の姿が。
麓の毛利元就像を超えたところを右に行き、毛利の勢力がまだ国人規模の時期の城:本城に向かいました。途中に展望台があり、麓から見える、毛利の家紋が掲げられている所です。尼子が攻めて来たときの陣地がそう遠くない距離に見えます(吉田盆地は広くない)。本城は、郡山からいったん鞍部を経て岬状に伸びた尾根を利用しています。尾根の両側は急斜面で、背後を堀切って守ります。けっこう大きいですが、厳しい地形を利用した、国人規模と言えましょう。
拡張された郡山城は規模で圧倒する感じ。城内最大の郭である勢溜の壇は、これだけで、本城よりも大きいです。本丸に行く道は、勢溜の壇の下を100mほども進みます。突破するのは無理。一族郎党が皆、郡山城内に居住したと。それで、300ほどもの郭が要ったのですね。
毛利元就、一族墓所を経て、下っていくと、谷筋に内堀跡の説明板が。山麓および西の谷に堀があったのを知りませんでした。
大毛利になり、郡山城と吉田盆地は、さすがに手狭になって、江の川下流 太田川河口に広島城を作って移っていきます。私も次に広島城に向かいました。
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