高舘山の中腹から山頂付近にかけて築城されている城址です。安元元年藤原秀衡が館を築き、文治5年の奥州合戦の時には、藤原勢が立て籠もり鎌倉勢を迎え撃ったと伝わります。その後、永禄年間には名取、苅田、柴田、黒川四郡を領有した伊達稙宗が支配の拠点とし、家臣の福田駿河守を置いていたとされます。
主郭を中心に取り囲むように曲輪を設けています。
高舘城の上方にある熊野那智神社から登城しました。歩いて行くと南之丸と秀衡ヶ崎の間の堀切に到達します。秀衡ヶ崎は藤原秀衡が築いたと伝わる砦部分で緩やかな平坦地となっていて先端には堀切がありました。元の道に戻り歩いて行くと蔵王山と彫られた石碑などがあり主郭へ上がることができます。もう少し先にも高舘城の標柱があり、そこからも上がることができますが、少し藪になっていました。主郭は思っていたより広く南北約100m弱、東西約50m弱あるようです。西側にはいい感じの高土塁がありますが、周囲は藪で全容を把握できません。周囲の曲輪を少し歩いてみましたが、全体的に藪になっていて足元も長く伸びた草や折れた木などが重なっていて歩きにくかった。ネットなどをみると他にも堀切や空堀があるという情報もありましたが、藪となっている場所も多く周囲の曲輪を含め十分に散策できませんでした。藪漕ぎはしない、無理はしないと決めていますが、帰って来てあらためて本やネットの情報を見ると、もう少し無理してもよかったんじゃないかと思うことも多いです。
麓からも登城路がありますが、車で行かれる方は熊野那智神社まで上がると近くに高舘城の説明板と案内標識があります。10分くらい降りて行くと城址に行くことができます。
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