あがじょう

英賀城

兵庫県姫路市


旧国名 : 播磨

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英賀神社
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赤い城

城域は広いが (2024/03/24 訪問)

播磨三城の一つで戦国末期には三木氏が城主となった城です。
水尾川と夢前川が合流する部分の北側にあり、結構な広さがあったようです。

現在は宅地化され、遺構はほとんどなさそう。
とは言えまずは英賀神社へ。
神社の裏手に土塁が残っています。
土塁の石碑も立っているのでその時代のものと思います。
隣接する英賀城公園には謎の模擬天守台、しかも一部崩れていました。

この公園の端に石碑がある他、何箇所かに石碑があるようですが時間なく見きれず。
とりあえず本丸跡とされる場所の大きな石碑と説明板のところまで行って退却しました。

目立つ遺構はないものの時間をかけて歩くと街中遺構ハントが楽しめるかもしれません。
また行くことがあれば試して見ようかな。

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しんちゃん

三木氏の海城 (2023/12/30 訪問)

英賀城は永享年間(1429~41)の初めに赤松祐尚によって夢前川の河口に築かれたとされています。祐介の死後は三木通近が在城し三木氏の城となって規模を広げていったようです。英賀城は一方を海に面した海城のような城であったようです。戦国時代後半に最盛期を迎え、蓮如上人の子・実如上人を迎え英賀御坊が城内に設けられたそうです。城主・三木通秋は城下の門徒と共に大阪の本願寺を助け信長と対立しますが、天正5年からの羽柴秀吉の播磨攻めによって播磨全域に戦場が広がり、天正8年に三木城に続いて落城したそうです。
本丸跡の石碑から北西に800mほどの場所に英賀城跡公園が有り野中口之跡の石碑と模擬石垣が有ります。そこから南にある英賀神社には土塁と石碑が建っていました。他にも岡芝口之跡やら井ノ上口之跡など石碑がいっぱいあって、かなりの城域を持っていたことが伺えます。
見きれまへん‥。

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ぴーかる

英賀城 (2023/01/25 訪問)

【英賀城】
<駐車場他>駐車場はなし。津田公園駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>英賀城の築城は永享年間(1429~1441年)に赤松祐尚(嘉吉の乱当事者の赤松満祐の弟)によって築城されました。私の覚書には主な城主にその弟の赤松則友が英賀城主となっているので嘉吉の乱の後、ごたごた城主が変わったのでしょうか。戦国時代後半には三木氏の支配することとなります。三木氏は毛利氏に同盟して毛利の軍勢を上陸させます。これを小寺孝隆がたたくわけです(英賀合戦)。別所氏が離反して毛利氏に付いたことで支援したが三木城落城後に織田軍の猛攻を受けて落城しました。
 上記公園に駐車し徒歩で広辻口跡石碑⇒本丸跡石碑⇒井ノ上口跡石碑⇒河下口跡石碑⇒岡芝口跡石碑⇒英賀城跡公園模擬石垣・野中口跡石碑⇒山科口跡石碑⇒英賀神社土塁の順で巡った。全ての虎口跡を巡ってはいないが、行った内を巡るだけでもかなり時間を要したので相当な規模の城だったことを思わせた実体験。

<満足度>◆◇◇

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英賀神社 (2022/09/08 訪問)

 赤松氏が築いたとされる城です。英賀神社拝殿裏には土塁があります。城域の各所には各所に石柱が立っています。英賀薬師堂にも土塁もありましたが藪で分かりにくい状態でした。英賀城公園内には櫓台のような模擬石垣があります。どのような意味があるのでしょうか。山陽電鉄網干線「西飾磨駅」より石柱を巡りながらJR山陽本線「英賀保駅」へ行き帰途につきました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 赤松祐尚
築城年 永享年間(1429〜1441)
主な城主 赤松氏、三木氏
廃城年 天正8年(1580)
遺構 土塁(英賀神社)
再建造物 石碑、説明板、模擬石垣
住所 兵庫県姫路市飾磨区中浜町2
問い合わせ先 姫路市広報課
問い合わせ先電話番号 079-221-2073