郷柿沢館からの転戦です。墓地を囲むように空堀が残っています。立派な城址碑と説明板までついているので、これでもう十分に満足いたしました。すでに正午を回っていて空腹感も覚えていたので先を急ぎます。
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2025/11/01 07:38
2025/06/22 10:58
がんばれ佐々軍団!! (2025/04/12 訪問)
日中城は白岩川の左岸の段級の上に築かれています。単郭のシンプルな平城(平山城?)ですが周囲を土塁と空堀で囲まれていて、城址をそのまま墓地に転用しているので破壊されることも無く、状態を良く残しています。良い墓地であり、良い城址です。
天正11年(1583)4月に佐々成政が弓庄城の城主・土肥政繁を責める際に築いた4つの砦の一つで、攻撃用の付城とされています。付城を使った戦術は織田信長配下の頃から豊臣秀吉が得意とした戦術で、福岡県の大三岳城の周辺には周辺の山を覆い尽くすほどに吉川・小早川の付城が築かれています。
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2022/08/29 06:37
2022夏の青春18キップ12日目:日中城 (2022/07/31 訪問)
宿泊先のホテルルートイン富山インターから、墓地付近空スペース(36.674027、137.355203)に着きました。
1583年(天正11年)佐々成政によって築かれたようです。
弓庄城の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従っていましたが、1578年(天正6年)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従うようになりました。
しかし、1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が没すると、再び上杉方に通じるようになりました。
これに対して佐々成政は、1582年(天正10年)から1583年(天正11年)にかけて、越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻しました。
佐々成政は弓庄城主・土肥政繁を攻める為、4つの砦を築きますが、日中城や郷田砦はその付城であったといわれています。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けますが、豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川へと退去したそうです。
現在は墓地となっています。崖となっている東側(白岩川)を除く三方に土塁と堀が巡らされていますが、草が凄くわかりにくいです。
虎口は南西にあり土橋が架かっています。土橋脇には立派な城址碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=弓庄城に向かいます。
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| 分類・構造 | 平城 |
|---|---|
| 築城主 | 佐々成政 |
| 築城年 | 天正11年(1583) |
| 主な城主 | 佐々成政 |
| 遺構 | 曲輪、土塁 |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 富山県中新川郡立山町日中字墓ノ段 |