宿泊先のホテルルートイン富山インターから、墓地付近空スペース(36.674027、137.355203)に着きました。
1583年(天正11年)佐々成政によって築かれたようです。
弓庄城の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従っていましたが、1578年(天正6年)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従うようになりました。
しかし、1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が没すると、再び上杉方に通じるようになりました。
これに対して佐々成政は、1582年(天正10年)から1583年(天正11年)にかけて、越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻しました。
佐々成政は弓庄城主・土肥政繁を攻める為、4つの砦を築きますが、日中城や郷田砦はその付城であったといわれています。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けますが、豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川へと退去したそうです。
現在は墓地となっています。崖となっている東側(白岩川)を除く三方に土塁と堀が巡らされていますが、草が凄くわかりにくいです。
虎口は南西にあり土橋が架かっています。土橋脇には立派な城址碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=弓庄城に向かいます。
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