岩崎一揆の終結後、和賀忠親は徳川家康の尋問を受けるため伏見に護送されることとなりますが、仙台城下の国分尼寺で近臣とともに切腹します。国分尼寺には和賀主従の墓があります。旧領奪還を企てたこの一揆は、伊達政宗の働きかけが(水沢白石氏が参戦)あったようで、口封じに政宗によって殺害されたという説もあるようです。
慶長7年(1602)、忠親の子主馬義弘(松山初代)は賓客待遇で仙台藩領の松山郷千石村に禄を受けます。一揆から75年後の義直(松山三代目)の代に仙台藩士として召し抱えられます。
松山郷千石村は私の住む大崎市の松山にあり、現在も和賀氏屋敷跡が残っています。
国分尼寺 仙台市若林区白萩町34-5
和賀氏屋敷跡 宮城県大崎市松山次橋和賀山
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