豪雨の中校門周りだけ撮影しました。
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2023/07/16 22:29
2022/12/28 21:39
2022/11/15 21:41
お散歩 (2022/10/25 訪問)
跡地(推定地)とされる戸塚高校の門の前まで行ってきました。当時を想う縁となるものはありませんが、それも時の流れの中では自然なことかと。
写真②は最寄りの踊場駅にあった地名の由来です。
ここから次の岡津城までは3kmくらいだったので歩いて行きました。途中、冠雪した富士山🗻がきれいに見えました。
かつて、登下校を“登山・下山”と言う戸塚の山の上の学校に通っていたので、何もなくても懐かしさを感じるお散歩でした。たしか東戸塚あたりで電車から牛🐄も見えたな…。
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2022/05/07 08:58
横浜市11城巡り⑧:畠山重保館 (2022/05/06 訪問)
野庭関城からの転戦です。横浜市11城巡り8城目は畠山重保館です。
6月の九州遠征前の、なまった足腰のリハビリを兼ねた攻城(PART4)です。
踊場駅より徒歩10分くらいで戸塚高校校門前(35.400272、139.516109)に着きました。
現在の横浜市戸塚区汲沢町で源氏山と呼ばれる小山付近の小字で六郎丸にある陣屋跡が重保の居館であったという
重保は1205年(元久2年)6月22日早朝、北条時政の後妻の娘婿である平賀朝雅との確執から、謀反を企てたという疑いをかけられ、由比ガ浜に呼び出された所を、時政の意を受けた三浦義村によって討たれます。
重保が殺されたことを知らずに鎌倉へ向かっていた父重忠は、北条義時率いる重忠討伐軍に攻められて討死し、平姓畠山氏は滅亡しました(畠山重忠の乱)。
重忠旧領と畠山の名跡は、重忠未亡人の北条時政の娘と、足利義兼の庶長子足利義純が婚姻して継承されました。
なお、義純が婚姻したのは重忠と北条時政の娘との間に生まれた女性(つまり、重保の同母姉妹)との異説もあるようです。
遺構や石碑など何もありませんでした。
戸塚高校校門の写真を撮って撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
天守構造 | なし |
築城主 | 畠山重保 |
築城年 | 正治年間(1199〜1201) |
主な城主 | 畠山氏 |
遺構 | 消滅 |
住所 | 神奈川県横浜市戸塚区汲沢2(推定地) |