畠山重保館は横浜市立戸塚高等学校が推定地とされているようです。周囲より少し高台になっていますね。
畠山重保公は武士の鑑と言われた畠山重忠の息子で、母が北条時政の娘であったため嫡子としての扱いを受けていたようです。元久2年(1205)6月に北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅との確執から謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜で時政の意を受けた三浦義村に討たれてしまいました。
父の重忠も武蔵国の二俣川で北条義時を中心とする鎌倉の討伐軍に討たれ、重忠の次男・重秀らも自害したとのことです。
この一連の出来事は鎌倉の中に暗い影を落とします。重忠は無実であったと義時は主張し、時政は人望を失い後に牧氏事件(源実朝暗殺未遂)を起こして失脚します。畠山討伐に加担した稲毛重成や小沢重政(重成の子)榛谷重朝(重成の弟)らは責任を取らされ三浦吉村に殺害されたとのことです。結果を見ると重忠・重保らを討った北条義時・三浦義村らが勢力を伸ばすという不思議な結果になっています。
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