よいたじょう

与板城

新潟県長岡市

別名 : 直江山城、直江城
旧国名 : 越後

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直江兼続公像
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しんしんちゃん

屋敷跡やら城門やら銅像やら (2019/08/14 訪問)

与板城の麓には城主直江兼続公の屋敷跡があり案内板が建っています。与板歴史民俗資料館(兼続お船ミュージアム)には地域の歴史や直江兼続公に関する展示も充実し、直江兼続公の銅像もありました。与板城(陣屋のほう)は戊辰戦争で焼けてしまいましたが恩行寺に切手門、西本願寺別院に大手門が移築されています。与板城も本与板城と合わせて三つあるんですね。

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しんしんちゃん

千人溜が特徴的な直江氏の居城 (2019/08/14 訪問)

少し写真が古いのだけど与板城の投稿です。八坂神社から続く遊歩道を登っていくと本丸に到達し、そこから二の丸・三の丸と続き間は空堀で区切られています、主要部の先には大空堀を経て千人溜と呼ばれる大扁平地があります。比較的コンパクトにまとめられた良い山城に大勢の兵を駐留できるスペースが付いている珍しい山城です。
飯沼氏が没落した後、直江氏が与板に入り実綱(景綱)・信綱・養子の兼続(養子だったんですね)と三代続き上杉景勝の会津移封に伴い廃城になったということです。

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与板陣屋 (2023/05/05 訪問)

 寛永十一年(1634年)に長岡藩初代藩主牧野忠成の次男康成で、1万石で入封しましたのが与板藩の始まりとされています。牧野氏は元禄二年に小諸に移封されました。その後、天領を経て、井伊氏の庶流である井伊直矩が二万石で入封し、井伊氏が明治まで治めました。文化元年(1804年)井伊直朗のときに城主格となり3年の歳月をかけて与板城(與板城)を完成させたとのことです。戊辰戦争で焼失したとのことです。冠木門が復元されています。また徒歩圏内の本願寺新潟別院には移築された大手門があります。近くには与板歴史民俗資料館と直江兼続像ありました。
本与板城から与板城へ行く途中にありました。同じ与板城の名があり与板城の周辺観光で投稿させていただきました。

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直江兼続 (2023/05/05 訪問)

 上杉景勝の重臣直江兼続の居城です。直江氏は本与板城を拠点としていましたが、信綱の時代に与板城に移したと考えられています。
八坂神社の裏から登城したのですが、道は概ね整備されていて主な場所は歩きやすいと思います。誤算は実城(本丸)が立入禁止となっていたことです。後で長岡市のHPを確認すると
「頂上実城跡地の「城の一本杉」に倒木の危険があるため、令和5年3月13日(月)より、安全を第一に考え実城跡の城山稲荷神社周辺を立ち入り禁止にさせていただいておりますが、管理者の申し出により、安全確保のため城の一本杉を伐採いたしますので、ご理解いただきますようお願いします。伐採作業は5月8日(月)より5月12日(金)までを予定しております。」
と書いてありました。事前に確認していなかったので少しショックでした。
ただ、この城の魅力は実城を越えた後にあります。実城、二の丸、三の丸の間にある堀切、その後も千人溜まで尾根に堀切があります。千人溜前の大堀切は広すぎで私のカメラでは収まりません。三の丸の東側にも曲輪が展開していて先には堀切を見ることができますが、藪と倒木で少し難渋しました。おせん清水も藪になっていてわかりにくい状況でした。季節的なこもあるかもしれませんが、諸先輩の方々の写真と比べると全体的に藪や倒木が多くなっていることがわかります。大河ドラマ「天地人」の放送から時間が経過したこともあるのでしょうね。のろし山へは思っていたより時間がかかりそうでしたので行っていません。
実城に入れなかったのは残念でしたが、全体としては遺構がよく残っていて見ごたえがありました。

本与板城より徒歩にて登城口へ行きました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 直江景綱
築城年 天正年間(1573〜1592)
主な城主 直江氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、井戸跡
指定文化財 県史跡(与板城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 新潟県長岡市与板町与板字十二谷
問い合わせ先 長岡市与板支所産業課
問い合わせ先電話番号 0258-72-3100