応仁の乱において西軍が船岡山に築いた陣城で、戦国前期には細川政賢が籠って大内義興と戦いました(船岡山合戦)。また戦国後期にも足利義輝が布陣して三好長慶と対峙しています。
船岡山の南西麓に自転車を駐めて登城開始。長く続く階段を見上げると、6年前に早春の雨に打たれながら自転車を走らせてここまで来たものの、この階段を見上げたところで心が折れて登城を断念したことが思い出されます。…船岡山城よ、私は帰ってきた! このイオは6年待ったのだ!(ガトー風に)
船岡山の西部は船岡山公園として整備され、東部には建勲神社が鎮座しています。南西の山頂部は東西二段に細長く削平されていますが、公園整備よるものか城郭遺構は見られません。比高は50m程度ながら独立丘のため周囲の見晴らしは良く、陣城には最適の地であることがわかります。山頂部北側の山腹には塹壕のような横堀が東西に長く続き、北麓からの侵攻に備えています。横堀は西端では竪堀となって落ち、東端からは北西に折り返して続いていました。横堀北端近くの削平地は展望所となっていて、眼下には広大な大徳寺が広がっています。
船岡山は豊臣秀吉により織田信長の霊地とされ、明治に信長を祭神とする建勲神社が創建されました。まずは建勲神社に参拝。拝殿には秀吉や柴田勝家、丹羽長秀ら家臣団を描いた額が掲げられていました(金森長近は…?)。縄張図によれば、本殿の奥には堀切・竪堀・竪土塁・横堀を複雑に組み合わせた遺構がある…はずですが、柵に鉄条網までめぐらせて立入禁止になっているため、北裾と南裾から柵越しに覗くことができるのみです。
…ということで、6年越しでリベンジを果たすことができましたが、遺構としては山腹の横堀くらいしか見るところはなく、入れ込んでいた割には…という感じでした。ただ、眺望と建勲神社、そして様々な合戦の舞台に立っているんだ、という感慨は悪くありませんでした。
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