亀居城は関ヶ原の合戦の後に安芸国50万石に封じられた福島正則が毛利氏への押えとして築いた城です。慶長8年(1603)から5年をかけて築かれた総石垣の壮大な城で、続百名城の城郭と比較しても遜色ないほどの立派なものです。
広島城の支城としての域を超えている城であったため、疑念をいだいた徳川家より破城を命じられ慶長16年(1611)廃城になったとされています。
現在は亀居城公園として整備がされていて城址のすぐ近くまで車で行くことができます。北西に本丸が築かれ、立派な天守台が備わっています。南東に段状に二の丸、有の丸、なしの丸と続き、下方に腰郭が備わっています。本丸からの眺望はすばらしく遠く瀬戸内海や周防国を見渡せます。
亀居城が破城となった慶長16年6月24日(1611/8/2)にはかつての盟友、加藤清正が亡くなっており、毒殺のうわさが絶えません。慶長10年5月には織田秀信、慶長7年10月18日には小早川秀秋が不審な死を遂げています。
想像になりますが福島正則が素直に破城に応じなければ彼らと同様の最期を迎えていたかもしれません。晩年は大幅に所領を減らされ、死後も遺体を勝手に火葬にしたとして残る所領を没収されています。ちょっと酷すぎると思います。
+ 続きを読む