かめいじょう

亀居城

広島県大竹市

別名 : 小方城
旧国名 : 安芸

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たか

石垣のすばらしさ (2024/10/08 訪問)

皆さんの投稿で続々100名城に登録をなんて書かれていたので岩国城を登城した後に行ってまいりました。
高速道路の脇の道を登るとすぐに駐車場がありそこに止めて歩きました。

そしていきなり「なしの丸?有の丸?」という不明な郭あとが。
いきなりの掴みになんじゃそりゃなんて思いながら進んで行くとすぐに石垣が現れる。
説明板があって石に刻印があるとのこと。
すぐに発見。あちこち刻印探しに没頭(笑)
そのうえ、石を切り出すために利用した鏨の跡が無数にあるではないですか。
いやーこれは良いものを見せてもらったなと本丸の方へ行くと立派な石垣造りの枡形虎口に凄いと声が出たその時、虎口を抜けて天守台を見た時の感動。
「なんだこれは!」こんなに間近で立派な石垣はなかなかお目にかかれません。
そのうえそこから海への眺望。
柵の上になぜか誰かが置いた栗が二粒(笑)
その二粒が景色を楽しんでいるようで微笑ましい。

その後、本丸を降りて歌碑をスルー(すみません興味が無くて…)して下方からの石垣を撮影して感動!
タモリさんが石垣を好きだと言われて興味を持ち始めたこの城巡り。
わたしの中での現時点1位の石垣は間違いなく亀居城です!
ぜひ皆さん見に行ってください。
ちなみにわたしは日が暮れるまで景色も含めて堪能してしまいました。

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シャンシャン

悲運な城 (2024/06/07 訪問)

幕府の命により、築城後わずか3年で廃城になったという悲運な城。
所々修復された石垣はあれど、敷地内はきれいに整備された公園になっており、100名城や続100名城に全く劣らない総石垣の立派な城跡。
本丸から海岸沿いの工業地帯が良く見えて、江戸時代の城跡と現代文明のコントラストが面白い。
石垣に様々な種類の刻印があり、それを探しながら回るのもまた一興。

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しんちゃん

無残にも破城を言い渡された総石垣の城 (2024/01/01 訪問)

亀居城は関ヶ原の合戦の後に安芸国50万石に封じられた福島正則が毛利氏への押えとして築いた城です。慶長8年(1603)から5年をかけて築かれた総石垣の壮大な城で、続百名城の城郭と比較しても遜色ないほどの立派なものです。
広島城の支城としての域を超えている城であったため、疑念をいだいた徳川家より破城を命じられ慶長16年(1611)廃城になったとされています。
現在は亀居城公園として整備がされていて城址のすぐ近くまで車で行くことができます。北西に本丸が築かれ、立派な天守台が備わっています。南東に段状に二の丸、有の丸、なしの丸と続き、下方に腰郭が備わっています。本丸からの眺望はすばらしく遠く瀬戸内海や周防国を見渡せます。
亀居城が破城となった慶長16年6月24日(1611/8/2)にはかつての盟友、加藤清正が亡くなっており、毒殺のうわさが絶えません。慶長10年5月には織田秀信、慶長7年10月18日には小早川秀秋が不審な死を遂げています。
想像になりますが福島正則が素直に破城に応じなければ彼らと同様の最期を迎えていたかもしれません。晩年は大幅に所領を減らされ、死後も遺体を勝手に火葬にしたとして残る所領を没収されています。ちょっと酷すぎると思います。

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くらのり

亀居城 (2020/03/14 訪問)

毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなった。1603年(慶長8年)に山陽道を押さえる要地に築城が開始され、5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。
城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として城に入った。豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まると豊臣恩顧の福島氏への徳川氏の圧力が非常に強くなり、正則は徳川氏の意向に従うこととなった。結局、亀居城は完成よりわずか3年後の1611年(慶長16年)に破却され、その役目を終えた。天守や主要な建造物は撤去された。

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明
築城主 福島正則
築城年 慶長13年(1608)
主な城主 山田小右衛門・森左介(福島氏家臣)
廃城年 慶長16年(1611)
遺構 曲輪、天守台、石垣、土塁、堀切、井戸
指定文化財 市史跡(亀居城址)
再建造物 石碑、説明板
住所 広島県大竹市小方2(亀居公園)
問い合わせ先 大竹市地域振興課
問い合わせ先電話番号 0827-59-2131