こうづきじょう

上月城

兵庫県佐用郡

別名 : 太平山上月城(前期)、荒神山上月城(後期)
旧国名 : 播磨

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①主郭
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征13日目:上月城 (2026/05/23 訪問)

上月駅から徒歩10分ちょっとで、上月歴史資料館付近の遊歩道入口(34.977738、134.3246629)に到着しました。
ちなみに本日は土曜日なので、上月歴史資料館(10:00~16:00)は開いていましたが、靴を脱いでの見学だった為、靴下がグショグショの自分は遠慮しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に上月景盛が大平山に上月城を築いたのが始まりとされるようです。
1441年(嘉元年)4代景家の時、嘉吉の乱が発生し、上月氏の嫡流は滅び、上月城は播磨・備前・美作三国の境界に位置する地理的要素から攻防の的となりました。
1538年(天文7年)に尼子氏に攻略され落城した後、1557年(弘治3年)に赤松一門で「西播磨殿」と呼ばれたと伝わる政元が置塩城から入城。大内氏らとの激しい攻防戦の末、宇喜多直家によって攻め落とされます。
1577年(天正5年)織田信長の部将羽柴秀吉が福原城を攻略して上月城を攻めます。
上月城は赤松政範が籠もり宇喜多直家が救援に駆けつけますが、高倉山に本陣を構えていた羽柴秀吉によって上月城は落城し、政範は自刃して果てた。
その後、尼子勝久が入城しましたが、1578年(天正6年)毛利軍に攻められ、三木城攻めに手を焼いた秀吉軍に見放されてあえなく上月城は落城、尼子氏は滅亡しました。

現在は土塁や石垣、堀切などの遺構が残るほか、本丸に赤松氏の供養塔、麓には尼子氏の供養塔が残されています。
二ノ丸と三ノ丸の間で利神城方面の眺めます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=三星城を攻城する為、上月駅からJR姫新線で林野駅に向かいました。

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トク

7【秀吉の播磨平定をたどる②】上月城(亡霊たちの声が・・😱) (2026/06/11 訪問)

姫路11:25発のJR姫新線の昼間唯一直通の上月行に乗り70分、終点上月で下車しました。駅から上月城歴史資料館(登城口)までは徒歩で15分程でしたが、資料館は平日だったので休館でした😯(土日祝のみ開館)。気を取り直し登城開始します。主郭までは、20分程の軽い登りで到着しました。

主郭からその先の二郭へ行くと利神城までかすかに見えました。そしてさらにその先の日高集落へ下りる道には、大堀切があり何段もの曲輪があちこちにあります。こじんまりした城ながら、かなりの防御が施された城だと感じました。にもかかわらず・・・🤔。

1577年、赤松氏が守る上月城を難なく落とした秀吉は、尼子家再興を夢見る尼子勝久と山中幸盛を入れます。しかし翌年、三木城の別所長治が離反すると、呼応するように毛利軍3万が押し寄せて来ました。尼子軍を助けに行こうと高倉山に布陣した秀吉ですが、すでに毛利の大軍に囲まれているのを見て、手も足も出せません。そして4カ月後、信長の命で秀吉は上月城を見捨て、三木城に向かいます。

秀吉は勝久に城から逃げるよう再三に渡って手紙を書いたそうです。しかし勝久と幸盛は、秀吉の援軍がここまで来るのを信じて、あくまで籠城を続け死守しようとしたようです。それは何故だったのでしょうか?

今日も最初から最後まで誰にも会わなかったので、再び主郭に戻りポツンと一人でベンチに座って考えていると、急に風で木々がざわつき始め、気温30度にもかかわらずひんやりとした冷たい風が吹き、何やら木々のざわつく音が、嘆き苦しむ亡霊たちの声のように聞こえて、背筋がぞっとしてしまいました(😱~!)。そういえばここは、何百人もの人々が磔(はりつけ)や串刺しにされ、尼子勝久とその家臣たちが切腹し亡くなった場所だったのですね。

主郭からわずかに見えた木々の隙間から、秀吉が布陣した高倉山が見えました。大河ドラマでは、秀吉があそこから土下座をして詫びていたシーンがありました。その秀吉軍が去り、尼子家再興の夢が破れた勝久は、どんな思いでここからあの高倉山を見つめていたのでしょうか?

帰りは姫新線の姫路行直通がなかったので、15:25発の作用行に乗り、作用で智頭急行に乗り換え、上郡・相生・山陽線経由で姫路へ戻りました。接続が意外とよく80分で戻れました。姫新線は本数が少ないのでこのルートもありかもしれません。

次は官兵衛ゆかりの地、小寺氏の御着城へ向かいます。
 

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しんちゃん

尼子氏最期の城 (2025/04/07 訪問)

上月城は天正5年(1577)と6年(1578)の二度に渡って凄惨な戦いに巻き込まれています。一度目は織田方の羽柴秀吉による侵攻によるもので、城主は毛利方の赤松政範でした。上月城は程なく落城しますが、その際に秀吉は城内の者に対して、かなり残酷なことをやらかしているようです。
その後、上月城には尼子勝久・山中鹿介主従が入りますが、天正6年4月には毛利方の小早川・吉川勢の大軍に包囲され、信長が秀吉に撤退を命じたため上月城は孤立無援に陥り落城、尼子勝久は切腹し尼子氏は滅びました。

歴史の重みをひしひしと感じますが、城址は意外なほどにコンパクトです。川の対岸に歴史資料館があり、車はそこに駐車することが出来ます。東から登城道が付いていて、いくつかの腰郭と堀切を過ぎると、主郭にたどり着きます。主郭にある供養塔は最初に落城した際に落命した赤松氏らを弔ったもののようです。主郭から西へ尾根沿いに進んでいくと二の丸となり先には堀切があり、そのまま下ると城址の西側に降りてくるので、歩いて駐車場まで戻ります。
堀切もだいぶ埋まっていて、尼子氏最期の城としては「地味」な印象もありますが、山城としては訪問しやすい方なので、その分「情緒」を楽しむことが出来ると思います。

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山中鹿之助 (2024/01/06 訪問)

 山陰の覇者であった尼子氏の再興が潰えたことで知られる城です。
上月歴史資料館前から登城しました。登城路は整備されていて歩きやすく、主郭までは約20分で行くことができました。曲輪跡、浅くなっていますが堀切等を観ることができます。眺望はよく利神城方面まで観ることができるようですが、この日は小雨が降っていてよくわかりませんでした。早めに西側の堀切を過ぎたところで下山しましたが、そのまま目高集落方面へ歩いて行くと砦跡があるようです。雨も降ってきていたことあり早めに下山すると晴れ間が見えるようになりました。

 JR姫新線上月駅から徒歩約10分で登城口のある上月歴史資料館に行くことができます。電車の本数は少ないので要注意です。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 上月景盛
築城年 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)
主な城主 上月氏、赤松氏、尼子勝久
廃城年 天正6年(1578)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
再建造物 碑、説明板
住所 兵庫県佐用郡佐用町上月