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カズサン

前九年合戦安倍貞任の陣城1/2 (2024/05/24 訪問)

 東北城探訪5日目宮城県1日目の第1城目、花山館へ初登城、別称に渕牛館、華山館とも呼ばれてる。

 駐車場:東麓の広大な駐車場(38°47'04"N 140°51'52"E h=190m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 今回の東北城探訪の主目的は三内丸山遺跡と安倍安藤氏の未踏の城探訪であり宮城県の花山館が今回最後の探訪と成ります。
 案内解説板には築城者安倍頼時と有り貞任の父、記載に安倍頼時・安倍貞任、源頼義・義家の名前を見ると胸躍り感激です。
 
 花山館・渕牛館へは長年遠回りして訪ねたようで、昨年は津久毛橋城まで来てパス、その以前も姫松館、鶴丸城、仙台の北は涌谷城の桜と、登米の佐沼城、岩出山城、千石城と近くまで来てやっと退職後10数年超で初トライでした。

 駐車場から登城路遊歩道を進み、撮った写真順二つに分けて投稿します。 熊注意の看板は無し、先ずは安心しても熊除けのベルを鳴らし鳴らし進行、遊歩道は舗装されて草の茂りは無し、尾根までの登りが私にはキツイ、尾根に着くと東に張り出した尾根曲輪の南下の道、切岸沿いに進行、平坦な道から花山ダム湖沿いの崖尾根道を物見の東屋まで丸太階段が続き東屋へ、途中にダム湖の眺望が安らぎです、途中に樹間越しに曲輪岸、堀を見る事が出来るが良くは判らない。

 次に物見から尾根曲輪道、横堀、2郭1郭へ続く。
 

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しんちゃん

相模川橋脚  神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目 (2024/01/26 訪問)

相模川橋脚は大正12年(1923)の関東大震災により地中より出現した鎌倉時代の橋の遺構です。今見えているのは精巧な複製品で、実物は腐敗が進まないよう、地下2m65cmの場所で保存されています。
建久9年(1198)源頼朝がこの橋の竣工式に出席した帰りに、馬から落ち川に落ち、翌年1月に死亡したとされる説もあるようです。
弁慶塚と御霊神社は近くにあったので寄って、その写真を載せています。御霊神社は源義経と鎌倉五郎景正を祭神として祀っています。

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しんちゃん

石橋山合戦 (2024/01/26 訪問)

天徳寺が城跡とされ、周囲より高台になっています。眞田與一義忠は三浦義継の四男・岡崎城主の岡崎四郎義実の嫡子とされ、その居城とされています。義忠公は治承4年(1180)8月23日夜、石橋山の合戦で俣野五郎家臣・長尾新五・新六のために25の若さで討死したようです。天徳寺は義忠公の菩提を弔うために天正年間に岐阜の天徳寺七世義翁盛訓禅師によって建立されたと案内板に記載があります。

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赤い城

田井城・八栗城 香川県高松市 (2024/06/09 訪問)

牟礼ゴルフセンター(打ちっぱなし)の敷地が城跡です。
駐車場に少し高くなっているところがあり、標柱と祠があります。
駐車場入口は虎口にも見えますが果たして・・?
南西は蓮池が守り、北と東には外堀が廻っていたそうです。

美濃から入った中村氏の居城でしたが火災に遭い、その後八栗城に移りました。

で、八栗城に転戦です。
85番札所の八栗寺が城跡です。
ケーブルカー駐車場から徒歩で登ります。
急坂ですが整備されているので楽に登れます。
この日は雨でしたがお遍路さんも多く参拝されていました。

お迎え大師から参道に向かうところに墓地があり、この辺りに主郭があったようです。
参道は二の門あたりが少し狭くなっているように見えます。
堀切の名残と信じたい。

せっかくなので八栗寺を参拝し下山しました。
下山後、この日も朝うどん、近くの人気店へ。
行列でしたがつるもち麺で美味しくいただきました。

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枡形ともき

こんな山城にも石垣が (2024/06/01 訪問)

石垣の他にも堀切や土橋もありそこまで高い山ではないので初心者にもおすすめできます!
山頂からは大阪の市街地などもみることができます。
山城なのに歩きやすく立て看板などもあってめぐりやすい城です
P.S.摂津峡でバーベキューをしている人がたくさんいました

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しんちゃん

大三島  大山祇神社 鶴姫公園 (2018/01/06 訪問)

愛媛県今治市の大三島に鎮座する大山祇神社は旧国幣大社であり伊予国一宮でもある由緒正しい神社であります。日本総鎮守とも称され武将や武人。軍人からも崇敬の篤い神社でもあります。源平の時代から多くの武将が武具を奉納しており国宝8件、重要文化財76件を有しています(建造物含む)。
鶴姫は昭和41年の小説「海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク」で認知されるようになり、「村上海賊の娘」の中でも主人公・景の憧れの存在として、度々名前があがってきたので、ご存じの方も多いと思います。鶴姫は大山祇神社の大宮司の娘とされ、大内氏の侵攻を受け、兄の大祝安房を失うも、大薙刀を振るい味方を奮起させ敵を撃退したとされます。
天文10年(1541)10月、再び大内軍の侵攻を受けますが、またしてもこれを撃退し兄・安房の跡を継ぎ陣代となったとされます。またこの頃に一族の越智安成と恋仲になったようです。天文12年(1543)大内義隆は、陶隆房の水軍を派遣し、大祝氏の主筋の河野氏はこれを迎え撃つも一門の多くが討死し、越智安成もこの戦いで討死してしまいます。鶴姫は残存勢力を集め、夜襲を決行し大内軍を大三島から追い出しますが、その後 越智安成の後を追い入水したとのことです。
大山祇神社から西の鶴姫公園までの道は鶴姫ロードと呼ばれ、公園には鶴姫と越智安成の像が向かい合って立っています。『大祝家記』以外に鶴姫に関する記述が無いことから、伝承の域を出てはいないようですが、それはそれで良いのかも。

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カズサン

征夷大将軍坂上田村麻呂の要塞 (2024/05/23 訪問)

 東北城探訪4日目岩手県2日目金沢城(朝日舘)を終えて同じ町内の南西に約3km程8城目の二桜城を初登城。

 駐車場:特に無し、特養下の清水公民館に1,2台は可能?
 参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 鳥居の前に一時路駐し解説板、かさこじぞう、鳥居、標柱を撮影し、交通量が多く駐められないので特養寿光荘の駐車場奥に2、3台空きが有ったので一時駐めて、3郭の階段、切岸土塁、2郭の鳥居を撮影して早々に撤退、主郭まで登れませんでしたが致し方ありません。
 通り沿いに「かさこじぞう」6体の地蔵と民話の解説板が有り、地元の方々に慕われて大事にされてる様子がうかがえます。

 二桜城の解説板には最初の征夷大将軍坂上田村麻呂の記載が、名前だけで大感激です、平安初期蝦夷征伐以来、坂上田村麻呂の要塞、城郭として知られてるようです。奥州藤原氏の時代は家臣の照井太郎高春が居城、葛西氏の時代には葛西氏の一族が姓を清水に改めて280年居城、秀吉の奥州仕置きで葛西氏は改易、翌年の葛西・大崎一揆では清水氏も加担し敗れて滅亡した。その後は伊達氏の家臣が居城するも程なく廃城と成った。
 
 岩手県2日目は夕刻で予定全て終了し宮城県古川市泊りへ。
 

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小城小次郎

大手が付け替えられた意味を考える (2023/12/10 訪問)

松浦党の新旧有田氏が本拠としたお城で南から北に大手が付け替えられている。大手が仮想敵を向いているとすれば敵は松浦党自体に変わったと理解できそうだが有田氏最後の城主は事実、松浦宗家と死闘を展開している。

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零汰

再始動:樺木岳城(宮崎県五ヶ瀬町) (2024/04/25 訪問)

登り口に着いた途端に後悔しました。高低差が少ない城跡をチョイスしたつもりが山頂までの高さがある。岳と名前に入っているので当然ですよね。観念して訪問しましたが結構キツかったです。

標高922mの山頂に主郭と3つの曲輪を中心に中腹に幾つかの曲輪が配置しています。主郭東には櫓台ではないかと思われる高まりが有り、西側の堀切や土塁を確認する事が出来ます。藪の中に入る事は避けていたので斜面の竪堀の有無は確認していません。報告書では現在確認出来る範囲では南北280m・東西300mの中に納まるが今後の調査によってはは大きく城域が広がる可能性もあるとの事です。それに景観が良かったです、遠くに阿蘇の外輪山を外から眺める事が出来ます。

大作トクさん、大野城でもキャンプ出来るんですね。城廻人が城キャンプ出来るなんて良い環境だと思います。それに良い記事ですよ、一息ついた緩い記事からでもまだ見ぬ多くの方々の投稿が増えていくと良いと思います。

大作トクさんと爽やかトモさんも一之岳城行かれたのですね。私も一昨年の10月に行きました。しっかりウネウネと隅角石積を見逃して投稿はボツになりました。

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しんちゃん

石垣でお腹いっぱい (2024/02/17 訪問)

松坂城は松ヶ島城に変わる新たな拠点支配の城として、潮田長助の砦跡である四五百森(宵の森)に蒲生氏郷によって築かれました。江戸時代には松坂は紀州藩の藩領となり城代が置かれています。明治時代に破却され、建造物は全く残っていませんが、往時の見事な石垣が主要部を構成しており、初見から圧倒されます。近世城郭の先駆けともいえる城とされ、蒲生氏が当時の築城(石垣造り)技術の粋を凝らして築いた城だと思います。独自の形状をした二の丸の石垣、きたい丸・本丸上段・天守台・本丸と複数の曲輪を持つ本丸など実に見応えがあり、石垣だけでお腹がいっぱいになりました。

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びーこ

清須?清洲? (2024/05/22 訪問)

愛知の城を巡る旅、最後を飾るのは清州城。

清洲駅に降り立ち、まずは清洲古城跡公園を目指す。携帯で地図を見ながらなんとか到着。途中、あまり案内がなく結構迷ってしまった・・古城跡と謳っているが、完全に公園として整備されてしまっており、少しの石垣跡と信長&濃姫の像しか見ることができなかった。ちょっと残念。

公園側から赤い橋を渡ると大手門があり、その先には天主閣が!門から天主閣までの間には、小さいながらも日本庭園がある。朝から係の方が丁寧に手入れをしており、とても綺麗だ。信長塀なるものもある。天主閣の中にも様々な展示物があり、なかなか興味深い。

清須vs清洲問題。
ずっと気になっていたこの問題、清洲城のパンフレットに小さく以下のように記載があった。
慶長15年(1610年)の「清須越」以前に登場する場合は「清須城」「天守閣」と表記。家康の行った「清須越」以降、平成17年(2005年)清須市誕生以前の町村名は「清洲」と表記。当施設の名称は「清洲城」「天主閣」とする。
うーん、やっぱりややこしい・・

旅の最後のグルメは#居酒屋新幹線を真似して車内で。天むす(2種類)と味噌カツ、そしてビール!完璧!

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しんちゃん

記念館三笠 (2014/01/29 訪問)

記念館三笠の写真の残りです。戦闘艦ではありますが、当時の連合艦隊の旗艦だけあって、内装は豪華でどこかノスタルジックな雰囲気を漂わせています。艦橋も後の大和などの城郭然としたごついものと比べると簡素ではありますが、これはこれで良いと思います。
ワシントン海軍軍縮条約で廃艦となりますが、多くの人の努力で保存され、記念館となりました。戦後も米軍の娯楽施設となるなど惨澹たる有様でしたが、日米英の多くの人の尽力で再び記念館となり今に至ります。こういった経緯はどこか明治維新の後の城郭と通じるものがあるような気がします。

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しんちゃん

梶原景時 (2024/01/26 訪問)

梶原景時はかつて一宮を所領していて当地に館を築いたとされています。一之宮天満宮は館の一角とされ、そこに石碑が建っています。北側の宅地が土塁や堀跡の伝承地とされています。残存土塁が有ると案内板の地図に記載がありますが確認できていません。
源頼朝の死後、多くの家臣から反感を買っていた景時は正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率い一宮館に引き揚げ、翌年正月20日午前二時ごろ秘かに館を出発したと案内板に記されています。景時一行はその日のうちに駿河国清見関近くで地元武士団と戦闘になり、生き残った者は山に引いて戦うも全滅したとのことです。
館の留守居役の家臣は翌年尾張に移ったとされますが、これは羽黒城に移ったということになるのでしょうか。

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赤い城

一部が公園に (2024/06/02 訪問)

帰省の際、少し時間があったので立ち寄り。
木次線に沿った県道24号線を少し入ったところに公園があります。
車でも登れますが公園はゲートボール場にもなっていました。
この日は利用者もいなかったので駐車させてもらいました。

公園から登る道が着いていて少し登ると侍屋敷跡の曲輪や物見櫓があります。
さらに少し登ると城櫓跡の削平地に。
説明板と佐世家の家系図が立っています。

どうやら主郭はこちらではないよう。
南西側にもう一つピークがありそちらのようです。
が、おそらく私有地で先に進むのは断念しました。

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しんちゃん

無印投稿  鬼ノ城 (2013/12/15 訪問)

鬼ノ城は鬼城山一帯に築かれた古代山城で、桃太郎伝説の原型とも言える「温羅伝説」の舞台にもなっているようです。7世紀前半に築かれたとされる、かなり古い山城で神籠石式山城の一つとされています。土塁や石塁が2.8kmも巡っていて、4か所の城門、角楼、6箇所の水門で構成されていたようです。西門や角楼が再現されており、鬼ノ城のシンボルともいえる西門の外観は唯一無二です。
これより東の古代山城は香川県坂出市の讃岐城山城と高松市の屋嶋城、兵庫県たつの市の播磨城山城、奈良・大阪にまたがる高安城などがあるようです。このうち八嶋城と高安城は文献に記載があることから朝鮮式山城に分類されています。

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モト

空堀、石垣と見どころありです。 (2024/06/15 訪問)

館跡まではかなり側まで車で行く事ができます。
側までは道に丁寧に案内があり迷わず館跡に辿り着けますよ。
館跡は入り口などもわかりやすく見学しやすく整備されてます。
さ、馬屋の入り口から館の跡へ。
入ってすぐに出現する馬や跡を確認しながら進むと奥に見事な石垣の虎口が見えてます。
この景色の雰囲気がかなり気に入りました。
実際に虎口を間近で見ると石垣に感動です。
これもまたお気に入りになりました。
虎口を通って建物の跡に行くと庭園跡があり当時の繁栄していた姿を想像します。
この庭園跡がまたなんとも良く、またお気に入りに加わります。
最後に館跡の奥の隈部氏の墓所を見学して帰りました。

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ぴーかる

飯島陣屋 (2024/04/20 訪問)

【飯島陣屋】
<駐車場他>飯島町営駐車場無料あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅8城目。現地で頂いたパンフレットによると飯島陣屋は1672年に飯島の地域が幕府直轄領となり1677年に片桐町から陣屋が飯島町に移されました。また資料館の方の説明によると飯島陣屋は幕府直轄領なので代官を置いていますが、本領に代官が来ることはほとんどなく、江戸にいたそうです。陣屋には重役人が3人居て主な運営はこの3人で政務をしていたそうです。
 入館締め切り5分前の16:25に到着し入らせてもらいました。閉館前にもかかわらず資料館の方が丁寧に再建陣屋の内部を説明していただきました。再建の陣屋建物は見事な造りで一見の価値はあります。遺構は横堀井戸が残っていて庭水に利用しています。残る遺構は少ないですが、資料館の方の温かい丁寧な対応が素晴らしかったので満足度はおまけして。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

関東の土の城の傑作 (2024/01/28 訪問)

滝山城の経緯は諸説ありますが永禄10年(1567)までには改修、もしくは新たに築城されたかのいずれかで北条氏照の居城になっています。永禄12年(1569)には小田原攻撃に向かう武田信玄の軍勢の攻撃を受け、何らかの被害を受けているようです(これも諸説あり)。天正15年(1587)前後に氏照は、より守りの強固な八王子城に本拠を写しますが、豊臣秀吉が小田原征伐の際に作成した城と軍勢にかかわる覚書の中に、北条氏照の管轄する6つの城の中の一つ(竹中の城)として記載が有るようで、この頃までは城郭として機能していたようです。
広大な城域と技巧的な縄張りを持っており、私は関東でも屈指の土の城だと思います。土塁や堀切はもちろん馬出しや、横矢のかかる屈折した土橋もあり、本丸には桝形も備えていて、土の城の要素がすべて詰まっているといっても過言ではないと思います。自然の豊かな八王子市とはいえ、これほどの名城が東京に残っていることに感心しきりであります。

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しんちゃん

長崎デジマックス (2014/01/08 訪問)

タイトルは意味不明ですが、長崎の出島の投稿です。寛永11年(1634)に幕府が外国との交易とのために築造した人工の島で面積は3969坪、約15000平方メートルでそんなに広くはないようです。だいたい150m×100mの城館と同じくらいの広さです。
明治以降周辺の開発が行われ、かつて長崎港の南西に面していた出島は、北は中島川で区切られ、東西と南は埋立地に囲まれています。戦後、出島の復元整備事業が行われ商館長宅である「カピタン部屋」や水門、商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」など様々な建造物が復元され、限られた出島のスペースの中にひしめき合っています。2016年には明治時代の建造物である「旧出島神学校」や「長崎内外倶楽部」も復元されています。
また復元作業の際に、南側の131mの石垣の修復も行われています。

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チェブ

お城Expoの約束。 (2024/05/04 訪問)

安寧を願い、724年に「多賀城」は創建されました。
陸奥国府が置かれます。
賀(よろこ)び多き城、「多賀城」です。

昨年のお城Expoで、「多賀城」のブースの方に、『お正月に行っても、100名城スタンプは押せますか?』
の質問に、『大丈夫。でも、雪が、、、。』とのお返事。
多賀城市の積雪量は少ないそうですが、東京の端っこからだと、途中が危ないかもとの事です。
名城スタンプは、お正月に押せないパターンが多いので、確認しました。
あとはGWしかないと思い、この「多賀城」をゴールに進軍して来ました。

100名城スタンプを押す為に管理事務所に向かいます。「多賀城」のスタンプは屋外にあり、いつでもスタンバイしていてくれてます。
夕焼けの「多賀城」、四角く識別してある政庁を歩きます。
戦いで、取った取られたのお城ではなく、「多賀城」では厳かな気持ちになります。途中で見えた朱い門が、国府の風格を伝えてくれます。朱を見慣れてなかったからかもしれません。

お城Expoでの会話から、「多賀城」までやって来ました。お城のブースの方の熱量が高かったですが、その熱さに納得した「多賀城」攻めでした。

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