⑤【関ケ原の26人 】(2)吉川広家 (吉川広家と岩国城)
(2022/09/04 訪問)
(2人目)は「吉川広家」です。
広家の関ケ原当時の居城は「米子城」ですが、今回は関ケ原後の居城「岩国城」を訪れてきました。
関ケ原の敗戦により毛利輝元は120万石から周防・長門の二か国36万石に大減封されてしまいます。岩国城はその時、毛利の重臣であった「吉川広家」が米子からここに移り築城を始め1608年(慶長13年)に完成した城です。しかし、その後の1615年(元和元年)に一国一城令で廃城の命を受け泣く泣く破却、天守はわずか7年しか存在しませんでした。
現在ある天守は、昭和37年に観光目的で50m南に移動した位置に再建されています。天守からは、錦帯橋や岩国城下(岩国市街)、米軍基地や瀬戸内海まで遠望でき、とても気持ちのいい眺めでした(写真⑥⑦)。また桃山風南蛮造りの天守はとても美しく感じました(写真③)。当時の天守台も残っており、広家が築いた野面積の石垣も見ることができました。その横には同じく広家時代の空堀もありました(写真④⑤)。
吉川広家は、関ケ原では毛利輝元の名代である毛利秀元(元就の四男で輝元の養子)を補佐すべく、南宮山の麓に陣を構えました。南宮山の頂上にいる秀元はやる気満々でしたが、広家が動かないため山を下りる事ができません。そこで石田三成は広家に再三の出陣要請をしますが、今は飯を食べているので出陣できぬと答え、後の「宰相殿の空弁当」の言葉で有名となりました。実は黒田長政との密約で東軍に寝返へれば毛利120万石の所領は安堵されるとの約束があったようです。広家は父の吉川元春の教えに従い、誰よりも毛利家の行く末を案じていました。よって、このような決断をしたのだと思いますが、結局は家康から反故にされてしまい、この決断は裏目に出てしまいました。最大の過ちは、家康から直接お墨付きを取っていなかった事ですかね🤔?(そんな時間もなく長政を信じたのでしょうが・・)。家康は長政が勝手にやった事として反故(ほご)にしたようです(これも口実でしょうが・・)。
私は岩国城の天守に立ち、そこから城下を眺めて見ました(写真⑥)。岩国城を築城したものの、結局は自分のせいで毛利家を没落させてしまう事になった広家は、どんな思いでここから城下を眺めていたのでしょうか? そして、どうすれば毛利家を元のように再興できるのか? 日々ここで悩み、そして苦しんでいたのではないでしょうか?
【余談:ハローキティ号】
新岩国駅から博多行の山陽新幹線こだま号に乗った時、たまたまでしたが、それがカズさんと同じ「ハローキティ号」でした。おじさんがビール片手に乗るには、ちょっとはずかしい列車でした😊(写真⑩)。
次は、「吉川広家陣跡」を歩き「南宮山」を眺めます。
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