宮本武蔵の続き(3)です。
まず武蔵の最大のライバル、佐々木小次郎の話から始めます。小次郎の出身地には3つの説があります。
① 越前説(福井市一乗滝)
② 周防説(岩国市錦帯橋)
③ 豊前説(添田町岩石山)
越前説は、「二天記」によるものです。朝倉家の剣術指南役であった富田勢源に指南を受け、一乗滝で燕返しは編み出されたとされています。しかしこの二天記は、二天一流の兵法を継ぐ細川藩松井家(八代城主)の家臣が、武蔵没後130年も後になって、小倉碑文を基に数々の言い伝えを書き加えたもので、実際に彼が見聞きした話ではないので、信憑性に欠けるのではという意見もあり、また勢源・小次郎・武蔵の互いの年齢のつじつまも合わないなど、多くの疑問も残されているようです。
周防説は、吉川英二さんの小説によるもので、小説の中でのみで岩国の地名が出てきます。他のどの資料にも岩国の地名は出てきません。岩国城に天守があったのは1607-1615年ですから、小次郎がいた時期とは一致していますが、錦帯橋ができたのは小次郎が没してから60年後の1673年なので、錦帯橋の柳の下で燕返しを編み出したとする小説の内容には、少し矛盾があるようです。よってこの説は吉川氏の創作ではないかと言われています。しかし今ではドラマなどで大々的に岩国は宣伝されており、地元の観光の目玉にもなっているので、山口県の方々のためにも、そっとしておきたいと思います。この日は気温35度、私はあまりに暑かったので、佐々木小次郎商店のアイスに引かれ、巌流ゆかりの柳の下で燕返しを想像しながら食べました(😊冷たくておいしい)(写真⑥⑧⑨)。
この佐々木という苗字も実はうそだそうです。小倉碑文には、小次郎の苗字が佐々木だなどとは書かれていません。岩流の小次郎とのみ記されています。岩流は流派のようです。佐々木は1730年頃(江戸中期)に小次郎役を演じた歌舞伎役者が佐々木という役者名だったので、それから佐々木の小次郎と呼ばれるようになり、その後1776年に出た二天記の本文には岩流小次郎(注釈には佐々木小次郎)と書かれ、吉川氏の小説のみ佐々木小次郎が使われています。よって私は小次郎で通したいと思います。小次郎が若くてイケメンだったという話も、ドラマを面白くし女性の視聴者を獲得するために、テレビ局が脚色した話ではないでしょうか? よって(写真⑦)のように本当に若くてイケメンだったのかは、これも私は謎のままとしておきたいと思います🤔。
もう一つは、まだ人気のないマイナーな説ですが、豊前の岩石山(がんじゃくやま)で生まれたという説があります。私は九州人なので、あえてこの説で次の話を進めて行こうと思います(すいません、小次郎も謎多き人物です)。
次はその豊前説が残る「岩石城」を訪れます。
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