すかがわじょう

須賀川城

福島県須賀川市


旧国名 : 陸奥

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翠橋より かつての堀か?
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しんちゃん

岩瀬山城 保土原館 (2024/09/15 訪問)

岩瀬山城は元は二階堂氏の城でしたが、蒲生氏、上杉氏の時代になり、会津を守る支城となりました。本丸の南西に位置する保土原館は元は二階堂氏の庶流・保土原氏の館でした。天正10年(1582)に宗家当主・二階堂行親が若くして死去すると(天正13年の説もあり)前の当主の未亡人・大乗院(阿南姫)が須賀川城の城主となり、生家である伊達氏と争うも天正17年(1589)10月に家臣・保土原行藤、浜尾宗泰らの裏切りも有って須賀川城は落城し、大乗院は甥の岩城常隆を頼って磐城へ逃れて行ったようです。
主家を裏切った保土原行藤は保土原館の主で、後に伊達氏の家臣に加わり329石の食い扶持を得ています。保土原館の麓には城址碑が立ち、小高い丘の上に館が築かれていたとされ、現在は須賀川市立博物館が立っています。
上杉氏の時代には岩瀬山城に準じる形で、会津の防衛の一端を担っていたのではと考えます。

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しんちゃん

詰の城 岩瀬山城 (2024/09/15 訪問)

岩瀬山城は須賀川二階堂氏の初期の居城であったとされ、二階堂氏が須賀川城を築いて移った後も支城(詰めの城)として機能していたようです。二階堂氏が伊達政宗によって滅ばされた後、奥州仕置が成され、蒲生氏、続いて上杉氏の城になりました。岩瀬山城には上杉氏の家臣・栗田刑部が置かれ鶴ヶ城(会津若松城)ひいては神指城を守る支城になったと注目しています。
本丸跡には愛宕神社があり、周囲に土塁が良く残っており南東側に虎口が付いています。南方には南館があり、周囲の五老山、妙見山などを含めた総称として岩瀬山城と呼ばれ、城域はなかなか広いです。

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しんちゃん

二階堂氏 (2024/09/14 訪問)

須賀川城は本丸跡に二階堂神社があり、南の市民交流センターが二の丸にあたるようです。周囲は堀と町屋によって囲まれ、橋によって繋がっていたようです。応永6年(1399)足利満貞・満直の家臣・二階堂行続によって築かれたとされています。
戦国時代から幕末まで城主が幾度となく変わりますが、寛永4年(1627)加藤嘉明が会津藩主となった後、廃城となりました。現在は市街地に飲み込まれ遺構は有りません。北西にある神炊館神社は二階堂氏によって城域内に勧請されたものとされます。

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二階堂神社など (2024/09/28 訪問)

 二階堂氏の城と伝わっています。二階堂神社のある付近が本丸で石碑が立っています。近くの長松院付近には空堀と土塁が一部ですが、残っています。神炊館神社には外濠跡がありました。

 JR須賀川駅から徒歩約15分行くことができます。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 二階堂行続
築城年 応永6年(1399)
主な城主 二階堂氏、石川昭光、蒲生郷成
廃城年 寛永4年(1627)頃
遺構 土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑
住所 福島県須賀川市宮先町他
問い合わせ先 (財)福島県文化振興事業団
問い合わせ先電話番号 0248-21-0700