岩瀬山城は元は二階堂氏の城でしたが、蒲生氏、上杉氏の時代になり、会津を守る支城となりました。本丸の南西に位置する保土原館は元は二階堂氏の庶流・保土原氏の館でした。天正10年(1582)に宗家当主・二階堂行親が若くして死去すると(天正13年の説もあり)前の当主の未亡人・大乗院(阿南姫)が須賀川城の城主となり、生家である伊達氏と争うも天正17年(1589)10月に家臣・保土原行藤、浜尾宗泰らの裏切りも有って須賀川城は落城し、大乗院は甥の岩城常隆を頼って磐城へ逃れて行ったようです。
主家を裏切った保土原行藤は保土原館の主で、後に伊達氏の家臣に加わり329石の食い扶持を得ています。保土原館の麓には城址碑が立ち、小高い丘の上に館が築かれていたとされ、現在は須賀川市立博物館が立っています。
上杉氏の時代には岩瀬山城に準じる形で、会津の防衛の一端を担っていたのではと考えます。
+ 続きを読む