JR鹿児島本線に乗り終点の地「門司港駅」に着きました、降りてホームからふと見上げると今日の目的地「門司城」が見えました(意外と高い😯)(写真①)。
門司港駅前から「和布刈(めかり)」行きのバスに乗り15分、「和布刈公園」で下車しました(写真②)。ここが登山口です(車もここから入れます)。そして舗装されているとはいえ、かなりの傾斜の道を登ること25分、駐車場のある所に着きました(写真③)。9月も後半というのに気温36度の酷暑の中もう汗ダクです。しかもこの傾斜で足もけいれん気味。さらにそこから最後の力を振り絞り遊歩道を5分程登ると山頂の「門司城」到着しました(写真④)。
ここから関門海峡を眺めた景色は実に気持ちがよかったです(写真⑤)。ここで30分間、汗が引いて足が回復するまで、石碑にもたれて潮風に吹かれながら、この景色をずっと眺めていました(誰も来なかった)。
しかしこの美しい景色とは裏腹に、ここは「毛利VS大友」が何度も争奪戦を繰り広げたという激戦の地でもあります。特に1556~1562年6度に渡って繰り広げられた「門司城の戦い」は壮絶だったようです。鎌倉室町時代から続く貿易商人の町「博多」を何としても大友氏から奪いたい毛利元就、そのためにはこの関門海峡の制海権を得なければなりません。元就は小早川水軍全軍をもってこの門司城を攻めるよう命じます。そして5度目の戦いでついに小早川軍が勝利しました。その勢いで吉川元春も合流し毛利軍は博多に迫ります。それに対する大友宗麟も自ら全軍を率いて豊後を出陣、両軍合わせ8万の軍勢が、博多と立花山城との間の多々良川で対峙しました。しかしその時、何と尼子家再興を計る尼子勝久・山中鹿之助が月山富田城を攻め落とし、毛利は背後をつかれます。もはや大友氏どころではなくなり、体制を立て直すべく吉田郡山城へと撤退しました。
この後、大友宗麟は耳川の戦いで島津に敗れ衰退。門司城は南下した豊臣秀吉により占領されます。さらに関ケ原の戦い後には、領主となった細川忠興が小倉城を築城し拠点を小倉にしたため、一国一城令で門司城は廃城となりました。今では大友時代の石垣が少しだけ残り、当時の面影をわずかに見る事ができます(写真⑥)。まぎらわしい感じの新しい石垣が多々ありますが、それは太平洋戦争時、日本軍がここに砲台を築いたためその時のものと思われます。その砲台跡と火薬庫が山頂にありました。
帰りは山を反対側(東側)から下りました。すると壇ノ浦の戦いの最後の決戦地「田野浦海岸」が眼下に見え、その展望台には壁画がありました(写真⑦)。そして下りた場所は、壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水したという場所で、その石碑がありました(写真⑧)。そしてそこから3分程歩いた場所は関門橋の真下にあたり(写真⑨)、関門トンネル人道口と和布刈神社がありました。神社にお参りした後バスで戻ろうかとも思いましたが、次のバスまで時間が30分もあり1つ手前の始発のバス停(和布刈)まで海沿いの遊歩道がきれいに整備されていたので(写真⑧)、潮風に吹かれながら歩きました。するとそこはトロッコ列車の駅(和布刈駅)もあり、発車時間にまだ間に合い乗れそうだったので、トロッコ列車に乗って門司港駅に戻りました(写真⑩)。
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