5城目、首里城の続き(2/2)です。奉神門から中の御庭(うなー)へ入りました(写真①)。ここからが有料エリアで、復興中の正殿の工事現場を見学する事ができます。
首里城が本格的に歴史に登場してくるのは、1429年に首里城を居城とした中山王で、琉球を統一し琉球王国をつくった尚巴志(しょうはし)です。護佐丸はこの国王(尚巴志)に仕え、琉球の統一に最も貢献した側近で、国王が最も信頼していた人物でした。という事は、護佐丸も何度もこの首里城に滞在し、政事を補佐していたという事になりますね。
首里城は過去に6回火災で焼失したとされています。現在の首里城は、まだ記憶に新しい6回目の令和元年に起きた、あの大火災からの再建中で、来年(2026年)秋には正殿が完成する予定だそうです。現在はその正殿の工事が着々と行われており、その様子を見学する事ができました(写真②③④)。朱色も前回の平成の再建から少し色を変えて、昔により近くしているそうです(写真⑤)。奉神門はその塗り替えがすでに完了した門で、朱が以前の赤燈色から赤茶色(あざやかな赤から少し茶色に近い赤)に変わっています(前回写真⑦)。この赤い色は久米島の赤土から取られた色だそうで、ここが正殿の「御庭(うなー)」へ入る最後の門なので、つまりもうここまで完成しているという事です。あとは唯一残るは正殿だけ! その完成が待ち遠しいです。
5回目の火災は1945年太平洋戦争の時というのも皆さんはよく御存知と思います。では1回目の火災はいつだったのか御存知ですか? それは前回お伝えした1453年尚氏の跡継ぎ争い「志魯布里の乱」の時です。この乱の後、第6代の王となった尚泰久は、自分の娘「百十踏揚」(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせますが、阿麻和利はこの親しくなった関係を逆に利用して、勝連城から密かに船で抜け出して首里城へ行き、護佐丸が実は王を滅ぼそうとしていると讒言します。それを信じてしまった王は、阿麻和利に国王軍の旗を預け、護佐丸討伐を命じるのでした。国王は見事に騙されてしまったのです。国王軍の旗を持った阿麻和利の大軍が中城城に迫ります(護佐丸阿麻和利の乱)。しかし護佐丸にとっては全く身に覚えがありません。しかし時すでに遅く、もはや阿麻和利の大軍に囲まれ絶体絶命のピンチです! このままでは危ない! さあどうする護佐丸?
私は、首里城の正殿の裏にある東のアザナに立ってみました。とてもいい眺めでした(写真⑦⑧)。また北側の城壁から見た景色もとても美しかったです(写真⑥)。そして西のアザナからは那覇市街が一望できました(写真⑨⑩)。護佐丸は尚氏6代に仕え、ここで共に政事を行っていたので、同じように何度もこの景色をここから眺めたと思います。その時いったい何を考えていたのでしょうか? 尚氏への忠義と琉球王国の繁栄を、ただ願っていただけなのではないでしょうか・・・
次は、護佐丸阿麻和利の乱の舞台となった、護佐丸最期の居城「中城城」に続きます。
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