なつかわじょう

撫川城

岡山県岡山市

別名 : 沼城、芝場城、高下ノ城、小倉城、(撫川陣屋)
旧国名 : 備中

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撫川知行所総門
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イオ

沼沢地の沼城・其の弐 (2023/10/15 訪問)

戦国後期に宇喜多氏への備えとして三村家親が築いた城で、東隣の庭瀬城と一体として機能したとされます。羽柴秀吉の備中高松城水攻めでは毛利方の備中境目七城のひとつに数えられるも落城し、宇喜多氏の城となりました。関ケ原の戦いの功により戸川達安が入ると、庭瀬城跡に陣屋を構え撫川城は廃城となりました。江戸前期に戸川氏が無嗣断絶すると、弟の戸川逵冨が交代寄合旗本として5千石を知行し、撫川城跡に撫川陣屋を構えて明治まで8代続いています。

庭瀬城から徒歩で登城。四周を水堀に囲まれた主郭は撫川城址公園として整備され、南側からの土橋を渡ったところに撫川知行地の総門が移築されています。総門をくぐった先には撫川城跡の説明板があり、石組みの井戸跡が見られます。主郭の東半分は土塁で囲まれ、中央奥には三神社が鎮座しています。西半分には宇喜多期に岡利勝が改修したと伝わる野面積みの石垣が状態良く遺っており、北西隅には櫓台と思しき石垣の張出部が見られます。

主郭をひとめぐりすると、西側に回り込んで水堀越しに西辺の石垣を眺めつつ、北側に回り込もうとしましたが、外堀跡と思しき小川に架かる太鼓橋を渡ったところで、撫川城から離れつつあることに気付いて引き返しました。水堀がめぐらされて思うように進めない沼城を思いがけず体感した撫川城でした。
 

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しんしんちゃん

城の中の城。‥といっても (2019/12/29 訪問)

撫川城は別名「沼城」といい、泥沼の中に築かれていたようです。東西77m、南北57mの
長方形の主郭を幅15mほどの濠が周囲を囲み、西方に野面積の石垣、東方には土塁が残り
南口がかつての大手で撫川知行所総門が移築されています。現状神社ですが、かつての庭瀬城の
本丸・二の丸の部分に知行所が置かれていたので、一度に二つの城を訪問でき、ちょっと
お得な感じがします。

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朝田 辰兵衛

赤い城さん,お疲れさまです。 (2023/06/11 訪問)

まだまだ落ち着かないご様子とお見受けしました。日常生活でいちばん違いを感じるのは,テレビのチャンネルかな…と予想します。電気の周波数が50Hzから60Hzに変わっておりますが,あまり感じることもないかと思います。電気製品の充電時間が早くなったな…ぐらいかと。天気予報で違いを感じるのでは…。西日本中心になるので,大阪や広島を中心に話が進んでいくという。
ミョーに孤独を感じることもあるのではないでしょうか。ここではいつでも「赤い城さんの居場所」がありますョ。

さて,庭瀬城から撫川城への転戦です。非常に近接してると思い調べたら,もともと一体の城だったとのこと。現存の知行所総門は,明治に入ってから移築されたそうです。

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城好きのメガネ

「撫川城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
撫川城は三村家親が宇喜多直家の侵攻に備えて築いたとされる。その後、毛利氏の支配下に入り、備中高松城とともに「境目七城」として毛利氏の家臣・井上有景が守備する。中国征伐で落城し、廃城となる。江戸時代には宇喜多氏の重臣・戸川氏が立藩する。城内には撫川知行所総門が移築現存している。

<アクセス>
JR庭瀬駅 徒歩15分

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 藤井久住
築城年 寛治年間(1087〜1094)
主な改修者 三村家親、戸川達冨
主な城主 藤井氏、三村氏、伊賀氏、上山氏(毛利氏家臣)、井上氏(毛利氏家臣)、戸川氏
廃城年 明治2年(1869)
遺構 曲輪、石垣、横堀、知行所総門
指定文化財 県史跡(撫川城跡(芝場城跡))
再建造物 石碑、説明板
住所 岡山県岡山市北区撫川
問い合わせ先 岡山市企画局情報企画課
問い合わせ先電話番号 086-803-1047