大分駅から、ソニックにちりんに乗り、臼杵城へ。
土砂崩れ防止防護策がつけられている石段を登り二の丸へ。
快晴で汗をかきながらも、良き城巡りとなりました。お堀に鯉とデカい鴨が水浴びしてました。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2023/05/01 10:54
2022/12/03 00:34
【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第14回)臼杵城(丹生島城)② (2022/09/26 訪問)
(臼杵城①からの続きです)
大友宗麟は、心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院が焼き払われ、臼杵の街が廃墟となったことに相当な怒りを憶えました。そしてこの無念を晴らすべく、このまま籠城せずに何と討って出る事にします!
この時、宗麟にはある秘策がありました。それは秘密兵器「国崩し(フランキ砲)」です(写真①)。ポルトガルから輸入し、日本ではまだ誰も使った事もない見た事もない兵器でした。宗麟は平清水(ひらそうず)に布陣している島津軍めがけ砲撃しました(臼杵城から平清水を眺めた写真②から想像イメージ写真③を作ってみました。こんな感じでしょうか?)。すると、凄まじい爆音とともに着弾し、島津軍はもう度肝を抜かれ大混乱! そして多くの兵が死傷しました。
その隙に、前日から海を渡り隠れていた兵が、平清水(龍原寺付近)(写真④)の島津軍の本陣めがけ果敢に討って出ます。そして、動揺している島津軍へ襲いかかりました。島津兵はさらに驚き退却を始めますが、二王座の切通し(岩を砕いて作った狭い道)(写真⑤)まで退却したところで、同じく前日に海を渡り待ち伏せていた吉岡統増(妙林尼の子)が率いる鉄砲隊が一斉射撃! これに多くの武将が打ち取られてしまいました(またイメージ作ってみました:写真⑥)。
島津義久は、多くの死傷者が出た事と秀吉の大軍が豊前を南下中との知らせを受け、今後の豊臣との決戦に備え、薩摩全軍の体制を立て直すべく、家久へ「もはやこれまで、薩摩へ撤退せよ!」と命令します。念願の宿敵「大友宗麟」の首を討ち取れる寸前あと一歩の所までせまっていた島津家久でしたが、命により無念極まりなく撤退をする事にします。これで、島津の九州制覇の野望は完全に消えてしまいました。そして大友宗麟はこれにより豊後を最後まで守りぬく事ができたのでした!
次は、津久見(大友公園:宗麟墓所)へ続きます。
【余談:臼杵観光】
臼杵城の周辺は、城下町の面影を思わせる街並みがよく残っていて、散策するにはとても良いところでした。城から正面にまっすぐ続く石畳の道は、宗麟が作った道で、突き当りにはかつては教会やセミナリオ(修道院)・病院・学校などがかつてあり、南蛮人も多く、ゾウもここを歩いていたとか?(イメージ写真⑦)。今ではこの石畳の道に、臼杵名物の味噌・醤油の店(フンドーキン・富士甚)やおみやげ屋が並び、教会を模した休憩所などもありました(写真⑧)。またすぐ横の「二王座歴史の道」には、鉄砲を撃ちかけたとされる切通しや、稲葉貞通時代に建てられた寺が多く残っていました(写真⑨)。少し行った所には「臼杵石仏」などもあるので(写真⑩)、臼杵城を訪れた際には、これらも散策される事オススメです!(私もゆっくり歩いてきました😊)。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2022/11/24 08:07
【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第13回)臼杵城(丹生島城)① (2022/09/26 訪問)
(鶴崎城からの続きです)
大友宗麟は、キリスト教に没頭する自分に対する家臣の不満を避けるため、家督と大友館を息子の義統に譲り、自らは早々に臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に城を築いて移り住み、城下には教会・修道院・学校・病院などを建て、キリスト教の街を作っていました。南蛮貿易も盛んに行われ、臼杵の街は大変賑わっていたそうです。そしてこの臼杵城(丹生島城)は、当時の大手口は海側(卯寅口:写真①)のみにあり船でしか出入りできませんでした。島の周りは40mの断崖絶壁で近づく事すらできない難攻不落の浮城と呼ばれていました。家督譲りも表向きで、重要な政事(まつりごと)は全てこの臼杵で行われていたようです。
大友氏改易後は、1593年に「福原直高」が入り石垣造りの城へ改修を始めます(大友時代は断崖の上に館のみ)。そして現在の古橋口に大手門(写真②)を作り陸続きとし、天守台(写真③)などができた時点で直高は府内へ。代わって1597年に「太田一吉」が入り天守台の上に三重の望楼型天守を完成させ(写真④ここに天守があった)、また31基の櫓と7つの櫓門を造り、現在のような城の原形を完成させました。九州の関ケ原では太田一吉は西軍についたため、東軍の中川秀成(後の岡城主)から攻められます。しかし、この城は大友宗麟の時と同じ、またしても落ちる事はありませんでした。2度の戦にも落ちなかった難攻不落の浮城というわけです。
関ケ原後は、郡上八幡から「稲葉貞通」が入り大手門の改修や二の丸の総石垣化などで形を整え(写真⑤⑥⑦)、幕末まで稲葉氏15代の居城となりました。島も江戸時代に入り砂が堆積したり埋め立てられたりして陸続きとなり、城下も拡張されていったようです。稲葉氏の時代の畳櫓(写真⑧)と卯寅口門脇櫓(写真⑨)が現存しており、ともに珍しい重箱櫓となっています。
続100名城スタンプは大手門(古橋口)の前の「観光交流プラザ」内の受付にあります。その観光交流プラザには無料の駐車場があるため、車の方はそこに止めて見学されたらいいと思います。JR臼杵駅からは徒歩10分程です。「城びと」の大きな看板も大手門(古橋口)横にありましたよ!(写真⑩)。
臼杵に入った島津軍はまず街を焼き払います。この時、宗麟が心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院なども全て焼き払われてしまいまいた。宗麟にとってこれはとてもくやしくかつ屈辱的であったようです。そして島津軍は丹生島に近づけないため、陸より鉄砲を放ちます。しかし、届きません。3日間攻め続けますが、落とす事はできません。
この後、大友宗麟はこのまま籠城を続けるかと思いきや、このくやしさを晴らすべく、何と討って出る事にしました! 実はこの時、宗麟にはある秘策がありました。いったい宗麟はどうやって島津軍を攻め、どうやってこの臼杵城を守り抜こうとしていたのでしょうか?
臼杵城②へ続きます。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
城地種類 | 連郭式平山城 |
---|---|
築城年代 | 永禄5年(1562) |
築城者 | 大友宗麟 |
主要城主 | 大友氏、福原氏、太田氏、稲葉氏 |
文化財史跡区分 | 県史跡(臼杵城跡) |
天守の現況・形態 | 複合式望楼型[3重4階/1601年築/破却] |
主な関連施設 | 大門櫓、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、櫓、石垣、横堀(空堀) |
住所 | 大分県臼杵市臼杵1175 |
---|---|
問い合わせ先 | 臼杵市観光情報協会 |
問い合わせ先電話番号 | 0972-64-7130 |