大友宗麟、耳川・無鹿からの続き(12)です。
臼杵城は、万が一豊後の国で戦が起きた場合、大友館は平地にあるため戦えず、また門司城で敗れた小早川水軍に対抗し、さらに豊後水道を通る南蛮貿易船を守るために、宗麟が密かに軍事・貿易目的で築いた城でした。
臼杵駅から5分程歩くと、城の東側の卯寅口に着きます(写真①)。宗麟の時代は四方を海に囲まれていたため、丹生島と呼ばれていました。そしてこの卯寅口のみが唯一船で上陸できる場所で、ポルトガルから輸入したフランキ砲(国崩し)も備えた要塞の島でした。その反面、南蛮貿易の拠点も府内の神宮寺浦からここ臼杵に移したため、城下では教会やセミナリオや病院も建てられて南蛮人も多く行き交う、まさに宗麟が理想とする南蛮文化で栄えた街だったようです。
島津との雌雄を決した高城川・耳川の戦いに敗れ、その直後に重臣筆頭の立花道雪が龍造寺と対峙していた筑後高良山で病死し、同じく外交に長けた重臣の臼杵鑑速も病死、さらに忠義に厚かった高橋紹運も岩屋城で壮烈な討死をすると、家臣たちの離反が相次ぐようになります。もはや自力で大友家を立て直す事ができなくなった宗麟は、大坂に行き豊臣秀吉に助けを乞いました。
秀吉との謁見に先立ち、大坂城では秀長が丁重に接待してくれたそうです。そして秀長は宗麟を千利休の茶室に招き、そこで宗麟の手を握り、
内々の事は千利休に
表向きの事はこの秀長に
何でも相談されるがよい
と言葉をかけたそうです。恥を忍んで秀吉に助けを求めに来た宗麟にとって、この温かい言葉には、どんなに救われた事でしょうか。秀長は豊臣政権の中で本当に欠かせない存在だったようですね。このシーンは大河ドラマ豊臣兄弟の中でも、必ず取り上げられるのではないでしょうか? 私は密かに期待しています😊。
そしてその間、宗麟の子の大友義統は北上する島津家久と対峙しますが、秀吉の命で四国から仙石秀久と長曾我部元親が援軍に来たにもかかわらず戸次川の戦いに敗れ、大友館は焼かれてしまいます。義統は高崎山城に逃げ込み敗走したようです。一方の宗麟は、大坂より戻るとこの臼杵城に立て籠もり、秀長の援軍が南下するまでフランキ砲で応戦し、また果敢に夜襲を仕掛けて島津軍をかく乱! 何と秀長15万の援軍が到着するまで、この臼杵城を守り抜いたのでした~!
しかし宗麟も、もはやここまででした。次は宗麟終焉の地(大友別館)に続きます。
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