続日本100名城

かつれんじょう

勝連城

沖縄県うるま市

別名 : 勝連グスク
旧国名 : 琉球

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勝連城
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とばつびしゃもん

肝高の城 (2024/12/31 訪問)

14年ぶりの登城。当時はなかったあまわりパークに駐車し大晦日も開館している歴史文化施設館へ。阿麻和利をヒーローにしたシアターが見られる。企画展示室では「グスクとは城か?」という展示がありとても興味深く見学できました。
施設館から歩いて数分、西原御門から登城開始。四の曲輪から見上げた三の曲輪石垣の姿は壮観。
三の曲輪から殿舎のあった二の曲輪を通って20分で一の曲輪へ。吹き飛ばされそうな強い風の中、北には金武湾、南には中城湾の眺望は爽快。
阿麻和利が城主の頃は京都や鎌倉ほど繁栄し、肝高(きむたか)と表現されたとか。
下城後、施設館横の観光ターミナルで続日本100名城スタンプポン。

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トク

⑧【護佐丸と沖縄6城】(4)勝連城(2/2) (2025/02/06 訪問)

勝蓮城の続き(2/2)です。二の曲輪から階段を登り(写真①)、いちばん最上部の一の曲輪へ着きました。一の曲輪には玉ノミウヂ御嶽がありました(写真②③)。ここは祈祷をする場所でもあり見張りの場所でもあったようです。東は知念半島と宮城島(写真⑤)、北には金武湾(写真⑥)、南は太平洋、西は中城湾(写真⑦)と四方を海と半島に囲まれた、とてもすばらしい景色でした。

護佐丸がまだ座喜味を居城としていた頃、先の勝連按司「茂知附」は尚国王に従おうとはせず、勝連で独裁政治を行っていました。そしてだんだんと勢力を拡大し、国王を脅かすようになります。阿麻和利は嘉手納の農民の捨て子で、茂知附に拾われ育てられたと伝わっています。1440年悪政により困窮している勝連の領民たちを見かねた阿麻和利は、何と養父の茂知附を討ち自らが勝連按司となります。そして漁業や貿易を盛んにし、勝連を豊かな地にしたため、領民からは慕われていったようです。

しかし同じ年、三代目の琉球国王となった尚中の命により、護佐丸が座喜味より自ら築いた中城城に移り按司となります。阿麻和利は勝連按司となったものの、勝連城を睨むように巨大な城を建てた護佐丸を常に脅威に感じ、やはり琉球国王には従おうとしませんでした。

しかしその13年後(1453年)、阿麻和利に転機が訪れます。王位継承をめぐり四代目「尚金福」死後、王の子「志魯」と王の弟「布里」の間で家督争いが起き、首里城は戦乱で焼かれ両者ともに命を落とします(志魯布里の乱)。その3年後に首里城は再建され、二番目の弟「尚泰久」が王位に着くと、弱体化した王朝を立て直すため、国王は自分の娘「百十踏揚」(ももとふみあがり)を阿麻和利の妃にして和睦を計ろうとします。しかし阿麻和利はこの関係を逆に利用し、護佐丸と国王をこの際一気に滅ぼして、琉球王国を乗っ取ってやろうと企んだのでした。

私は勝連城の一の曲輪から中城湾を眺めて見ました。確かに喉元に刃(やいば)を突きつけるような場所に、護佐丸の建てた中城城が見えました(写真⑦)。

勝連按司となった阿麻和利は、「どうやったらあの邪魔な護佐丸を滅ぼす事ができるのだろうか?」。毎日ここから中城城を眺め、その事ばかりを考えていたのではないでしょうか?

次は「首里城」に続きます。
 

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トク

⑦【護佐丸と沖縄6城】(4)勝連城(1/2) (2025/02/06 訪問)

4城目は、護佐丸の最大のライバル阿麻和利が居城とした「勝連城」です。

県庁北口から沖縄バス[52]慶名BT行に乗り130分(含遅着30分)、勝連城前で下車し、まず城を見上げました(写真①)。そして道路を渡らず左後ろにある「あまわりパーク」で入城券を購入し、城の歴史や発掘品や阿麻和利を解説するシアターをまず見ました。とても迫力があり、よくできているな~と感心。続100名城スタンプをその外のインフォメーションセンターで押し(写真②)、いざ道路を渡ると四の曲輪までカートに乗せてもらい、ここから登城開始です(写真④)。

勝連城は標高98mの台地に石灰岩の曲線的な石垣に囲まれ、階段状の5つの曲輪を構えた曲線がとても美しい城でした。また南北の海、東西の半島に囲まれた景色は抜群で、とても気持ちよかったです。

まず四の曲輪から階段を登ります(写真⑤)。四の曲輪にはわずかに外郭の石垣が残っていました(写真⑥)。階段を登った先には城門跡があり、ここからが内郭であったようです。城門跡から三の曲輪に入ります。三の曲輪はおそらく普段は儀式などに使われ、戦の時は兵士が集まり按司を守った場所ではないでしょうか? 

そこから二の曲輪に上がると居館跡の礎石がありました(写真⑧)。ここに阿麻和利の居館があったものと思われます。そしてここから三の曲輪を見下ろし、三の曲輪に整列した兵士に向かって訓示をしたり儀式を行ったりしていたのではないかと想像しました(写真⑦)。

ここで突然頭上からものすごい爆音が! 普天間基地へ向かう米軍のオスプレイでした。地元の人々にとっては、本当にいい迷惑ですね(写真⑩)。

次は(2/2)、一の曲輪へ続きます。
 

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歴史文化施設・あまわりパーク (2024/11/24 訪問)

■はじめに

 こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
 山梨県甲府市で躑躅ヶ崎館跡こと史跡・武田氏館跡でボランティアガイドを行っていて、ふだんは躑躅ヶ崎館に関する情報を投稿しています。
 今回は番外編として、Eがただいま在住している沖縄のグスク、勝連グスクに関する情報として、グスクに隣接するおすすめの歴史文化施設、「あまわりパーク」を紹介します。
 
 ※おことわり
  この投稿は2024年11月時点の状況に基づき執筆しています。
  また、文中の記述はEこと上田絵馬之助個人の見解であり、躑躅ヶ崎歴史案内隊の見解ではありません。
  あと、長いです。
  まとまった時間のある時に、腰を据えて読んでください。


■「あまわり」って何だ?

 そもそも「あまわり」とは何でしょうか。
 平仮名ではあまわり、あまおへと称されることもあり、漢字では「阿麻和利」と書かれるこの名は、天から降りてきた者《天降り(あまおり)》が転じたと言われます。
 そして、この名で呼ばれた人物こそ、勝連グスクの10代目にして最後の主、「護佐丸・阿麻和利の乱」当事者として古琉球史屈指の知名度の反逆者、あるいは英雄と評される、勝連按司(あじ・地方豪族)阿麻和利です。

 生年は不詳です。
 没年の1458年は室町時代、足利義政の治世に当たります。
 応仁の乱が勃発する1467年の少し前です。

 琉球では北山・中山・南山に分かれて争った三国時代とも言える《三山時代》が、1429年に中山の尚巴志(しょうはし)によって統一され、首里城を王府とする第一尚氏王朝が誕生してから30年ほど過ぎて、巴志の五男・泰久(たいきゅう)が第6代琉球国王として支配を強化していた頃で、一方では、後に尚円王として第二尚氏王朝を打ち立てる金丸(かなまる)が王府に仕えて頭角を現していた頃です。

 阿麻和利の前半生については、伝承によってさまざまな姿が伝えられています。
 幼名は「加那(かなー)」。農民の生まれとも、他所の按司の子とも言われます。
 北谷間切(ちゃたんまぎり・現在の北谷町・嘉手納町)の出身と言われますが勝連に移り住み、当時の勝連按司・茂知附(もちづき)を追放して、一代で勝連グスクを手中に収めたと言われています。
 このあたり、茂知附が悪政をふるう按司だったとも、追放でなく殺害したとも様々に語られますが、これに替わって按司を継いだ阿麻和利は、
 土地が狭く耕地に向かなかった勝連で漁業を振興させ、また、海外交易によってその経済を発展に導き、強い勢力を有するようになったと伝えられます。
 

■護佐丸・阿麻和利の乱~反逆者から英雄へ

 勢力を拡大する阿麻和利に、首里王府は尚泰久の娘・百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせ姻戚関係を結ぶ一方で、勝連への抑えとして、かつて三山統一に活躍した名将・護佐丸(ごさまる・娘は尚泰久の妃で百度踏揚の祖父)に中城グスクを守らせます。
 勝連と中城の地は中城湾をはさんで互いに目にできる位置にあり、祖父と孫婿にあたる二人が対峙する形となります。

 王府が編纂した琉球の歴史書「中山世鑑」などによると、やがて阿麻和利は王に替わる野心を抱き、1458年、中城グスクの護佐丸に謀反の濡れ衣を着せ、自ら軍を率いてこれを滅ぼします。

 その後いよいよ首里へ攻め入ろうとしていたところ、妻・百度踏揚が勝連グスクを脱出して彼の野望を王府に知らせたことによりその討伐を受け、護佐丸と同じ1458年のうちに、大城賢雄(うふぐしくけんゆう・後に百度踏揚の夫)に討たれたとされています。

 阿麻和利は王府によって反逆者と記録され、後年18世紀に生まれた琉球芸能「組踊」の演目「二童敵討」で、護佐丸の遺児に討たれる按司・あまおへ役として描かれたことも相まって、「護佐丸・阿麻和利の乱」で反逆を企て、無実の護佐丸を死に追いやったヒールとして定着し、現代まで長く伝えられてきました。

 ところが一方で、16世紀から17世紀にかけて王府が官民の詩歌を収集・編纂した沖縄版万葉集とでもいうべき「おもろさうし(そうし)」には、当時の勝連の繁栄ぶりを伝えた歌や、阿麻和利を「肝高(きむたか・志高い。勝連の美称でもある)の」と称し、勝連に富をもたらした英雄として讃えた歌が収録されています。

 また、近代の琉球史研究において、「中山世鑑」などの歴史書を王府に都合よく書かれたものとして、王府が琉球支配を確立するため、有力按司だった護佐丸と阿麻和利を処断し、反乱として記録したのでは?と、おもろさうしの精査とともに阿麻和利を再評価し、反逆者の汚名を払拭する動きもみられます。

 果たして阿麻和利は反逆者だったのか、英雄だったのか。
 いずれにしても、古琉球史において阿麻和利の名は、尚氏王朝が琉球支配を確立した時代を彩った存在として、今日まで伝えられています。
 

■あまわりパーク①~勝連と阿麻和利を知る

 「あまわりパーク」は勝連グスクと県道を隔てた反対側に位置する歴史文化施設です。
 様々な展示によって、勝連グスクそして阿麻和利を知ることができます。

 常設展示室に入ると、順路の廊下に勝連の繁栄と阿麻和利を讃える「おもろさうし」の収録歌がプロジェクターで映写されてます。

 廊下を抜けると、広い展示室にパネルやグスクのジオラマ、展示台が並んでいます。
 パネル展示では阿麻和利という人物を解説し、あるいはグスクの時代から現代までの勝連を紹介するほか、グスクを再現した巨大ジオラマや当時の交易船の模型が飾られ、展示台のケースの中にはグスクの出土品が数多く陳列され、阿麻和利とその時代を中心に勝連グスクの姿を伝えてくれます。

 展示される出土品は実物が並び、陶磁器、武具のほか、古代ローマ・アラビアのコインが目をひきます。
 当時の琉球は日本、朝鮮、中国、東南アジアと交流があり、これらは交易によって海外から勝連にもたらされ、
 勝連の繁栄の裏付けと考えることができます。

 また、甲冑ガイドとして特筆したい武具については、刀や矢の部品のほか、ブロック状に固まった胴鎧の一部と思われる破片が展示されています。

 現在沖縄には完全体で残る甲冑は一領もありませんが、発掘調査で断片的に出土するのは、すべて日本式の鎧兜の部品である小札(こざね)、八双(はっそう)金物、立物(たてもの)などであり、王家の宝刀として現代まで伝わる千代金丸(那覇市歴史博物館所蔵)などの日本刀とあわせて、阿麻和利や護佐丸たち古琉球の武将は、日本式の甲冑に身を固めて戦っていた可能性が高いと考えられています。

 なお、展示パネルでは、阿麻和利は陣羽織に前立のついた頭巾姿で描かれていますが、
 これは組踊の舞台衣装であり、歌舞伎の石川五右衛門のように戯画化された格好であることを補足します。


■あまわりパーク②~アニメとパフォーマンスを見る

 あまわりパークの見どころは資料展示ばかりでありません。
 展示室中央には大型スクリーンとステージ、客席で構成されるライブシアターがあり、勝連グスクと阿麻和利を紹介する様々な作品が上映、上演されます。

 大型ビジョンに上映される映像作品には阿麻和利や勝連グスクを解説した映像のほか、うるま市が制作したアニメーション「勝連おもろそうし」が公開されています。

 「阿麻和利編」「百度踏揚編」の2作品がありますが、阿麻和利を演じるのは星飛雄馬やアムロ・レイを演じたレジェンド声優、古谷徹さん。
 そして、沖縄県出身の声優でアニメ作品で活躍する下地紫野さん、「機動警察パトレイバー」などのベテラン声優・池水通洋さんほかが出演されてます。
 この作品はうるま市のYouTubeで公開されているので、あまわりパークを訪れる前や訪れた後にも楽しむことができます。

 そして、あまわりパークの目玉と言っても過言ではないのが、ライブパフォーマンス。
 地元うるま市の中高生が20年以上も代々演じている、琉球版ミュージカルともいうべき現代版組踊「肝高の阿麻和利」。
 そのスピンアウト作品が、土日祝の休日に上演されています。

 沖縄の古典芸能"組踊"にエイサーやダンスなどを取り入れた「現代版組踊」。
 「肝高の阿麻和利」本編にも出演する演者さんたちが、ダイナミックな演舞と映像・照明の視覚効果を取り混ぜてのパフォーマンスで、阿麻和利の半生をめぐる時間の旅にいざない、阿麻和利やその時代をより身近に感じることができ、そして、それを創っている地域の人たちの熱さを知ることができます。


■むすびに

 最後にむすびとしてひとつ。

 勝連グスクを訪ねる際には、まずあまわりパークの展示によって、阿麻和利の生涯を知ってからグスクへ行くことをおすすめします。

 小高い丘にそびえ立つ、グスクの曲輪の高みに登って、
 勝連半島から沖縄本島、そして東海岸の海を見渡したとき、
 阿麻和利が見た風景としてこれらを見ることができるからです。

 護佐丸の居城・中城とにらみあい、
 遥かな首里王府に思いを馳せ、
 中城湾からはアジアそして世界へ続く
 海の道を望むことができて、

 阿麻和利は、果たして反逆者なのか、英雄なのか……
 自分なりの答えを探す楽しさを体験することができます。

 以上、あまわりパーク、そして阿麻和利を紹介しました。
 長文におつきあいいただきありがとうございました。


□あまわりパーク要目
 (2024年11月現在・公式サイトから)

 正式名称 あまわりパーク歴史文化施設
 開館時間 午前9時~午後6時
      ※入館は閉館30分前
 休 館 日 年中無休
      ※点検等による臨時休館あり
 料  金 大人(高校生以上)
      個人600円 団体480円
      小人(中学生以下)
      個人400円 団体320円
      ※団体は20人以上
      ※勝連城跡・常設展含む
      ※6歳未満無料
      ※うるま市内の小中学生全額免除
 公式サイト https://www.katsuren-jo.jp/
      ※勝連城跡公式サイト内に掲載

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城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 13〜14世紀
築城者 茂知附按司?
主要城主 茂知附按司、阿麻和利
文化財史跡区分 世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国史跡(勝連城跡)
天守の現況・形態 なし
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、井戸、拝所
住所 沖縄県うるま市勝連南風原1710
問い合わせ先 うるま市役所
問い合わせ先電話番号 098-974-3111