⑧【護佐丸と沖縄6城】(4)勝連城(2/2)
(2025/02/06 訪問)
勝蓮城の続き(2/2)です。二の曲輪から階段を登り(写真①)、いちばん最上部の一の曲輪へ着きました。一の曲輪には玉ノミウヂ御嶽がありました(写真②③)。ここは祈祷をする場所でもあり見張りの場所でもあったようです。東は知念半島と宮城島(写真⑤)、北には金武湾(写真⑥)、南は太平洋、西は中城湾(写真⑦)と四方を海と半島に囲まれた、とてもすばらしい景色でした。
護佐丸がまだ座喜味を居城としていた頃、先の勝連按司「茂知附」は尚国王に従おうとはせず、勝連で独裁政治を行っていました。そしてだんだんと勢力を拡大し、国王を脅かすようになります。阿麻和利は嘉手納の農民の捨て子で、茂知附に拾われ育てられたと伝わっています。1440年悪政により困窮している勝連の領民たちを見かねた阿麻和利は、何と養父の茂知附を討ち自らが勝連按司となります。そして漁業や貿易を盛んにし、勝連を豊かな地にしたため、領民からは慕われていったようです。
しかし同じ年、三代目の琉球国王となった尚中の命により、護佐丸が座喜味より自ら築いた中城城に移り按司となります。阿麻和利は勝連按司となったものの、勝連城を睨むように巨大な城を建てた護佐丸を常に脅威に感じ、やはり琉球国王には従おうとしませんでした。
しかしその13年後(1453年)、阿麻和利に転機が訪れます。王位継承をめぐり四代目「尚金福」死後、王の子「志魯」と王の弟「布里」の間で家督争いが起き、首里城は戦乱で焼かれ両者ともに命を落とします(志魯布里の乱)。その3年後に首里城は再建され、二番目の弟「尚泰久」が王位に着くと、弱体化した王朝を立て直すため、国王は自分の娘「百十踏揚」(ももとふみあがり)を阿麻和利の妃にして和睦を計ろうとします。しかし阿麻和利はこの関係を逆に利用し、護佐丸と国王をこの際一気に滅ぼして、琉球王国を乗っ取ってやろうと企んだのでした。
私は勝連城の一の曲輪から中城湾を眺めて見ました。確かに喉元に刃(やいば)を突きつけるような場所に、護佐丸の建てた中城城が見えました(写真⑦)。
勝連按司となった阿麻和利は、「どうやったらあの邪魔な護佐丸を滅ぼす事ができるのだろうか?」。毎日ここから中城城を眺め、その事ばかりを考えていたのではないでしょうか?
次は「首里城」に続きます。
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