日本100名城

しまばらじょう

島原城

長崎県島原市

別名 : 森岳城、高来城
旧国名 : 肥前

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島原城
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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/02/16 訪問)

長崎県の城制覇3日目の行程
※前日、諫早駅にあるホテル泊
※原城とともに登城

7:44諫早(島原鉄道)、8:55島原,9:05島原駅前(路線バス)、10:00原城前
 (徒歩12分)原城跡(続百名城スタンプ:原城跡総合案内所9:30-16:30) ※有馬キリシタン遺産記念館も押印可(9:00-18:00:木休)

11:48原城前(路線バス)、12:47大手 
 (徒歩9分)島原城(百名城スタンプ:9:00-17:00最終入場:無休) 

15:14島原(島原鉄道)、16:19,16:35諫早(JR)、17:56佐世保(徒歩3分),18:51駅前バスターミナル(路線バス)、20:19猶興館高校入口
 ※ライトアップされた平戸城を散策
  城内は神社辺り以外は街灯がなく参道は暗いので明かりの用意を

 泊:平戸

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todo94

城カードゲット (2023/12/27 訪問)

島原城の入場料が、700円、駐車場代が500円、城カードが350円。ここだけで1550円もかかってしまいました。いつも原城と抱き合わせてしまうので島原城は駆け足での攻城となってしまいがちなのですが、今回はここから諫早方面に引き返す予定なので、島原城にそれなりに時間をかけることができます。廊下橋跡や二の丸周りの堀などじっくりと散策させていただきました。

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トク

90【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (豊久初陣の地②-沖田畷の戦い) (2024/01/15 訪問)

(25人目)島津豊久の続き③です。豊久初陣の地「沖田畷」(おきたなわて)を訪れてきました。

島原鉄道の島原駅や島原城から北へ徒歩20分程の所にある一帯です(写真①)。龍造寺隆信が自刃したとされる場所には供養塔が立っていました(写真②③)。また近くには隆信の家臣が後に住みつき、亡くなった者たちの霊を慰めるために建てたという二本木神社もありました(写真④⑤)。

“畷”とは(田んぼの一本道)という意味だそうです。当時その両側は腰まで浸かるほどの泥田地帯だったとか。龍造寺軍5万、島津・有馬連合軍はわずか8千、数的には圧倒的に不利な状況です。しかし、祖父の日新公から学び、知略に長けた家久は、事前に家老の鍋島直茂を調略し、そして龍造寺本隊をここ沖田畷の一本道にうまく誘い込み、軍勢が身動きできなくなった所を、得意の釣り野伏で襲撃! 何と総大将の龍造寺隆信を討ち取るという大金星を上げたのでした!!! 当時13才だった豊久は、この時父の家久に同行して敵首級を上げ、見事に初陣を飾ったと伝えられています。

私は沖田畷の一本道があったとされる、現在の島原鉄道の線路に立ち合戦地を眺めてみました(写真⑥)。この踏切の右側に隆信の供養塔があり、左側に二本木神社があります。そして、おそらくこの線路が畷の一本道で、線路の両側が腰まで浸かる程の泥田だったのではないかと思われます。何だかここで、駆け回る豊久の勇ましい初陣姿が、目に浮かんでくるようです。

この活躍で、家久には恩賞として日向佐土原の地が与えられます。そして家久と豊久は、串木野城から佐土原城へ移り、そこから長兄義久の命で豊後を攻めます。次兄の義弘・歳久が岡城を落とせず苦戦している間に、戸次川で仙石久秀・長宗我部元親の連合軍を破り、府内にある大友館を焼き払う快進撃を続け、最後に臼杵城に籠城する大友宗麟を追い詰めます。しかしあと一歩及ばす、逆に豊臣の大軍の反撃に会い、兄三人とともに根白坂で戦うも敗れ、そして家久は佐土原城へ逃げ帰ります。豊久もこの時、父家久とともに佐土原へ逃げ帰ったようです。

次は、家久死後に豊久が城主となった関ケ原当時の居城「佐土原城」を訪れます。
 

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トク

89【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (豊久初陣の地①-森岳城) (2024/01/15 訪問)

(25人目)島津豊久の続き②です。豊久初陣の地「森岳城(島原城)」を訪れてきました。

島原城は今年築城400年を迎えます(写真①)。そのため昨年は、足場と防護網に覆われ白漆喰の塗り直しを伴った外壁工事が行われていたので、外からその姿を見る事はできませんでした。しかし工事は昨年末に終了し、今の島原城は白く美しくよみがえっていてとても綺麗でした(写真②③④)。すぐ西の通りにある武家屋敷もよく保存されており、タイムスリップした感覚が味わえます(写真⑤)。湧水や温泉も近くにあるので、散策するにはとてもいい所です。

現在のこの美しい層塔型の島原城は、江戸時代に大坂の陣の功績で大和五条から入った「松倉重政」が築城したものです。それ以前のここには、日野江城主「有馬晴信」が支城として築いた「森岳城」がありました(説明写真⑥)。1578年豊後の大友氏が耳川の戦いで島津氏に破れると、その隙に佐賀の「龍造寺隆信」は勢力拡大を開始します。そして1584年には自ら5万の大軍を率いて島原に進攻してきました。それに対し、有馬晴信から援軍の要請を受けた島津氏は、四兄弟末弟の家久を送り込みます。そして家久は4千の軍勢でここ森岳城に布陣、晴信の軍勢4千と合わせ計8千で龍造寺軍を迎え撃ちます。そして森岳城の眼下に見える沖田畷(おきたなわて)で両者激突しました。

私は島原城の天守に登り眺めてみました。東には島原城下(島原駅)や有明海や遠く熊本まで見えました(写真⑦)。西には雲仙普賢岳が迫って見えました(写真⑧)。そして北にある合戦地の沖田畷を眺めてみました(写真⑨)。あそこには、こちらに攻めて来る龍造寺の5万の大軍がいました。まだ若干13才の豊久はどんな思いでここから同じように龍造寺の大軍を眺めていたのでしょうか? そしてどんな思いで父家久とともに、その大軍めがけ、ここから駆け下りて行ったのでしょうか?


【余談】島原名物「具雑煮」
島原名物の具雑煮を食べてきました(写真⑩)。城のすぐ目の前にある「姫松屋」ここがオススメです。具雑煮とは、冬に行われた島原の乱で、一揆軍は寒さのため士気が落ちた所を、天草四郎が野菜や魚など何でも鍋に入れて温め、その上に餅をのせて皆にふるまい、元気づけたとの事から広まった陣中食のようです。確かに食べているうちに、何だか元気が出ててきました。

さあこれより豊久初陣の地「沖田畷」へいざ出陣、私もここから駆け下ります! と思いましたが酔いが回ってきたので、ゆっくり歩いて下りる事にします(すいません😩~)。
 

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概要

本丸・二の丸・三の丸が並ぶ連郭式に松倉重正が築いた平城。石垣の延長が約4kmに及ぶほど巨大な城で、五重五階の層塔型天守を中心に3棟の三重櫓・33棟の平櫓が建っていた。折を多用した高石垣の見事さは、本丸西側の屏風折の高石垣などから今も伺える。

城郭情報

城地種類 連郭式平城
築城年代 寛永元年(1624)
築城者 松倉重政
主要城主 松倉氏、松平(深溝)氏
天守の現況・形態 独立式層塔型[4重5階/1626年築/破却(廃城令)]、独立式層塔型[5重5階/1964年築/RC造復興]
主な関連施設 天守、丑寅櫓、巽櫓、西櫓(外観復元)、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)
住所 長崎県島原市城内1
問い合わせ先 島原市役所
問い合わせ先電話番号 0957-63-1111