知覧からの帰りに鹿児島城に立寄りました。御楼門は相変わらず美しいです。しかしその奥にある、西郷隆盛らが立て籠もるこの城に向かって官軍が放った弾痕跡とのギャップが、何とも複雑な薩摩の歴史を物語ってくれます。
鹿児島城の築城者は「島津忠恒」です(後に家久と改名)。忠恒は島津義弘の子ですが、嫡子の無かった当主義久(叔父)の後を継ぎ当主となりました。関ケ原の直前にあった島津家の内乱(庄内の乱)では、首謀者「伊集院忠棟・忠真」父子を自ら斬殺して乱を鎮め、これで家康から一目置かれるようになります。しかし関ケ原後、義弘の処遇を巡り義久は家康と対立! 義久は一戦辞さずと戦の準備にかかります。その中で忠恒は、井伊直政の協力を得て、伏見の家康との仲介に奔走します。そして家康から信頼されるようになり、薩摩・大隅の本領安堵をとりつけて初代薩摩藩主に任命され、それまでの内城から鹿児島城(鶴丸城)を新たに築城しました。
しかしそれでも薩摩藩は、徳川宗家、加賀前田藩に次ぐ3番目77万石の大藩です。ですが城には天守もなく敷地もさほど広くなく、「え!これが77万石の大藩の城ですか?」と訪れた皆さんは誰もが思われたのではないでしょうか? おそらく20万石程度の大名と同じ大きさだと思います。52万石の姫路城や福岡城などと比べると、はるかに小さくて質素なのがよく分かると思います。それは徳川から怪しまれぬよう恭順の意を表向きは示すために、このような大きさや形にしたものと思われます。そして裏では密かに113の外城を築きます。
ここまで来ると、私は急に桜島が見たくなったので、背後の城山へ登る事にしました。鹿児島にしてはこの日は寒く、気温は5℃くらいだったでしょうか。よってシティビューバスに乗り頂上まで行きました。ここから見る桜島はいつ見ても感動です! この日は山頂にうっすらと雪が積もっているという、何とも珍しい光景を目にする事ができました。
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