日本100名城

おかじょう

岡城

大分県竹田市

別名 : 臥牛城、豊後竹田城
旧国名 : 豊後

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岡城
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トベシュン

九州13城巡り (2022/11/20 訪問)

五日間で九州13城巡りしてきました。
初日は、福岡城址、大野城址、佐賀城址。二日目は、吉野ヶ里遺跡、名護屋城址、平戸城。三日目は島原城、熊本城、人吉城址。
四日目、鹿児島城址、飫肥城址。五日目、岡城址、府内城址。
二回目の訪問。前回は四十年以上前。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第5回)岡城合戦(その3)-鬼ヶ城① (2022/09/21 訪問)

「岡城合戦(その2)-滑瀬橋」からの続きです。

ついに戦いは第3戦までもつれてきました。
志賀親次はキリシタンであり「ドン・パウロ」という先洗名を持っていました。キリシタンは義のためなら自らの命をも惜しまない、島津軍にとっては予想外の難敵となりました。

義弘の命で片ケ瀬の陣に戻った歳久ですが、やはりこのままではどうしても川を渡る事ができません。そこで、ならば逆に誘い出そうと親次にこう話を持ち掛けます。「城に籠るは臆病者のする事。正々堂々と城から出て我と戦おうではないか!」 ならば親次も誘いに乗ったふりをしてこう返事をします。「そなたもこのままでは川を渡れぬであろう。ならば案内を出し少し上流の渡れる場所を教える故、そこから川を渡られるがよい。渡った場所にある鬼ヶ城で我は待っておるゆえ、そこで戦おうではないか!」 兄の義弘はかつて木崎原の戦いで伊東氏を破り、弟の家久は沖田畷の戦いで龍造寺氏を破りそれぞれ名声を上げていました。そんな義弘・家久に比べ、兄弟の中では華々しい手柄がまだない歳久、故にこれは好機とこの誘いにまんまと乗ってしまいます。そして案内に従い渡れる場所まで行き、歳久6,000の軍勢が川を渡りきったその時、またも隠れていた志賀軍の鉄砲隊が一斉に射撃! 歳久はそこでだまされた事に気づき、命からがら逃げようとします。そこを志賀軍の騎馬隊がさらに追撃、歳久軍は名だたる武将級370をも討ち取られるという大損害を出してしまいました(志賀軍の損害はわずか50)。この失態を知った義弘はまたも大激怒! 急ぎ片ケ瀬へ戻りますが、そこに豊臣軍12万が豊前小倉に上陸したとの知らせが届き、死傷兵も増えていたところに義久からの撤退命令も届きます。よって義弘は岡城攻撃を断念し撤退する事にしました。こうして志賀親次は、3度に渡り島津軍を撃退し勝利したのでした!

まず川の橋から鬼ヶ城を眺めて見ました。歳久はこの川を右から左に渡ったようです(写真①-前回説明したダムが今度はこのすぐ下流にあるため現在は水量がとても多いですが当時は渡れるというくらいなのでもっと少なかったはずです。地図写真③)。

また遊びでイラストを作ってみました(写真②)こんな感じの戦だったのではないでしょうか?

島津義弘・歳久はここで撤退しますが、義弘は最後にこうつぶやきました。

「志賀親次は楠木正成の再来である」

この間に、四男の島津家久は佐伯氏の籠る栂牟礼城も退け、順調に進軍していました。そして、いよいよ大友家臣「利光宗魚」が籠る「鶴賀城」の攻略を開始します。

私も鶴賀城へ行く前に、もう少しだけ鬼ヶ城を歩いてから行く事にします(鬼ヶ城②へ続きます)。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第4回)岡城合戦(その2)-滑瀬橋 (2022/09/21 訪問)

「岡城合戦(その1)」からの続き、第2戦です。

島津義弘は岡城に近づく事すらできなかったため、岡城攻撃はいったん後回しとします。そして家臣の稲富新介に4,000の兵を監視役として残し、自らの本隊は歳久と共に岡城への補給路を断つため、回りの諸城を落としながら玖珠・由布方面への平定に向かいます。そして今後の秀吉軍が南下した場合に備えての軍議を行うため、義弘は家久の所にまで向かいました。

手薄になった島津軍を見た志賀親次は、「稲富新介も見ているだけでは退屈であろう、ちょっと誘い出してみるか?」とここである策に出ます。何と城兵1,500は城を捨てて、わざと城から逃げ出すふりをしました。 これに稲富新介は「これは願ってもないチャンス! 城兵がいなくなった今なら簡単に城を奪い取る事ができるではないか」とまた滑瀬橋から川を渡ります(見事に罠にかかりました)。そこでまた隠れていた志賀軍鉄砲隊が一斉射撃! あわてて戻ろうとしたその時、逃げ出しているふりをしていた志賀軍は反転。稲富新助の軍は挟み撃ちにあい、大損害を出してしまいました。

私はちょっと遊び心で、その様子を写真に重ね合わせたイラストで作ってみました。こんな感じで戦は行われていたのではないでしょうか?(写真)。

家久との軍議の最中にこの失態を聞いた島津義弘は大激怒! 急ぎ歳久6,000の兵を片ケ瀬へ戻らせます。そしてこの戦いはついに第3戦へ続きます。
 

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第3回)岡城合戦(その1)-片ケ瀬城・滑瀬橋 (2022/09/21 訪問)

「(第2回)岡城②」からの続きです。
ここからは、志賀親次と島津軍の3度の合戦の地を歩きます。まずは第1戦から。

まず島津義弘は片ケ瀬城(戸次城)に本陣を構えます(写真①)。そして島津軍はその下の白滝川に掛る滑瀬橋(ぬめりせばし)から攻め込もうとします。私も滑瀬橋に立ち、ここから岡城を見上げて見ました。その写真②を御覧下さい(いや~これは高い!)。岡城は、南を白滝川、西を玉来川、北を稲葉川に囲まれ、高さ80mの断崖が城の周りを囲むようにそびえたつ天然要害の地、また当時は現在のように木が生い茂ってなく岩肌が見えていたのでよけいに高く見えていたと思います。当時はここに木橋がかかり、唯一大手門(現在の搦手門)につながっていた道があったそうです。今はコンクリートの小さな橋になっていました(写真③)。その横に現在は国道の滑瀬橋があります(写真④)。

志賀親次はこの木橋を破壊し島津軍の侵入を阻止しようとします。すると島津軍はこの断崖絶壁を登って攻めるはまず無理と悟り、相手は少数-こちらは大軍、ならば川を渡り一気に正面大手門から攻め込めばすぐに決着はつくのではないかと島津義弘は考え、直接この川を渡り始めました。

しかし、この橋のそばをよく見ていただきたいと思います。川底は1枚岩やギザギザの岩になっています。現在はすぐ上流にダムがあるため水量が少なく石肌が半分以上見えていますが、当時はダムなどないのでもっと水量があり、川底が見えないくらい腰のあたりまで水があったようです。島津軍はその状態で川を渡ろうとしました。ところが、この石は阿蘇の火山溶岩でできた石で1枚岩は濡れると苔むしてとてもよく滑ります、更に当時は常に水の中だったので、苔が生い茂りなおさらぬめぬめするくらいに滑ったようです(だから「ぬめりせ」という地名です)。ギザギザのとがった岩の部分もつまずいたりはさまったりして足をとられます。当時は川底が見えないのでそれらがある事が全くわかりません。その状態で川を渡り、滑ったり足をとられたりして、なかなか前に進めず立ち往生する島津軍を見た志賀親次は、「これは好機!」一斉に城より討って出て鉄砲で撃ちかけました。すると島津軍はもう大混乱! 多くの死傷者を出し、この川は簡単には渡れぬと悟った島津義弘は片ケ瀬へいったん退却しました。これで第1戦は志賀軍の大勝利に終わります。しかしこれだけで戦いは終わりません。

次は、第2戦へ続きます。
 

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概要

標高325mの天神山の断崖絶壁を生かし、12世紀初めに築かれた古城。文禄3年(1595)に入城した中川秀成が本丸を中心に二の丸・三の丸・西の丸を置き、高石垣を多用した総石垣の山城へと改修した。建物はすべて解体されたが、岩盤から天に向かって直接そそり立つ三の丸北側の高石垣などが往時の威容を今に伝える。

城郭情報

城地種類 梯郭式山城
築城年代 文治元年(1185)
築城者 緒方惟義
主要城主 志賀氏、中川氏
文化財史跡区分 国史跡(岡城跡)
近年の主な復元・整備 志賀貞朝、中川秀成
天守の現況・形態 御三階櫓[階層不明/1596年築/倒壊(地震)]、複合連結式層塔型御三階櫓[3重4階/1774年再/破却(廃城令)]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀、門跡
住所 大分県竹田市大字竹田
問い合わせ先 竹田市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0974-63-1111