【赤色立体地図かるた】
(2024/12/05 訪問)
断崖で 島津も落とせぬ 岡城址
(だんがいで しまずもおとせぬ おかじょうし)
岡城は、南を白滝川・西を玉来川・北を稲葉川と三方を川に囲まれ、さらに高さ80mの断崖がそびえたつ天然の要害です。1586年、九州制覇を目指し北上する島津軍は、猛将「島津義弘」が率いる25,000の大軍で、この岡城を取り囲みます。この時ここを守っていたのは、大友家臣で若干20才の若き城主「志賀親次(ちかよし)」でした。父親も寝返って逃げ出し、城内に残ったのはわずか1500の軍勢のみ。しかし親次は降伏の道は選ばず、大友家への忠義を貫き戦う道を選びます。そして、このわずかな軍勢で果敢にも3度戦いを挑み、誰もが予期せぬ奇策を巡らせ、何と3度とも勝利します! そして豊臣の軍勢が南下するまで持ちこたえたのです。ここで薩摩の当主「島津義久」からの撤退命令が下り、義弘は最後まで落とす事ができず、無念にも薩摩へ撤退しました。この時義弘は、こうつぶやいたそうです。
「志賀親次は楠正成の再来である」
親次の時代は、滑瀬橋(現在の搦手)が唯一の城への出入口で、義弘はここを突破しようとして、この橋のあたりで激戦が行われたようです。大友家改易後は、秀吉の命で1594年、播磨三木から中川秀成が7万石で入り、現在の位置に大手門を築き、見事な総高石垣の城に改修し、秀成は家康からも所領安堵され、中川家は幕末まで豊後岡藩として存続しました。
私は個人的には(春高楼<秋紅葉)の岡城が好きです。また、高石垣の上から見る景色は雄大で迫力満点です。しかし、下から見上げてみるのも一興かと思います。確かにここを攻め落とすのは難しい🤔と感じる事ができます。
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