日本100名城

おかじょう

岡城

大分県竹田市

別名 : 臥牛城、豊後竹田城
旧国名 : 豊後

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岡城
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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2015/01/13 訪問)

「石垣が 幽玄を醸す 岡城址(いしがきが ゆうげんをかもす おかじょうし)」

幽玄と言ってもテンテンちゃんでも、キョンシーでもありません。「もののあはれ」を受け継ぐ美的観念をあらわしているようですが、中世の山城は無常感が満ちていて、雰囲気に会っていると思います。これが総石垣の平城だと、あまり雰囲気が出ない。総石垣の山城に朝霧などかかっていると言うことが無い、竹田城とか津和野城などはいい感じですね。
以前 竹田城を訪問した時は朝5時から登って、城址に着いた時は6時くらいでした。朝霧が出ていて、まさに幽玄の世界でしたね。がっつり朝霧が見たかったら、もう少し早い方が良さそうだけど。

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赤い城

【赤色立体地図かるた】

荒城も 今や名城 岡城址
(こうじょうも いまやめいじょう おかじょうし)

滝廉太郎の荒城の月のモデル、岡城。
曲はあまり知らないのでなんとも言えません。
100名城に選出されるくらいの城、未訪なので行ってみたい城です。

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トク

【赤色立体地図かるた】 (2024/12/05 訪問)

断崖で 島津も落とせぬ 岡城址
(だんがいで しまずもおとせぬ おかじょうし)

岡城は、南を白滝川・西を玉来川・北を稲葉川と三方を川に囲まれ、さらに高さ80mの断崖がそびえたつ天然の要害です。1586年、九州制覇を目指し北上する島津軍は、猛将「島津義弘」が率いる25,000の大軍で、この岡城を取り囲みます。この時ここを守っていたのは、大友家臣で若干20才の若き城主「志賀親次(ちかよし)」でした。父親も寝返って逃げ出し、城内に残ったのはわずか1500の軍勢のみ。しかし親次は降伏の道は選ばず、大友家への忠義を貫き戦う道を選びます。そして、このわずかな軍勢で果敢にも3度戦いを挑み、誰もが予期せぬ奇策を巡らせ、何と3度とも勝利します! そして豊臣の軍勢が南下するまで持ちこたえたのです。ここで薩摩の当主「島津義久」からの撤退命令が下り、義弘は最後まで落とす事ができず、無念にも薩摩へ撤退しました。この時義弘は、こうつぶやいたそうです。

「志賀親次は楠正成の再来である」

親次の時代は、滑瀬橋(現在の搦手)が唯一の城への出入口で、義弘はここを突破しようとして、この橋のあたりで激戦が行われたようです。大友家改易後は、秀吉の命で1594年、播磨三木から中川秀成が7万石で入り、現在の位置に大手門を築き、見事な総高石垣の城に改修し、秀成は家康からも所領安堵され、中川家は幕末まで豊後岡藩として存続しました。

私は個人的には(春高楼<秋紅葉)の岡城が好きです。また、高石垣の上から見る景色は雄大で迫力満点です。しかし、下から見上げてみるのも一興かと思います。確かにここを攻め落とすのは難しい🤔と感じる事ができます。
 

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2009/06/11 訪問)

 ① 「岡城の 見所一つ かまぼこ石塁」(おかじょうの みどころひとつ かまぼこるい)

 ② 「廉太郎 佇む岡城 青紅葉」(れんたろう たたずむおかじょう あおもみじ)

  16年前に九州宮崎大分の城探訪の折り岡城を訪ねました、時期は6月で楓、桜は青々と茂り、桜と紅葉と違った趣を醸し堪能しました、二の丸には荒城の月の作曲家滝廉太郎の像が有り、曲を口ずさみながらの城郭探訪でした。
 

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概要

標高325mの天神山の断崖絶壁を生かし、12世紀初めに築かれた古城。文禄3年(1595)に入城した中川秀成が本丸を中心に二の丸・三の丸・西の丸を置き、高石垣を多用した総石垣の山城へと改修した。建物はすべて解体されたが、岩盤から天に向かって直接そそり立つ三の丸北側の高石垣などが往時の威容を今に伝える。

城郭情報

城地種類 梯郭式山城
築城年代 文治元年(1185)
築城者 緒方惟義
主要城主 志賀氏、中川氏
文化財史跡区分 国史跡(岡城跡)
近年の主な復元・整備 志賀貞朝、中川秀成
天守の現況・形態 御三階櫓[階層不明/1596年築/倒壊(地震)]、複合連結式層塔型御三階櫓[3重4階/1774年再/破却(廃城令)]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀、門跡
住所 大分県竹田市大字竹田
問い合わせ先 竹田市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0974-63-1111