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イオ

展望コース(角楼~南門) (2024/09/15 訪問)

飛鳥期に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が、大陸からの侵攻に備えて鬼城山の頂部に築いた古代山城(神籠石式山城)とされますが、史書に記載はなく詳細は不明です。

山頂部まで車道が続いていますが、急坂で道幅が狭い上に行き交う車は結構多く、何度かの対向を経てようやく駐車場(無料)に到着。さすがに100名城・日本遺産・自然公園の三連休中日となると、訪れる人も普段行っている山城などとは段違いでした。鬼城山ビジターセンターで予備知識と100名城スタンプと散策マップ(200円)を仕入れて、登城開始。

まず展望デッキに立ち寄って西門~角楼を遠望。写真でよく見かける定番のアングルですね。そして復元された角楼へ。城壁から長方形にせり出した防衛拠点と考えられますが、建物があったかどうかは不明のようです。角楼から西門に向かって進み、門をくぐって外側に出ると、眼前に見事な眺望が開けています。発掘調査に基づき復元された西門は直下から見上げるとなかなかの迫力で、古代山城に詳しくない身には、こうして復元してもらえるとイメージする基礎にできるのでありがたいことです。西門東側の城壁の内側と外側には石畳のような敷石が見られますが、雨水から城壁を保護するためのものと考えられるようです。西門の両側には版築土塁と高石垣による高さのある城壁が続き、東側石垣の下部には第0水門が設けられています。

西門から展望コース(外側)を進むと、その名のとおり眼下には絶景が広がり、ところどころに神籠石状列石や石垣が見られます。谷部の城壁には水門が築かれ、第0水門と第1水門は石垣下部から自然排水させ、第2水門から第5水門は石垣上部に設けた通水口から排水する造りになっています。コース上の高石垣は展望台のようになっていますが、柵などは設けられていないので高石垣の際まで行って下を覗き込むと…足がすくむほどの高さです。こんなの絶対に登れねぇ…。高石垣からもう少し行くと南門に至ります(続く)。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城④ (2024/10/20 訪問)

羽前観音寺城からの転戦です。朝田辰兵衛さんの投稿を参考に、ピンクリボンを辿ってピークに達したつもりでいました。しかし、帰ってきてから続東北の名城を歩く南東北編の朝日山城の縄張図を確認してみると、私がたどり着いた場所は、朝田さんの云う南側の物見的な曲輪であったことは明白です。連郭式の西側や空堀、東側の枡形虎口などは全くのノーチェックです。八幡宮地域も城郭の一部のようですので攻城したことにさせていただきますが、これはリベンジをいつか果たさねばならないでしょう。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:榎並城 (2024/10/02 訪問)

JR野江駅から徒歩5分くらいで、榎並城跡石碑前(34.708836、135.539345)に着き、その後、野江水神社鳥居前(34.708456、135.539138)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 古くは1369年(応安2年)北朝方に降った楠木正儀が天王寺から榎並へ退いて陣を布いた記録があるようです。
榎並城の記録が現れるのは天文年間(1532年〜1555年)で、三好政長・政勝父子の居城でした。
1548年(天文17年)三好長慶と細川晴元が対立すると、三好政長・政勝は細川晴元方として長慶と対峙しました。
このとき政勝が籠もる榎並城が三好長慶に包囲されると、政長は江口城に入ってこれを支援しようとしましたが、長慶に攻め込まれて政長は討死、父の敗死を聞いた政勝は榎並城を棄てて瓦林城へ逃れました。
榎並城は現在の榎並小学校から野江水神社一帯に築かれていたと云われています。
野江水神社は1533年(天文2年)に三好政長が榎並城を築いた際に水害を被った為、榎並城の一角に社を建てて祀ったのが始まりと伝えられています。

また榎並小学校の校門脇に「榎並猿楽発祥の地、榎並城跡伝承地」の石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三箇城を目指す為、JR野江駅から電車で野崎駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:葱生城(なぎ) (2024/10/02 訪問)

毛馬城から徒歩20分くらいで、常宣寺山門前(34.728847、135.535511)に着きました。

1568年(永禄11)石山本願寺11代顕如の時、織田信長が足利義昭を奉じ入京すると、信長と本願寺との対立は深まり、1570年(元亀1)信長からの石山退去要求を拒否した顕如は全国の門徒衆に檄を飛ばし、10年に及ぶ石山合戦が始まります。
一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返しましたが、1576年(天正4)信長の本願寺包囲攻撃をもって一挙に激化します。
信長が大坂周囲の要衝10箇所に付城を構えたのに対し、顕如は高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼岸・勝曼・木津・難波等、51箇所に出城を構え、守将を置きました。
この51箇所の一つが葱生城といわれています。また平安時代以降、榎並庄を形成していた村の一つで石山合戦の際、この榎並庄の稲田を刈り、軍糧として本願寺に献じたそうです。

常宣寺に、葱生城説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=榎並城を目指す為、城北公園通駅から電車でJR野江駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:毛馬城 (2024/10/02 訪問)

毛馬橋バス停から徒歩10分くらいで、善福寺山門前(34.723823、135.521642)に着きました。

1570年(元亀元年)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、一進一退を繰り返しました。
織田信長は石山本願寺の周辺10箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51箇所にも及ぶ出城を構えました。
毛馬城は、この石山方の出城のひとつですが、正確にはいつ頃、誰によって築城され、守将として誰がいたのかなどは一切不明のようです。
 
善福寺付近を散策しましたが、城跡を示すものは何もありません。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=葱生城(なぎ)へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:新庄城 (2024/10/02 訪問)

下新庄駅から徒歩5分くらいで、明教寺入口(34.747719、135.522827)に着きました。

天正年間(1573~92)に荒木村重に仕え、後に織田信長に仕えた中川清秀が築城したとされ、「新庄」の名前は「新城」が転じたものだそうです。

石碑は「明教寺」とあり、新庄城のものではありません。
朝早く、入口も閉まっており、何もないので山門を撮って退散しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=毛馬城を目指す為、東淀川郵便局前バス停から大阪シティバスを乗り継ぎ、毛馬橋バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:柴島城 (2024/10/02 訪問)

今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
宿泊先の動物園前駅から柴島城駅に着きました。そこから、徒歩5分弱で、石碑前(34.729438、135.513904)に着きました。

柴島城は十河一存によって築かれた城です。
1549年(天文18年)に起きた「江口の戦い(江口合戦)」では三好政長方の細川晴賢が城主でしたが、三好長慶によって攻められ落城しました。
その後の詳細は不明ですが、1615年(慶長20年)に起きた「大坂夏の陣」では稲葉紀通がここを拠点に戦っています。
紀通は1616年(元和2年)に中島藩を立藩し、この城を居城としましたが、1624年(寛永元年)に丹波福知山へ移封になると廃城になったようです。

現在城址に遺構はなく、住宅地の一角に城址碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=新庄城を目指す為、柴島駅から電車で下新庄駅に向かいました。

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しんちゃん

大猷院 栃木県日光市 (2019/11/02 訪問)

大猷院(だいゆういん)は日光山輪王寺にある徳川家三代将軍家光の霊廟です。私の主観になりますが、日光の寺社全体が山城のように展開していて、大猷院はその中でも詰めの城のような位置に有るように見えます。まるで東照宮や輪王寺に守られているようにも見えます。
たださすがに家光公の墓所である宝塔より、家康公の墓所である奥宮の方が高所にありますね。けっこう本堂から登った記憶があります。
江戸期260年の平和と言っても、家光公の治世の頃はけっこう荒れてて、「島原の乱」が勃発したりしています。
また「武断政治」と呼ばれる強硬な政策を取ったり、実弟の忠長を改易を申し付けた後に切腹に追い込んでいます。祖父の家康公以外でこれだけ多くの血を流した将軍はいないのではないでしょうか。
なんとなく江戸の増上寺などに墓所を設けなかったのも実弟を死に追いやった負い目もあるのでしょうか? 家光公は尊敬する祖父や神仏に守られて孤独や不安から解放されたかったのかもしれません。

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しんちゃん

ホテル金森 (2024/10/12 訪問)

萩原諏訪城の写真の残りです。金森長近が三木氏を滅ぼしたのち、諏訪神社を上村に移して当地に諏訪城を築城しました。諏訪城は一国一城令の後、高山城を本拠地とした金森氏の旅館として77年間、使用されたとされます。元禄5年(1693)金森氏が出羽国上山に国替えされると旅館は破却され、以前の諏訪神社に戻ったとされています。その後飛騨は明治まで180年以上「天領」として幕府の直轄地になったようです。

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sorato

耐震工事中の松本城3 (2024/11/01 訪問)

耐震工事が始まって二ヶ月が経ちました

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しんちゃん

西蓮寺 伊賀市 (2024/10/05 訪問)

三重県伊賀市の天台真盛宗の別格中本山・西蓮寺は比自山城への登城と下山の際に通過させていただくことになるお寺です。墓所の上の池の近くから城址への道が伸びています。登城道はその先の池の間を通ったりするので、注意は必要です。
境内には伊賀上野城・城代家老の藤堂采女家歴代墓所があり、その広い境内は城址の風格すらたたえているようです。
延徳年間(1489~92)に天台宗真盛派の祖・真盛が当地に会った堂を寺として改めたとされています。

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しんちゃん

主郭から北側に遺構が良く残っている。 (2024/10/05 訪問)

天正伊賀の乱の激戦地・比自山城の投稿ラストです。伊賀勢(忍者)の城としては最大級で、想像していたよりも遺構が残ります。主郭を北上していった、やや西手には二重の堀切や土橋などの遺構が明確に残っています。正直、藪がしんどくて主郭にたどり着くのに一苦労ですが、たどりついてしまえば、移動にはさほど苦労はしません。この城を落とされた時点で伊賀勢の命運はほぼ尽きていたような気がします。そういえばカエルの祠ってどこにあったんだろう?

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しんちゃん

鍵屋の辻の決闘・史跡公園 (2024/10/05 訪問)

三重県伊賀市小田町の鍵屋の辻は日本三大仇討ちの一つと言われる「鍵屋の辻の決闘」が行われた場所とされています。
寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門らが数馬の弟である渡辺源太夫の仇である河合又五郎を討ち取ったとされ、数馬方の手勢は4人。又五郎らは11人だったようです。戦いは早朝から6時間にも及び、数馬方の死者は又右衛門の従者1名のみで又五郎方は又五郎を含めて4人とのことです。
鍵屋の辻は史跡公園となっており、伊賀越資料館が建っていますが、現在は閉館しています。伊賀市の萬福寺には河合又五郎の墓がありますが、享年24と若いです。数え年とすれば23歳になりますね。又五郎の叔父の河合甚左衛門は大和郡山藩剣術指南役とされ摂津尼崎藩槍術指南役の桜井半兵衛とは親戚にあたるそうです。二人とも鍵屋の辻での決闘では又五郎に味方し、又右衛門らに討ち取られています。
又右衛門の実力がどれほど凄かったのかが伺えます。

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眼下にリニアが走る予定 (2024/11/04 訪問)

 今年も苗木城へ行って来ました。もう少し葉が落ちてから行くつもりでしたが、近くへ来たので寄ってきました。この城の魅力の一つは自然の巨岩がそのまま活用された石垣です。年代によって積み方も異なっています。眺望もよいし何回来ても飽きない城です。
 振替休日の日に行きましたが、かなり混んでいました。山城ながら近くまで車で行ける利便性が良いことも登城者が多い理由のひとつでしょう。天守展望台に「リニアが通る橋を造っています 第二木曽川橋りょう」の案内が張ってありました。リニア新幹線が開通すると木曽川を渡る列車が天守展望台付近から見えることになるので鉄道ファンも多く登城するようになるのでしょうね。八大龍王、清水門方面は、まだ進入禁止となっていました。落石のためらしいですが、いい遺構があったと記憶していますので残念です。

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落合五郎兼行之城と落合宿 (2024/11/04 訪問)

 木曽義仲の重臣で、木曽四天王のひとりとされる落合五郎兼行の居城跡と伝わっています。城びとには未登録の城址です。現在は神社があり整備されています。説明板と石碑がありました。石碑は読みにくくなっていますが、「落合五郎兼行之城跡」と彫られています。ただ場所については文献や地名から推定されたもので、平成元年に行われた発掘調査からは館跡の痕跡は認められなかったようです。
 近くには中山道44番目の宿場落合宿があり、岐阜県内の中山道宿場町で唯一現存している本陣があります。近くには石畳もあるのですが、今回は歩いていません。

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カズサン

大手門・大手道辺り1/3 (2024/11/04 訪問)

 長年愛用していたコンパクトデジカメが不具合と成り、それより以前に愛用していたコンパクトデジカメを再デビューの試し撮りをと近くの鳥羽山城跡に半年ぶりに訪ねました。
 台風21号の崩れの熱帯低気圧に影響された秋雨前線が一昨日通過して夕刻時風雨に曝され、一時は竜巻注意報も出る荒れ様でした、一日置いて晴れ間の本日午前中に撮影探訪、昼前でしたので家族連れ方々、学生の方々トレーニングと多くの方が訪れていました。
 駐車場の在る南の丸Ⅰに駐車して、登城開始、一昨日の荒れた風雨の関係か枯れ葉に小枝、枯れ木が駐車場、散策遊歩道に散乱している、大手道から入り、石畳の大手道、大手道発掘で出土した大手道北側の大石を観察して、本丸東土塁の南端突き出し残存石垣の観察、大手門跡の入り南の桝形より望み、西、東側の石垣を確認撮影。

 大手門跡、大手道に在る楓はまだ蒼く紅葉までには後ひと月12月に入ってからかなの状態でした。

 駐車場:南の丸Ⅰ駐車場20台は可能、南の丸Ⅱ砂利駐車場も有ります、南の丸Pトイレ完備、本丸北の搦手にも在り(古い)

 搦手門・西廻り2/3へ続く。
 
 

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ぎりょう

美しさに感動! (2024/11/03 訪問)

 外郭南門に続く築地塀ができ、門の周囲が開放されるとのニュースをみて多賀城を訪問しました。令和5年3月の南門復元工事完了後、何度か訪問しているのですが、築地塀や周囲の設備工事が続いており、これまで近くで見ることができませんでした。今回も創建1300年の記念行事の開催にあわせた期間限定の開放で、11月5日以降は、令和7年3月の工事完成までは部分的な開放に戻るようです。
 連休の中日、前日の雨も止んだ秋晴れの下、美しい南門を目にし、門を潜ると右手には、この8月に国宝に指定された多賀城碑、正面には政庁跡の景観が広がります。正殿の礎石、復元された城前地区をゆっくりと見ることができました。
 午前中の早い時間でしたが、駐車場はすでにいっぱい、南門や多賀城碑、政庁跡には多数のボランテイアガイドさんが控えており、訪問客への説明を行っていました。ありがたいことです。

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小城小次郎

舌石を眺める絶妙ポイント (2024/02/23 訪問)

JRの跨線橋の上から下を覗き込んでいる人がいたら相当なマニアか変質者(笑)。かつて石垣上に設けられていた屏風折れの塀を支えるために石垣から突き出した「舌石(したいし)」を眺める絶妙ポイントなのだ(解説板もそこについてるけど)。

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トク

観世音寺のコスモス畑から見上げた岩屋城 (2024/11/03 訪問)

大宰府政庁の隣にある観世音寺(かんぜおんじ)のコスモスが咲き始めたと聞いたので、見に行ってきました(写真④)。例年より一カ月近く遅い開花でしたが、九州にもやっと秋がやってきたようなそんな感じがします(でもこの分だと紅葉は12月かな🤔?)。この後、ここからの自然遊歩道を登って岩屋城へ登城しようと思っていましたが、ここ最近イノシシが出没しているらしく、昨夜もコスモスを食べに来た?と聞いたので、今日一人での登山はやめる事にしました(笑)(写真⑨)。

観世音寺は、670年頃に天智天皇が母である斉明天皇を供養するために建てられた、当時は西日本最大級の寺院だったそうです。僧に授戒する「戒壇院」(写真①)を設けるなど、かつては金堂もあったそうです。九州最大級の仏教彫刻などの重要文化財が宝殿に保菅されていたので見学してきました(写真②:撮影不可のためパンフレットで)。斉明天皇は白村江の戦いの陣頭指揮をとるため九州に下向しますが、その最中に没してしまいます。後を継いだ天智天皇(幼名:中大兄皇子)は、その白村江の戦いに敗れた後に新羅からの反抗を恐れ、ここ大宰府政庁を防衛の拠点として、回りに大野城・基肄城・水城の防衛ラインを築きます。さらに信仰の寄り所となる観世音寺と合わせラインを完成させたので、この地を大変重要視していた事が分かります。

それから度重なる火災などで観世音寺は廃墟となりますが、江戸時代に入り福岡藩2代藩主の黒田忠之(長政の嫡子)が規模を縮小して再建し、その本堂と戒壇院が現代に残っているとされています。

1586年の岩屋城の戦いの際には、島津忠長(義久の叔父)がここ観世音寺の本堂を本陣とし(写真③)、3万の軍勢で山上に籠る大友重臣の高橋紹運を取り囲みます。岩屋城で守っていたのはわずか763名。しかしそのわずかな兵で2週間も持ちこたえ、最後は誰一人逃げず全員が紹運とともに壮絶な討死を遂げ、島津勢にも大損害を与えます。さらに豊臣秀吉が南下してきたため、これにより島津は九州制覇を断念しました。

私は観世音寺から岩屋城を見上げてみました。なかなか落ちぬ岩屋城を、島津忠長はどんな思いでここから見上げていたのでしょうか?(写真⑤)

岩屋城陥落後、紹運の首実検をした忠長は、「我々はまれなる名将を殺してしまった・・・紹運と友であったなら最良の友となれたであろう」と言って涙ぐみ、薩摩へ撤退したそうです。

観世音寺から同じく政庁の隣にある、令和の年号の由来にもなった「坂本神社(大伴旅人の館跡)」にお参りし、大宰府政庁で大野城と岩屋城を見上げながらお弁当を食べて寝転がり、秋の一日をのんびりと過ごして帰りました(写真⑥⑦⑧)。
 

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イオ

足守陣屋(岡山市北区足守) (2024/09/15 訪問)

足守陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に木下利貞が築いた陣屋で、木下氏のもとで明治まで存続しました。

足守観光用の無料駐車場から登城開始。足守陣屋跡は公園として整備され、大手口脇に石碑と説明板が立てられています。陣屋跡の南東辺から南西辺には水堀と石垣が遺り、大手口脇には横矢掛けの折れも設けられていました。廃藩置県により陣屋の建物は県庁に、その後は学校に転用されましたが、幕末期に陣屋北端部に増築された藩邸の一部が木下利玄生家として現存しています。生家手前の長屋門は明治に旧足守藩士の屋敷から移築されたもので、かつては木下氏に伝わる貴重な史料が保管されていたそうです。陣屋の北東には木下氏の庭園である近水園が広がっています。池のほとりには仙洞御所普請の残材を用いて建てたとされる吟風閣が佇んでいて、小さいながら趣のある庭園でした。

陣屋跡から陣屋みちを南東に進んだ小学校南隅には、藩主一門の木下権之助屋敷の表門が移築されています。その道向かい南側には足守藩家老を務めた杉原氏の屋敷(旧足守藩侍屋敷)があり、表門にあたる長屋門、土蔵、母屋、湯殿まで完存しています。屋敷内も無料公開(9:30~16:30・月曜休)されていますので、時間が許せばぜひ。また、江戸後期の蘭方医・緒方洪庵は足守藩の出身とのことで(下調べで初めて知りました)、足守川東岸の生家跡は緒方洪庵誕生地として、へその緒と遺髪を納めたと伝わる顕彰碑と銅像が建てられ、産湯の井戸もありました。足守藩医・山田元珉の屋敷跡は足守歴史庭園として整備され、足守ゆかりの人物を紹介する銅板が掲示されています。

…実は足守を訪れるのは二度目で、昨秋にもニッポン城めぐりのイベントのために来ているんですが、折悪しく足守メロンまつりの日だったため大変な人出で駐車場の空きがなく、泣く泣く断念した(ポチ制覇だけはしました)ことがあったので、昨秋の取りこぼしの回収としての再訪ながら、陣屋跡と街並みには風情があり、イベントに関係なく来た甲斐がありました。
 

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