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カズサン

源範頼館跡と伝わる (2024/06/08 訪問)

 孫の行事参加も終わり浜松への帰路、以前より高坂氏館の堀・土塁を観たいと、行って見たい城に登録しており周辺未踏の4城を探訪へ、先ずは経路上、源範頼館へ初登城。

 駐車場:館跡の息障院の南駐車用利用。
 参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 圏央道川島ICから北上し県道345号線と県道271号線の交差点を鋭角に南入、傍の用水が堀跡の様子、吉見幼稚園を東入りすると駐車場が有り、息障院の白壁が北に、山門の西に皆さん投稿されてる堀跡が良く分かります、石碑と息障院由緒が有る、参道の南に門柱前に源範頼館跡の石碑、山門に戻り西側の堀跡の確認、山門を潜り本殿に参拝、本堂の前の松が二本、一本は昇龍の様な姿、素晴らしい松の造りです。
 北側東側西側は詳しくは探訪して居ません、樹木が茂っていますので堀跡水堀跡土塁が残って居るようです。
 

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しんちゃん

坂本城周辺の写真 滋賀県 (2024/02/10 訪問)

坂本城周辺の写真です。石垣公開だけではなく周辺も散策して来ました。本丸石垣はお約束として、西教寺の総門は坂本城を移築したと伝わっています。昭和59年に老朽化が進み修理が加えられ、往時の姿で復元されているようです。明智塚のある場所も城域とされ、落城の際に光秀の脇差・郷義弘を埋めた跡ともされていますが、どうなんでしょう。
安土城の石垣を築いたのは近江の別の石工集団とされていますが、坂本城の石垣は穴太衆によるものではないかと考えられています。実際、坂本は穴太衆の地元なので有り得る話です。これまでは本丸石垣しかなかったので、いささかショボい感じでしたが、三の丸の石垣が見つかったことで国の史跡登録に向けての動きがあるようです。周山城も同様で、これから明智光秀の築城名人としての側面が脚光を浴びてくるのではないかと思います。

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しんちゃん

うどん(香川)県 田村神社 (2018/01/03 訪問)

日本三大うどんといえば、一に「さぬきうどん」でしょう。これに異を唱える人は少ないと思います。なにせ自分たちで「うどん県」といってるぐらいですから。朝にうどんを食べ、昼にもうどんを食べにくる方もいるようです。ひょっとして夜もうどんを食べているのではないでしょうか。写真は、ごく普通のセルフのうどんですが、メチャクチャおいしいです。香川のうどんは日本一でしょう。
二番はやはり稲庭うどんじゃないでしょうか。冷を勧められ「いぶりがっこ」で食べましたが、冷の方がうどんの味が良くわかって美味しいとのことでした。
三番目は、いつの間にか水沢うどんということになりつつありますが、おそらくマスコミと群馬県民がそう言っているだけなので、あまり真に受けない方が良いと思います。他にも氷見うどんとか五島うどんとかいろいろあります。
田村神社は讃岐国の一宮です。祭神は五柱いて、田村大神と呼ばれているのですが、そのうちの一柱が倭迹迹日百襲姫命 で第七代孝霊天皇の皇女で箸墓古墳に葬られているとされ、卑弥呼と同一視する説もあるようです。
境内にはいろいろけったいな像が多いですが、倭迹迹日百襲姫命とモモタロウが並んでどこかを指さしている不思議な像があります。ご利益がありそうなら、なんでもぶち込んでいる感があり、なかなかカオスな空間に仕上がっています。

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しんちゃん

広いのだ。 (2024/01/28 訪問)

関東の北条氏の土の城はダイナミックで見ごたえのある城が多いですが、滝山城もその一つです。緑キラキラ八王子と言いますが、八王子とて東京都でけっこう開けているんですね。よくぞ残ってくれました。
中の丸から橋を経て本丸に至りますが、この橋のかかっている下が堀切道になっていてかなりの深さが有ります。本丸には東と南に虎口があり、それぞれ枡形が付いています。本丸の雷社のある場所が高地になっていて周囲には土塁が残っています。とにかく城域が広くて、本丸や二の丸に相当する曲輪が複数ある感じです。このまま周囲を水堀で囲い近世城郭に改修をしてもかなりの堅城になったのではないかと思います。

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シャンシャン

夜の福山城 (2024/06/28 訪問)

青空に映える城もいいけど、暗い夜に照らし出される城も趣があって素晴らしい。
特に福山城の白さはライトアップすることで、より神々しく感じられる。

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零汰

久留島陣屋:角牟礼城にお越しの際はこちらも是非 (2021/10/30 訪問)

角牟礼城にお越しの際はこちらも是非。
雰囲気の良い城下町通りの突き当たりを左に曲がると角牟礼城、右すぐ左に曲がった道の先にあります。
贅沢に使用されている石垣が見る目を楽しませてくれます。

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しんちゃん

大和郡山城 追手向櫓・天守台 (2024/02/23 訪問)

大和郡山城は豊臣秀長の居城でしたが、江戸時代も松平氏・本多氏と譜代が入り、享保9年(1724)に柳沢吉里が15万石で入っています。柳沢氏も江戸時代は譜代の扱いになっています。追手向櫓は明治6年に取り払われてしまいましたが、昭和62年に再建されています。この日はたまたま公開されていて、梅の盆栽の展示が行われていました。
関ヶ原の合戦の後、城内の建物の多くは伏見城に移されたとされますが、天守は二条城に移されたそうです。今は天守台が残り、展望施設となり公開時間が限られているようです。
10月~3月:7時~17時
4月~9月:7時~19時

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イオ

西の城(青木山城) (2024/05/04 訪問)

(続き)

西の城は青木山城とも呼ばれ、一之瀬川支流の大谷川と前川にはさまれた青木山頂部に位置する城で、東の城と一体になって機能したとされます。

東の城駐車場から歩いてもすぐですが、西の城登城用に開放されている公民館駐車場まで車で行って登城開始。案内表示に従って進むと、西の城の東麓に向井将監館跡と呼ばれる屋敷地がありますが、木々が生い茂っていて墓石くらいしか見当たりません。北東麓が登城口で、近くの田んぼの中にも未舗装の登城用駐車場が設けられていました。登城道の木製階段を上ったところから山道になり、しばらく登って行くと東端の堀切(表示では空堀)に至ります。ここから登城道沿いに三条の堀切と土塁や小曲輪が連続し、北東への分岐にも堀切と土塁が設けられています。青木山の頂部が主郭で、主郭の西側には四重の堀切、さらに両側が切り立った西尾根の先にも2条の堀切が見られました。

西の城は尾根筋に曲輪と堀切と土塁を設けただけのシンプルな縄張ながら、四重堀切など明瞭に遺っている上に、よく整備されて登城もしやすく、手軽に楽しく登城できる城でした。東の城とあわせて西の城にもぜひ。
 

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しんちゃん

伝説の残る城 (2024/02/17 訪問)

八田城は小振りではありますが、訪れやすく遺構が良好に残る良い城です。害獣除けのゲートを開閉するだけで良く、地権者や地元の方々の、多くの人にすばらしい城跡を見て欲しいという気持ちが伝わってきます。有り難く訪問させていただきます。
北から東を回り込むようにして主要部に向かっていきます。南側には大堀切があり井戸もありました。東の曲輪を見てから虎口を通って主郭に到達します。主郭の周囲には分厚い土塁が良好に残っており、南側には見張台と見られる箇所が有りました。
八田城は鎌倉時代に相模から三浦五郎左衛門尉盛時が来て築いたとされています。後に大和田氏と姓を改め、11代盛成は伊勢国司・北畠顕能に仕えたとのこと。永禄12年(1569)織田信長の命を受けた羽柴秀吉が攻めたが、城主大和田監物が良く防ぎ、秀吉は攻めあぐね、山から濃霧が発生したため撤退したと伝わっているようです。

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モト

明治に築城の日本で最後の城 (2024/06/11 訪問)

現在は千束神社が建っています。
その周りに石垣が残っています。
日本で最後に完成した城になります。
最新であり、最後城です。
城が完成したのは明治だそうで、館が完成してから1年後には廃城になったというある意味すごい歴史を持つ城です。

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しんちゃん

唯一無二 (2013/12/14 訪問)

近世城郭としての高知城は慶長6年(1601)から慶長16年(1611)にかけて山内一豊によって築かれました。現在の本丸の建造物は享保12年(1727)の火事でほぼ焼失し、天守が再建されたのは寛延2年(1749)ごろ、その他の建造物が再建されたのは宝暦3年(1753)ごろとされています。江戸中期に再建されたとはいえ、本丸内に御殿と天守が現存する唯一無二の城郭です。
現在失われた建造物も、史実に忠実に復元できるのなら、長い時を経て文化財となり得るでしょう。復元建造物がレプリカであるのなら、金閣寺や首里城もただのレプリカになってしまいます。私は首里城は百億を超える国税を投入してまで再建するべきではないと思います。世界遺産となっているのは度重なる火災で焼き石となった石垣で、自力で再建するといっていたのだから、あとでこっそり国税を受け入れるのは無にしましょう。城郭や文化遺産が政治の二枚舌に翻弄されるのは勘弁していただきたいのです。

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小城小次郎

でかすぎ (2024/01/13 訪問)

大阪市の真ん中にあるのにでかすぎて最寄りの駅から天守までどうしても20分はかかる。西の丸にある現存乾櫓を堀の外側から見ようと思うと更に歩く。大きい上に高さもある大坂城のド迫力は、歩けば歩くほど実感できる。

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にのまる

東横インの朝食ビュッフェを甘く見ていたせいで行けました。 (2024/06/22 訪問)

只見線完乗から長岡(城)を経由し新潟へ。
夜ごはんは会津若松で逃した“ソースカツ丼”を求めて「須坂屋そば新潟駅前店」へ行きました。(へぎそばは次回まわしにして今回は普通のお蕎麦のセットにしました。)
昨年バスセンターのカレーを目指して行った時にお店の前を通った時はお昼だったのもあってか静かなイメージでしたが、夜はすごく賑やかでびっくりでした。
初・ソースカツ丼は柔らかくて甘くてジューシーでとってもおいしかったです!

宿泊先は列車旅人御用達の東横イン。翌朝、朝食ビュッフェに下りてみると大混雑で大行列∑(゚Д゚)
朝食は早々に諦め、出発まで部屋でゴロゴロするかぁと思ったのですが、頭の片隅にあった新潟城のことを思い出し、検索してみると約2.5㎞の距離。
乗車予定の列車まで1時間と少し。
これは…行ける!!
急いで荷物をまとめチェックアウトして向かいました。

新潟城は『遺構消滅,推定地,再建造物ナシの最難関の城』(朝田辰兵衛さんのレポートより引用させていただきました。)

ー其処が城跡だから行くのだ。ほかに理由はないー

萬代橋を渡ると遠回りになりそうだったので八千代橋を渡り、無事に白山公園に到着。公園内を少し歩きました。近くのアーケードの商店街がすてきな雰囲気を醸し出していて興味を惹かれました。
そしてまた走って新潟駅に戻りました。
あとから検索してみると白山駅を使えたなぁという感じでしたが、その時は1分1秒が大事。調べてダメだったら時間の無駄だし、走るのがいちばんだなと(^^)

ということで朝田辰兵衛さんの地元を駆け抜けました。新潟駅はバスターミナルが完成し、様変わりしていました。駅前もさらに開発中のようで。
バスセンターのカレーのお店がどうなったのかまで確認できませんでしたが駅の売店でお土産にレトルトを購入しました。これもおいしいです😋

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しんちゃん

土佐の海岸 (2013/12/14 訪問)

高知市の南西、宇佐大橋を越えて、横波半島に渡り県道47号線(横浪黒潮ライン)を西に進んでいくと、途中に帷子崎展望台や武市瑞山(半平太)銅像があり、駐車場も備わっています。リアス式海岸と呼ばれる険しくも美しい地形で、武市瑞山の銅像は遠く太平洋を見つめています。瑞山は土佐における尊王攘夷の先駆けとなる土佐勤王党を結成し、吉田東洋を暗殺したとされます。その後も岡田以蔵らを用いて天誅を繰り返しますが、後に取締りを受ける側となり切腹を申し付けられた際には、三文字割腹の法を用い、腹を三回掻き切って、両脇から二名が心臓を突いて介錯としたとされます。生き方も最期も激しかった人物で、地元では根強い人気があるようです。

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しんちゃん

若宮八幡宮 (2013/12/14 訪問)

高知県高知市にある若宮八幡宮は長宗我部元親公にゆかりの深い神社です。永禄3年(1560)元親公は初陣に臨んで当社の馬場先に陣を構え、見事 初陣を勝利で飾ったとされ、依頼合戦の度に当社で戦勝祈願を行ったとされています。
外苑には1999年に建てられた元親公の銅像が立っています。初陣の時の若々しくも凛々しい姿で台座を含めた高さは7mほどで、槍の長さは約6mもあります。

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ぴーかる

緒川城 (2024/05/11 訪問)

【緒川城】
<駐車場他>於大公園駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅6城目。現地説明板によると緒川城は文明年間(1469~1487年)に水野貞守によって築城されました。以来130年間水野氏の居城となります。1606年水野分長が三河新城1万石に移封となり廃城となります。
 上記駐車場に駐車し、乾坤院総門(緒川城移築城門)⇒水野家3代の墓所⇒城跡と徒歩で巡りました。城跡は土塁が1部残されており周辺は住宅地になっています。水野忠政も居城だったことから、その娘の於大の方の出生地でもあり、土塁下の公園に出生地碑があります。於大公園も立派で、水野家墓所の横に遊具施設が沢山あることから家族連れで賑わっていました。移築城門、水野家墓地、於大公園と散策が楽しめる場所でした。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

御城稲荷神社が城跡 (2024/06/07 訪問)

 榎本城を終えて北東に約6.5km程、栃木市小山市未踏の城廻り4城めでラストの御城(小薬城)を初登城。

 駐車場:御城稲荷神社社務所集会所横
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 ラスト4城目は御城、別称小薬城ともいわれてる、少し陽も落ちて暗く成って来ましたが、敷地は御城稲荷神社境内、立派な「史跡御城」刻印の石碑、案内板解説板は無い。神社の参道の南に石製の鳥居が有りすぐ南に水路が有るが、堀跡のようである、社務所の南には広場と成っている。
 暗くなってきており早々に退散終了としました。
 早朝から多良埼城メインに常陸未踏の城7城、栃木市小山市未踏の城4城を訪ねる事が出来ました。
   

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カズサン

広大な城郭も農地水田改良 (2024/06/07 訪問)

 藤岡城を終えて北東に約12km程、栃木市小山市未踏の城廻り3城目榎本城へ初登城。

 駐車場:無し、榎本城跡石碑前辺りに路駐、他の地点も路駐。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 狭い集落の道に路駐し、城びととグーグルマップの史跡マーク地点に石碑と解説板、裏の堀と土塁を撮影、車の往来が有ったのですぐ退散、余湖図コレクションさんの城郭マーク、城郭放浪記さんの城郭マークを車で移動し確認するが現在は水田の中、田植えが終わって早苗の水田風景、景色は最高。
 
 解説板には。
 城郭の規模は東西613m、南北396mという複郭で広大、西は永野川、東は巴波川、杣行川が南流する要害の地であった。
 小山氏は祇園城の出城として築いたと伝わる、小田原北条氏へ備えるが北条氏に従い、上杉氏に占領され、北条氏に再占領、と上杉氏北条氏の覇権争いに翻弄される。秀吉の小田原征伐後は結城領、その後廃城に成ったが、慶長10年(1605年)10月本多忠純が28000石の城主として復活。しかし本多氏も寛永16年(1639年)断絶し、榎本城はついに廃城と成った。
 北西約5km程の大中寺に本多忠純の墓があるそうです。

 広大な城域も耕地整理農地整理で水田と成り、法宣寺辺りから北の石碑の有る辺りが城域の北辺のようで土塁と堀が点在残って居る様子。
 石碑と解説板が重なり合ってるのは頂けない、読みづらく写真を撮り難い。
 

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しんちゃん

滝山三城 (2024/01/28 訪問)

高月城は秋川が多摩川に合流する手前の丘陵の先端に築かれています。比高わずか40m程度ですが、山城という扱いになっているようです。いいのかニャ?
切通を抜けていくと堀切があり、登城道を登って行くと、いくつか曲輪があり、虎口を経て主郭に到達します。長禄2年(1458)に山内上杉氏の重臣で武蔵国守護代・大石顕重によって築かれたとされています。

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岸和田城

岸和田城がふるえる

怪談グランプリで入賞経験もある「深津さくら」さんをはじめ、おばけ座がお届けするこわーい話や不思議な話。
あなたはどこまで耐えられるか!恐怖の夏を岸和田で体感!

参加者様は岸和田城庭園への「夜間特別入場」もして頂けます。

8月4日開催、チケットは只今販売中です。お待ちしております。
https://teket.jp/9607/35576

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