岩屋堂城は本丸の周辺に遺構を良く残しています。やや南西寄りに虎口と見られる箇所が有り、周囲に土塁が良く残っています。本丸の川沿いの周辺には帯状の腰曲輪が取り巻いています。
鎌倉時代に周辺を所領とするに及んで、江刺郡に千葉頼胤の三男・胤道が配されたとされています。胤道に関しては豊田城主であったとする説もあるようですが、詳細は不明。南北朝時代の以降は葛西氏の一族・江刺氏が江刺郡の惣領職となり、江刺氏が勢力を増すにつれ葛西氏との争いが多くなり康安元年(1361)に両者の合戦が有り、文明17年(1485)と明応4年(1495)にも江刺降見と葛西政信の合戦がありました。後者の戦いで江刺氏が敗れたため、岩谷堂城には政信の孫・重胤が入り郡内を取りまとめています。
豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となった後は木村吉清の家臣・溝口外記が入りますが葛西大崎一揆で討死し、一揆の鎮圧後は伊達家の所領となり万治2年(1695)岩城宗規が5000石で入り、岩屋堂伊達氏の治める要害として9代続いて明治維新に至ります。
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