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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/02 訪問)

愛媛+α城廻:第二日
※河後森城と共に登城、前日宇和島泊

現存する薬医門である上り立ち門から登城、式部丸経由長門丸石垣へ。長門丸石垣は立派だが、隅櫓はあっただろうが、続き櫓を建てるには少々上部の奥行がない(1mちょい?)ように思える。郷土資料館は開館前だったので素通りして二の丸、本丸へ。依然来た時も思ったのだが本丸にこじんまりした天守がポツンと佇んでいる感じがなんとなくかわいい。とはいえ残存12天守の一つだけあり、天守内のつくりは急な階段や大きな梁など興味深い
今回は高虎時代の石垣と修理、増築されたその後の石垣などの違いを十分楽しんで、井戸丸経由で下城

【本日の行程は以下の通り】
8:15上り立ち門から登城
 宇和島城(百名城スタンプ天守券売所 9:00-16:00,城内6:00-17:00 11-2月)
10:30宇和島バスセンター(路線バス)、11:26松丸
 (徒歩5分登城口)河後森城跡(続百名城スタンプ:第十曲輪馬屋24H可)
  ※松丸温泉入浴(駅ビル)
15:14松丸(JR)、16:00,16:02宇和島(JR宇和海22号)、17:21松山
 泊:松山市内

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虎の子

お城への交通手段実践レポート (2024/11/01 訪問)

愛媛+α城廻:第一日
※今治城と共に登城

ここでも傘がいる程度の雨でしたが、復元された天守や連結式の現存の2つの櫓(高覧櫓、台所櫓)は、やはり模擬天守と違い興味深い
入り口は台所櫓、さっそく天守復元に役立った骨組み模型があり、実際の櫓の木の梁などが楽しめた。台所櫓の二階は非公開だったが、天守や高欄櫓は上階に登れる。天守から見る高欄櫓は、城内側には高欄がないのがよくわかり、装飾性の高いものだったのだろうと感じた

【本日の行程は以下の通り】
6:00東京(新幹線)、9:26,10:00福山駅前(高速バス)、11:30今治桟橋
 (歩11分)今治城(9:00-17:00無休:百名城スタンプは天守入り口)
12:36今治城前(路線バス)、12:45,13:01今治駅(JR)、14:09,14:28松山駅(JR宇和海17号)、15:02伊予大洲,15:17大洲駅前(コミュバスぐるりん)、15:29大洲城前
  大洲城(9:00-16:30無休:百名城スタンプ台所櫓入口券売所)、三の丸南隅櫓
(大手門歩6分)17:47大洲本町(路線バス)、18:48宇和島バスセンター
 泊:宇和島

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虎の子

お城への交通手段レポート (2024/11/01 訪問)

愛媛+α城廻:第一日
※大洲城と共に登城

今治市に着くとあいにくの雨、散策後半はお濠にも波紋が結構広がるくらいの雨でした
堀は思ったより広い海水の堀、残念ながら泳いでいるというクロダイやスズキは確認できませんでした
模擬天守だが、近くで見ると迫力ある天守に隅櫓もあり、本丸には神社が建立されていました
鉄門にある鏡石は立派で目を引きます

【本日の行程は以下の通り】
6:00東京(新幹線)、9:26,10:00福山駅前(高速バス)、11:30今治桟橋
 (歩11分)今治城(9:00-17:00無休:百名城スタンプは天守入り口)
12:36今治城前(路線バス)、12:45,13:01今治駅(JR)、14:09,14:28松山駅(JR宇和海17号)、15:02伊予大洲,15:17大洲駅前(コミュバスぐるりん)、15:29大洲城前
  大洲城(9:00-16:30無休:百名城スタンプ台所櫓入口券売所)、三の丸南隅櫓
(大手門歩6分)17:47大洲本町(路線バス)、18:48宇和島バスセンター
 泊:宇和島

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イオ

小阪部陣屋(岡山県新見市大佐小阪部) (2024/09/15 訪問)

小阪部陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に兄・水谷勝宗が備中松山藩を継ぐ際に2000石を分知された水谷勝能が築いた陣屋で、本家が備中松山藩を改易された後も、小阪部水谷氏は旗本として明治まで続きました。陣屋跡は公園になっていて、石碑と説明板が立てられているくらいです。説明板によれば陣屋礎石が遺っているようですが、よくわかりませんでした。陣屋跡から北東に約500mの円通寺には陣屋の大門が移築されているそうですが、未確認です。

明治に陣屋が廃されると、長瀬から小阪部に移り住んだ山田方谷が陣屋跡に小阪部塾を開き、多くの門人を受け入れました。小阪部塾は方谷の最期の地でもあり、小阪部塾跡は方谷園として整備され、勝安房(勝海舟)の題字、三島中洲の撰文による方谷山田先生遺蹟碑が建てられています。また、小阪部は方谷の母の故郷でもあるため、母の実家の菩提寺(金剛寺)には母方の祖父母の位牌を祀った方谷庵が建てられ、その麓には山田方谷記念館が設けられています。この日は開館時間(10時~16時)を過ぎていたので記念館は見学できませんでした……残念。

城びとへの投稿なので小阪部陣屋の投稿の体をとっていますが、言うまでもなく「山田方谷ゆかりの地めぐり(新見市編)」として訪れました。そのため小阪部陣屋としての下調べはほとんどしておらず、城郭放浪記さんで紹介されている移築門を見落としてしまったのは不注意の極み…。山田方谷記念館の見学とあわせていつか回収したいものです。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:古橋城 (2024/10/03 訪問)

大和田駅から徒歩10分弱で、願得寺山門前(34.742571、135.596863)に着きました。

古橋城の築城時期や築城主は不明ですが、三好義継の支配下にあったことから若江城の支城として築城されたものと思われています。
1570年(永禄13年・元亀元年)、三好三人衆が野田城・福島城を出て古橋城に侵攻。三好義継勢150と畠山昭高勢150の合わせて300の兵が城に集まったとされ、三好三人衆方との激戦の末に城兵200が討死し敗走したようです。

古橋城は願得寺付近にあったとされていますが、城があったことを示すものは何もありません。
門は閉まり、雨も降っているので早めに撤退しました。攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=守口城を目指す為、大和田駅から電車で守口市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:楠葉台場 (2024/10/03 訪問)

橋本駅から徒歩10分ちょっとで、楠葉台場北虎口跡側(34.877781、135.680649)に着き、その後、楠葉台場跡説明板前(34.875399、135.681594)に向かいました。

1865年(慶応元年)江戸幕府によって築かれました。
江戸時代末期に開国を求める外国船が大阪湾にも現れるようになると、京都守護職であった会津藩松平容保によって江戸幕府に建白があり、大阪湾から京へ遡上する淀川沿いに築いたのが楠葉台場であったようです。

楠葉台場は大阪府と京都府の境目の辺り、淀川の東岸に築かれており、現在は国指定史跡となり公園として整備されています。
現在残されている遺構は台場の東半分程度で、西側は京阪本線や河川となっています。南側に大空堀がありますが底はコンクリートになっています。
土塁や内側にある見切塁、北には北虎口、北堀なども残っており、規模は小さいですが案内標識があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=古橋城を目指す為、橋本駅から電車で大和田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:枚方城 (2024/10/03 訪問)

枚方公園駅から徒歩10分弱で、御茶屋御殿広場入口(34.813687、135.642878)に着きました。

枚方城は京阪枚方公園駅の東側の丘上にあったとされ、現在の枚方小学校の付近がその推定値と考えられています。
枚方は、奈良時代に百済王氏(百済の最後の王の流れを汲む氏族とされます)が渡来した地で、その子孫と称した本多氏が枚方城主を務めていました。
本多内膳正政康は豊臣秀吉に仕え、その娘が秀吉の妾になったことから、豊臣氏との関係が深まり家運も栄えたとされます。
しかし、秀吉亡き後は1614年(大阪冬の陣)の前年に、徳川方によって陥落。翌年の1615年(大阪夏の陣)で大阪城が落城するに伴い、枚方城も廃城になったとされます。

推定値とされる枚方小学校には向かわず、御茶屋御殿広場に行きました。
遺構は残っておらず、御茶屋御殿跡にある説明板に枚方城の名前を見つけることができる程度です。
雨が降っているので早めに撤退しました。攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=楠葉台場を目指す為、枚方市駅から電車で橋本駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:天王寺城 (2024/10/03 訪問)

茶臼山陣城から徒歩15分ちょっとで、月江寺門前(34.660231、135.513748)に着きました。

地下鉄「四天王寺前夕陽ケ丘」駅すぐ近くの月江寺。この付近には、石山本願寺を攻撃する織田信長が、原田直政に攻め手のために天王寺城を築城させたと言われています。
本願寺側も対抗し、木津と楼の岸に砦を構え対抗。ついに開戦となりますが、本願寺勢は強く原田直政は討ち死にします。
その結果、長期戦に持ち込むことにした信長は、佐久間信盛・勝正父子を天王寺城に入れ石山本願寺に対するものの、特に佐久間父子に目立った功績などがなく、和議により本願寺が石山の場所を退去した後、高野山へ追放されてしまいます。
天王寺城はその後、廃城となったそうです。

遺構のようなものも案内板や石碑も何もありません。月江寺の門の写真を撮って撤退しました。(月江寺石碑の写真も撮りましたが、ぼけているので投稿出来ません)
攻城時間は2分くらいでした。次の攻城先=枚方城へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、四天王寺前夕陽ヶ丘駅から電車で天王寺駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:茶臼山陣城 (2024/10/03 訪問)

ホテルでの朝食前に茶臼山陣城と天王寺城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分くらいで、茶臼山及河底池石碑(34.651861、135.511389)に着き、その後、真田幸村本陣跡石碑(34.651972、135.511944)に向かいました。

茶臼山陣城(大塚城)は茶臼山古墳を利用した築かれた城で、「大坂冬の陣」では徳川家康の陣城として、また「大坂夏の陣」では真田信繁(幸村)の陣城として使用されました。
ホテルから天王寺公園までのルートが天王寺動物園の中を通るルートをナビされました。当然、朝早いので天王寺動物園は開いていませんでした。
天王寺動物園の外周を回り込み、天王寺公園に着きましたが、朝早すぎて開いていませんでした。(公園に開園時間があるとは思いませんでした。調査不足です)
仕方なく、天王寺公園の入口の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は2分くらいでした。次の攻城先=天王寺城へは、ここから徒歩で向かいました。

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小城小次郎

織豊系の城だが歴史は古い (2024/03/02 訪問)

どこから見てもいかにも城山っぽい山に織豊系のお城を仕立て上げたのは黒田氏だが、最初に利用したのは天平年間の藤原広嗣だというから古い。崩落による立入禁止区域があるのは残念だが綺麗に整備されている。

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村上連珠砦 (2024/11/07 訪問)

 虚空蔵山から西に延びる尾根の先端にあり、南、西、北は岩鼻の急崖で、尾根側は大堀切で守られています。4つの郭があり大堀切、石積み、土塁などを観ることができます。大堀切はよく残っていて両側は竪堀となっています。縄張り図を見ると2郭と3郭、3郭と4郭の間にも堀切とありましたが、埋まっていてよくわかりません。また各曲輪は雑草に占拠されていて石積みや土塁は隠れていました。土塁は肉眼ではわかるのですが、写真にすると雑草の存在しかわかりません。景観はすばらしく葛尾城、荒砥城、出浦城、狐落城、三水城などを観ることができます。この地方を治めていた村上氏が小県、佐久方面からの攻撃から居城である葛尾城を守るために虚空蔵山一帯に築かれた城塞群(村上連珠砦)の一つに数えられています。高津屋城や虚空蔵山城などが村上連珠砦には含まれていて和合城から縦走できるのですが、今回はパスしました。
 しなの鉄道西上田駅を利用して下塩尻コースを使って登城しました。途中、石積みが多く見られますが、畑跡ということです。急坂もありますが、比較的歩きやすかった。帰りは鼠宿コースを使って下山しましたが、こちらは道も細く歩きにくかった。途中、道を間違えたかと思いましたが、無事下山できました。帰りはテクノさかき駅を利用しました。

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しんちゃん

天正伊賀の乱で滅亡した下笠間氏の居城。 (2024/10/06 訪問)

笠間城は下笠間氏の居城とされています。下笠間氏は上笠間氏、多田氏ら東山内の豪族らと染田天神でたびたび連歌の会を催していたようです。そんな風雅な生活を送っていた下笠間氏も天正9年(1581)の伊賀の乱で滅亡したとされています。
城址は麓の街から登って行ってゲートをあけて入っていきます。ちょうど堀切のあたりに突き当たるので西側へ主郭をめざして進んでいきます。いくつか堀切があり、二重堀切もあります。主郭には直接取り付きましたが、なかなか面白い遺構が残っています。

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しんちゃん

主郭周辺の郭 (2024/10/06 訪問)

西側の尾根から攻めて主郭にまでたどり着きました。主郭の周囲には尾根上に郭が展開し、西側の郭の先には堀切と土橋のような細い尾根があったと思います。地形図のデータがピンボケで位置が把握しずらいのですが、南側から北側の郭を散策し、ぴーかるさんの写真にあった石垣を探します(主郭下北西にあったと思います)。石垣を見るまでは帰れん、と思って藪の中もさまよいますが、あちこち枝が伸びていて、目の下にキズができました。もう治りましたが眼を傷つけると大変なのでご注意を。
わたしは常時メガネをしていますが、つまずいた拍子に枯れ草で眼をつつきそうになったこともあるので、こういった未整備の城址を散策する際には注意が必要ですね。

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しんちゃん

夏目廃寺 三重県名張市夏見 (2024/10/06 訪問)

国の史跡・夏目廃寺は丘陵(男山)の南斜面に築かれていました。天武天皇の皇女で初代の斎王ある大来皇女によって建てられた「昌福寺」を指しているとされています。金堂や塔の跡や掘立柱建物跡などがあり、築地塀や土塁によって囲まれていたようです。
近くにある夏見廃寺展示館には、焼き物で大量に作られた仏像で作られた「金堂塼仏壁」の展示が有り、館内ではここのみ撮影が可能になっています。
名張の地は後に天武天皇となる大海人皇子が「壬申の乱」で美濃国不破関に向かう途中に名張を通過し、戦いに勝ち、飛鳥に帰る際にも名張に宿泊したという縁もあるようです。周辺を通過する際に霧につつまれ、動揺する臣下を諌めたという話があるようですが、たしかにこのあたりは霧が出やすい所です。

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しんちゃん

柳生定食(木)柳生一刀石 (2024/11/02 訪問)

柳生の里の岩戸山山麓は聖域とされ、柳生宗厳(石舟斎)が剣の修業を行った地とされています。私は駐車場からひとしきり歩いて回っていますが、案外近くまで車で来ることが出来るみたいです。でも土地勘がないので歩きました。この日は朝から雨が降っているので傘をさしながらの散策です。
一刀石は天乃石立神社の奥にあります。御神体の岩ですが、角度を変えると鬼の角のようにも見えますね。
一刀石といい、御神体の岩といい、なんとなくキメツの臭いがします。元ネタだったりしないかな‥。一刀石には柳生宗厳が天狗と決闘中に天狗を斬ったとおもいきや、岩が真っ二つに割れていたという伝説があります。いいところに刀のオモチャがありますね‥じゃあいっちょ「城びと」の呼吸でスパッといきますか。

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カズサン

本丸寸景3/3 (2024/11/04 訪問)

 台風21号崩れの秋雨前線、風雨・突風が一昨日、城址は木の葉、小枝、枯れた枝が散乱してました、紅葉にはまだ早い時期でしたが旗日でしたので、家族連れピクニック、学生のトレーニング連が本丸に集っていましたので、サラッと本丸内部を一時去って、搦手門跡、西の丸Ⅰ(笹曲輪)、本丸西側の鉢巻石垣、腰巻石垣の見学確認と西側を廻って、南西の角の石畳散策路を登って本丸大手門跡へ、少し人出が引いましたので、本丸東側の土塁、南端突き出し部、東門跡を内部から、東枡形側と観察、西側土塁側発掘出土の枯山水の庭園を試しデジカメで収めて、本丸南端の展望台より遠州灘、浜松市街アクトタワー、蛇行した天竜川を眺めて終わりとしました。
 12月に入ったら楓の紅葉も見頃になるでしょう。

 試しデジカメの探訪投稿ご覧頂きありがとうございました。
 

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イオ

山田方谷ゆかりの地めぐり (2024/09/15 訪問)

5年ぶりの再訪ですが、今回は山上の城には行かず、城下と周辺の山田方谷ゆかりの地をめぐりました。

山田方谷は江戸末期の儒者・陽明学者で、学者としては佐久間象山と並び称せられ、教育者としては藩校「有終館」の学頭を務め、また家塾を開いて三島中洲や河井継之助ら多くの人材を育成しました。藩主・板倉勝静から10万両の負債を抱えて破綻寸前だった松山藩の藩政改革を命じられると、7年で負債を完済したばかりか逆に10万両の蓄財を成し、軍制改革では後の奇兵隊や屯田制の先駆けというべき制度を設けた、当代きっての人物です。数年前に観た「英雄たちの選択」で初めてその事績を知って以来、知れば知るほどに素晴らしい人物だなぁ…と心酔しています。

山田方谷記念館(高梁市向町)
まずは前回に入口の前まで来ていながら時間の都合で断念した山田方谷記念館から。方谷の事績が「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」の3つのテーマに分けて紹介されていて、歴史資料や解説パネルの他、ビデオの上映もされていました。記念館の前には方谷先生像も建てられています。

藩校有終館跡(高梁市中之町)
方谷が学頭(校長)として藩士子弟の教育に務めた藩校跡で、現在は幼稚園になっていますが、門の脇には方谷が植えたと伝わるクロマツが今も立っています。

牛麓舎跡(高梁市御前町)
方谷が有終館の学頭に就任した際に与えられた邸宅に開いた家塾で、備中松山城のある臥牛山の南麓にあたるため牛麓舎と名付けられました。身分を問わず受け入れたため門人は数十人を数え、後に二松學舎を創立する三島中洲ら多くの人材を輩出しています。

旧備中松山藩御茶屋跡(高梁市奥万田町)
藩政改革に目途がついたところで方谷は隠居を願い出て長瀬に移住しましたが、引き続き藩政には参画したため、城下滞在時は利用されていなかった御茶屋(藩主別邸)を宿舎としました。水車が併設されていたことから、通称「水車」と呼ばれています。

山田方谷旧宅及び長瀬塾跡(高梁市中井町西方)
隠居した方谷の長瀬の屋敷には明治に長瀬塾が開かれ、翌年には塾舎を増築しなければならないほどに入門者が殺到したようです。屋敷と長瀬塾跡地はJR伯備線・方谷駅になっていて、駅前に山田方谷旧宅及び長瀬塾跡の石碑と説明板が立てられています。駅名は方谷の名を残したいという地元の陳情によるもので、駅には「山田方谷」生誕の地の案内板が立てられ、方谷とゆかりの史跡の説明パネルが展示された方谷駅資料室も併設されています。長瀬の屋敷には、越後国長岡藩から河井継之助が訪れて半年余り方谷に師事しています。高梁川の向かいには長瀬を去る継之助が方谷との別れを惜しんだとされる地に立つ見返りの榎が見えました。

方谷園(高梁市中井町西方)
方谷の功績を顕彰するために方谷と山田家累代の墓所を整備した公園です。前回訪れているため今回は行きませんでしたが、近くにある方谷の里ふれあいセンターの方谷資料展示室は未訪なので、次の機会にはそちらもあわせてまた。

…ということで、「必ずやまた参ります…」と方谷先生に誓ってから5年も経ってしまいましたが、今回の遠征でようやく山田方谷ゆかりの地めぐりを果たすことができました。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑤ (2024/10/20 訪問)

朝日山城からの転戦です。大楯公園として整備されています。広く平坦な本丸ですが、空堀がしっかりと残っていました。小さな三の丸は庄内平野ビュースポットになっています。北楯大堰を開鑿した北楯大学助利長の銅像がありました。佐久地域の4用水を大学の卒論の対象とした私ですので大堰には非常に興味があります。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:槙島城 (2024/10/02 訪問)

宇治駅から徒歩15分ちょっとで、槙島城石碑前(34.899112、135.797852)に着きました。

1573年(天正元年)に足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた「槇島城の戦い」の舞台となった城です。
義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となりましたが、1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による伏見城築城後はその戦略的価値がなくなり廃城となりました。
義昭退去によって実質上、足利幕府は滅んだとされており、室町幕府終焉の地ともいわれています。

伏見城築城にあたり宇治川の流路を付け替える工事の際に、石垣も「槇島堤」に利用されたため遺構は残っていないようです。
児童公園の一角に石碑と案内板があります。説明板には縄張り図あります。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の大阪府動物園前駅へ向かいました。
本日の攻城徒歩=40425歩、攻城距離=28.29Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:超昇寺城 (2024/10/02 訪問)

大和西大寺駅から徒歩10分ちょっとで、籔突入口(34.696943、135.790256)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、超昇寺氏によって築かれたと云われています。
1567年(永禄10年)頃には筒井順慶が西大寺に人足を求めて城を改修し、松永久秀に備えましたが、1569年(永禄12年)に筒井氏は追われ、松永氏によって10日間かけて超昇寺城は破却されたそうです。
その後に筒井氏が盛り返すと再び修築され、天正年間(1573年~1592年)に大和一国破城までは存続していたそうです。

超昇寺城は御前池の西側、佐紀神社の北側にある微丘陵に築かれていました。
竹藪のなかに突入し土橋、空堀らしきものを確認しましたが、竹藪でよくわかりません。
攻城時間は10分くらいでした。(竹籔に躊躇して途中で断念しました)
次の攻城先=槙島城を目指す為、大和西大寺駅から電車で宇治駅に向かいました。

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