みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:黒丸城 (2024/10/05 訪問)

鳥飼本町一丁目バス停から徒歩5分くらいで、黒丸城石碑前(34.780559、135.587825)に着きました。

黒丸城の詳細については不明のようですが、三好一族の同族争いや、三好氏と織田信長との戦いにおいて使用された三好氏の支城と考えられてます。

鳥飼仁和寺大橋北側道路の東側歩道上に石碑と案内板があります。
鳥飼本町一丁目バス停でのバス待ち時間に家具アウトレット(ビッグウッド)さんにトイレを借りました。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=大和田城を目指す為、鳥飼本町一丁目バス停から近鉄バス➡阪急電車➡阪神電車を乗り継ぎ、千船駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:沢良宜城 (2024/10/05 訪問)

真砂一丁目バス停から徒歩15分弱で、美沢公園内石碑/説明板前(34.798221、135.569141)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は藤井三位で1399年(応永6年)周防山口の大内義弘が堺へ進出したきたときに、室町幕府の「御馬廻衆」として二千騎を率いて出陣したそうです。

沢良宜城は佐和良義神社の西側一帯に築かれていたと考えられていますが遺構はなく、参道入口の西にある美沢公園に石碑と案内板があるのみです。
佐和良義神社の参道は南北に長く残っており、かつての沢良宜城の馬場であったとも云われています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=黒丸城を目指す為、沢良宜橋バス停から近鉄バスで鳥飼本町一丁目バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

また訪問して見たい (2024/10/13 訪問)

実は私も熊が怖くないわけではありません。ただ過剰に熊に反応し過ぎて行動の幅を制限しすぎるのがイヤなわけです。山城をガンガン攻める城びとの皆さんなら城山で熊のフンを見かけるのは特別珍しいことではないのでは?と思います。
かといって、無策で山に入るのはただの蛮勇ですので、自分なりに対策と知識を持って訪問しています。高原諏訪城は土城に続いて飛騨で最初に訪問した山城です。何となく音がする気がするので、主郭周辺と北側の郭までにとどめて引き返していますが、東側の遺構も見ておくべきだったかと考えています。これで二回目の訪問になりますが、近くを通りがかったら三回目の訪問もあるかもしれません。
高原諏訪城は周辺では最も遺構の充実した城なので。
公式でやってた2城訪問と食事会も参加して見たかった気がします。江馬氏下館のガイドさんは只者ではないですし、たまにはゆっくり時間をかけて楽しんでみるのも面白いかも。今回はコンプ優先だったので、けっこう力押しで訪問しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

高原諏訪城の支城 主郭→三の郭へ (2024/10/13 訪問)

石神城は江馬氏の本城・高原諏訪城の支城の役目をしています。構造的には主郭の西に二郭、三郭が連なり主郭の左に堀切があり三の郭の先にも堀切が有るようです。二の郭は藪に覆われていて通過は不可能なので、一度主郭から元来た道を引き返し、鉄塔の有る場所から二つ目の鉄塔を目指します。そこが二の郭の下段の扁平地となり、その先が三の郭になります。
支城だけあって、比較的簡素な造りになるようです。そういえば、登城中に熊のフンがありました。そこで引き返すかは、当人の判断になります。熊は移動距離が多いので、数日前に通過して行った可能性もありますが、エサが豊富にあるのなら周辺にまだいる可能性もあります。
寺林城でも見たような気がしますが、あれはちょっと確信がないですね。飛騨・高山は昔から熊が出るので、地元の人達は熊と上手く付きあっている気がします。地元や行政・漁師との信頼関係が出来ているのではないでしょうか。私も危険と判断したら、引き返すことにしています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

和歌山城 御橋廊下・西之丸庭園 (2024/01/25 訪問)

天守郭の北側を通って名勝・西之丸庭園(紅葉溪庭園)に入ります。徳島城の大石橋のは及びませんが、ここにも緑泥片岩の石橋があります。雨に濡れた緑泥片岩は本当に美しいです。私はこの庭、好きですね。
先は西の丸広場に通じていて、御橋廊下が復元されています。西之丸は紀州藩初代藩主・徳川頼宣の隠居所として築造され御橋廊下は藩主とお付きの人だけが西之丸と二之丸の間を行き来することが出来ました。残された図面や出土物・礎石などを元にして平成18年3月に復元完成しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

隠れ良い城。 (2024/10/06 訪問)

笠間城は特に案内板などは有りませんが、遺構が良好に残っています。奈良の山城はこういった比較的放置された城が多いですね。主郭の北側は堀と土塁で守られています。主郭も北側に土塁が良く残っていて、東西両端に櫓台らしきものが残っています。
特に東側が見ごたえがあり、土橋が上まで続いています。特に北側の守りが厚い城のようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

柳生定食・出前編 旧柳生藩家老屋敷・小山田主鈴邸宅 (2024/11/02 訪問)

柳生陣屋近くの無料駐車場から歩いて程なくのところに旧柳生藩家老屋敷・小山田家住宅があります。車道も通じているようですが、カーナビにも地図にも載っていないので歩いてくる方が無難です。石垣を積んだ上に邸宅が建てられていて正直、陣屋跡より雰囲気が有りますね。柳生の里は城びとなら楽しめそうな場所がたくさんありますが、いかんせん城郭関係の遺構が多いので、一般のお客さんはそんなに来ていません。ちょっと勿体ない気がします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:目垣城 (2024/10/05 訪問)

目垣バス停から徒歩5分弱で、佛照寺門前(34.806320、135.592822)に着きました。

目垣城の詳細は不明ですが、在地の土豪・溝咋氏代々の居城で、山田城の13の支城(山田十三城)のひとつのようです。
安威川左岸、育英橋を下ったあたりが城址に推定されています。

遺構は残っていませんが、医学博士奥田光記念館の北側敷地に、城跡碑があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=沢良宜城を目指す為、大同町北バス停から近鉄バスで真砂一丁目バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:茨木城 (2024/10/05 訪問)

茨木市駅から徒歩10分くらいで、復元櫓門(34.820507、135.572192)に着き、その後、片桐氏茨木在城碑(34.820778、135.571164)➡茨木城移築搦手門がある茨木神社東門(34.817770、135.5702210)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、建武年間(1334年〜1336年)楠木正成によって築かれたとも云われています。
1568年(永禄11年)城主茨木佐渡守は摂津に侵攻した織田信長に降り領土を安堵されましたが、1571年(元亀2年)池田衆との合戦に破れ滅びました。
1577年(天正5年)には中川清秀が入城し、本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕えたが、1583年(天正11年)賎ヶ岳合戦で大岩山砦に布陣していた所を柴田勝家の武将佐久間盛政によって急襲され討死しました。
家督は嫡男中川秀政が継ぎ、1586年(天正14年)播磨国三木に150,000万石で加増転封となりました。
1601年(慶長6年)片桐且元・貞隆兄弟が入りますが、大坂の陣の前に徳川氏への内通の疑いを掛けられ豊臣氏と決別、大坂の陣の後は且元が40,000石、貞隆が16,400石の大名となりました。
1615年(元和元年)且元が死去し貞隆は大和国小泉に転封となり、一国一城令によって破却されました。

現在の茨木小学校一帯が城址といわれます。 小学校には現在、慈光院に移築された茨木城楼門を複製した校門が建てられています。
茨木小学校構内にある片桐氏茨木在城碑はフェンスで見えませんでした。
茨木神社周辺に石垣が確認できます。
バスの時間が迫っていたので、駆け足で廻り攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=目垣城を目指す為、茨木市役所前バス停から京阪バスで目垣バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:普門寺城 (2024/10/05 訪問)

摂津富田駅から徒歩15分ちょっとで、普門寺山門入口(34.829507、135.593189)に着き、その後、土塁遺構(34.830662、135.592391)に向かいました。

普門寺は1390年(明徳元年)説巌によって開かれた寺院です。
1561年(永禄4年)に管領細川晴元は三好長慶と和睦し、剃髪したのち隠棲したのがこの普門寺で、城郭化されて普門寺城とも呼ばれていました。1563年(永禄6年)晴元はこの普門寺城にて没しました。
1566年(永禄9年)足利義栄は三好三人衆に擁されて普門寺城に入り、十四代将軍宣下を受けましたが、在任期間はわずかでした。

普門寺は枯山水の庭園が有名で、その一角に細川晴元の墓と伝える宝篋印塔があるそうですが、時間の都合でパスしました。
普門寺城は現在の普門寺境内一帯に築かれていました。
土塁遺構は境内の北西部分にあり、これは外側の道路沿いからでもフェンス越しに見ることができますが、 ただどれほどの規模の土塁なのかははっきりしません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=茨木城を目指す為、富田駅から電車で茨木市駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:芥川城 (2024/10/05 訪問)

高槻駅から徒歩15分くらいで、城址碑前(34.852947、135.608568)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に芥川氏によって築かれたと云われています。
芥川城は平城であるこの芥川城と、三好山に築かれた山城があり、一般的に後者を芥川山城と呼んでいます。
芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われるそうです。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、その後摂津国人一揆が細川政元による鎮圧でこの地域の国人が没落したことからか、芥川本家は歴史から名を消してしまいます。
1490年(延徳2年)細川政元は衰退していた芥川宿を再建し、能勢因幡守頼則を芥川城主としました。
1516年(永正13年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もあるそうです。

付近の道路は狭く、宅地となっており、石垣のある邸宅の南側に城址碑があります。
歩いてみましたが遺構はありませんでした。
攻城時間は1~2分くらいでした。次の攻城先=普門寺城を目指す為、高槻駅から電車で摂津富田駅に向かいました。

+ 続きを読む

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:高浜台場 (2024/10/05 訪問)

水無瀬駅から徒歩10分くらいで、観音堂近くの石碑前(34.873781、135.670743)に着きました。

高浜台場は1866年(慶応2年)に梶原台場の関門機能強化のために徳川幕府により築かれました。
1868年(慶応4年)鳥羽伏見の戦いでは梶原台場・高浜番所守備の伊勢藤堂藩が新政府方に寝返り、淀川対岸の楠葉台場の旧幕府軍と砲撃戦を行い旧幕府方を敗走させています。

高浜台場(番所)は、淀川堤防側にある高浜公会堂前にある観音堂前に台場の石碑が立てられています。
実際の台場(番所)は、堤防を越えた淀川河川敷にあったそうです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=芥川城を目指す為、島本駅から電車で高槻駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

仲村城 香川県善通寺市 (2024/11/03 訪問)

甲山城のあと城びと未登録の仲村城に立ち寄りました。
城跡には香川氏の祖である鎌倉景政を祀る景政神社が鎮座します。
神社を囲むように土塁が残っていますが大部分は農耕地と住宅地になっています。

仲村城から少し離れた場所に四国第七十七番札所の金倉寺があります。
弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖、智証大師生誕の地とされます。
この日は七五三でお参りの親子連れも多かったです。

金倉寺の前には釜揚げうどんの有名店、長田in香の香があります。
午前中なのに広い駐車場も満車、長い行列ができていました。
この日は食さず、写真は以前行ったときのものです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:今西家土居屋敷 (2024/10/05 訪問)

服部天神駅から徒歩10分くらいで、石碑前(34.761799、135.481491)に着きました。

今西家土居屋敷は奈良の春日大社の社領を管理するための、お代官様が居住していた屋敷だそうです。
歴史は古く、鎌倉時代の終わりには早くもこの地に居館を構えていたようです。現在残る建物は江戸時代のもののようです。

このお屋敷は現役で、今も今西家のご家系がお屋敷を守られているそうで、現役の住居のため見学禁止です。
屋敷内には入ることが出来ませんが、表門などの江戸時代中期の建物の確認はできます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高浜台場を目指す為、服部天神駅から電車で水無瀬駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:原田城 (2024/10/05 訪問)

曽根駅から徒歩5分ちょっとで、原田しろあと館入口(34.772991、135.463292)に着きました。

築城年代は定かではないようです。 1547年(天文16年)には細川晴元の軍勢30,000騎が攻め寄せて落城しました。
1578年(天正6年)有岡城主荒木村重が織田信長に叛くと、有岡城攻めの付城として織田信長の家臣が在城したそうです。

遺構は残っていないようで、旧羽室家住宅付近で案内板と標柱を確認しました。
原田しろあと館の開館は土日の12時~16時です。(本日は土曜日ですが、時刻は朝の7時45分です)
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今西家土居屋敷を目指す為、曽根駅から電車で服部天神駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:麻田陣屋 (2024/10/05 訪問)

十三駅から蛍池駅に着きました。そこから徒歩2~3分くらいで、蛍池駅前の石碑と案内板前(34.794053、135.448677)に着きました。

1615年(元和元年)青木一重によって築かれました。 青木氏は美濃国安八郡青木発祥の土豪で、今川氏真、豊臣秀吉、秀頼に仕えました。
大坂の役の前に駿府の徳川家康のもとに和議の使者として赴いたが、帰路徳川方に捕縛され出家して宗佐と号しました。
同年、徳川家康に出仕して摂津国豊島郡・伊予国・備中国において12,000石を領して麻田陣屋を築き、弟重家に2,000石を分与しました。その後も青木氏が代々続いて明治に至るそうです。

螢池駅の西側に石碑と案内板が設置されています。
遺構は残っておらず、 藩主屋敷表玄関が報恩寺、門が民家に移築されて現存しているようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=原田城を目指す為、蛍池駅から電車で曽根駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:三津屋城 (2024/10/05 訪問)

堀城から徒歩15分ちょっとで、光専寺入口(34.727555、135.471934)に着きました。

三津屋城は楠木正行によって築かれた城で、その後、三好長慶が一時本拠にしたとも伝っています。
現在城址推定地には光専寺とひかり保育園があり、周辺は宅地化されており遺構は残っていません。
城跡である光専寺に併設されている保育園は、"無断で立ち入るべからず"とあるので、山門の中には入らず退散しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=麻田陣屋へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、ここからホテルまで徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:堀城 (2024/10/05 訪問)

ホテルでの朝食前に堀城と三津屋城を攻城しました。
ホテルから徒歩5分ちょっとで、武田薬品工場正門前(34.722440、135.480788)に着きました。

築城年代や規模、正確な位置については定かでないようですが、細川氏によって築かれた城です。
現在の十三公園のあたりが城址だったと推定されています。線路沿いの武田薬品工場正門横に案内板がありました。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=三津屋城へは、ここから徒歩で向かいました。

+ 続きを読む

シャンシャン

姫路城ドローンショー (2024/11/09 訪問)

500機のドローンが姫路城をバックに夜空を彩る!
いったいどういう仕組みで動いているのかまったくわからないけど、多くのドローンが一糸乱れぬ動きで次々と夜空に絵を描いていく。
わずか10分くらいのショーだったけど見に来て良かった!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シャンシャン

坤櫓 秋の特別公開 (2024/11/09 訪問)

現存三重櫓12基のうち明石城に坤櫓と巽櫓の2つが残る。
2つの櫓を含む東西の幅が380mあるという高石垣は圧巻の一言!まるで万里の長城を思わせる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ94