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しんちゃん

畑城・番外 脱出編 (2024/10/06 訪問)

奈良県山辺郡山添村の畑城の続きです。主郭の周辺をウロウロ歩き、石垣を発見しました。ぴーかるさんの投稿にあったやつですね。あさん、ぴーかるさん、情報感謝いたします。さあ、これで帰れるぞー。
元来た道を戻って行きます。土塁や堀切などの遺構を確認しつつ先に進みますが、ちょっと変則的な入り方をしてきたので、元来た道から逸れて、西の尾根先からズボッと外に出てきました。今のままだと、ちょっと危ないので、きれいに整備されたらまた来たいかな‥。

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しんちゃん

和歌山城遺構 時鐘堂・御台所 (2024/02/25 訪問)

和歌山城の南側、道路を隔てた岡の上に岡山の時鐘堂があります。正徳2年(1712)五代藩主・徳川吉宗の時に紀州藩によって設置されました。時鐘堂の梵鐘は大坂夏の陣の際に豊臣方が使用した青銅製の大筒(大砲)を梵鐘に改鋳したものとされています。
和歌山市大垣内にある光恩寺は紀州徳川家と縁があり、明治13年(1880)和歌山城から本丸御殿の一部を移設して庫裏を築いたとされています。城内の古絵図から本丸御殿の北西隅にあった御台所であったとされています。

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しんちゃん

柳生定食ライス追加 芳徳寺・柳生家墓所 (2024/11/02 訪問)

柳生城跡の北西に位置する芳徳寺は柳生一族の菩提寺で境内からは柳生家墓所への道が続いています。境内もかつての城址の一部とされ、本堂の背後には土塁が残っています。この土塁も、なかなかの厚さをもっています。
寛永15年(1638)に柳生宗矩と沢庵宗彭によって開かれたとされ、本堂には二人の像が安置されています。寺の中には資料館もあり柳生一族や柳生藩の資料を見ることが出来ます。

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しんちゃん

柳生定食(金)柳生城 (2024/11/02 訪問)

柳生城は戦国期の柳生氏の本城と見られ、北西の芳徳寺や西の柳生正木坂道場も城域に含まれると思います。
芳徳寺の背後には土塁が残り、境内には柳生一族の墓所もあります。城址西側から城域に入ることができ、最初に深い堀切にたどり着きます。北側に南郭(水道施設)があり、さらに北側に主郭があります。主郭の北側にも郭や堀切が存在するようですが、今回は未訪問です。
最初に見た堀切の南にも郭がありますが、かなり藪化が進んでいます。この日は小雨の中の登城だったので、比較的あっさりと済ませています。

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朝田 辰兵衛

パネルの向いている方向に絶景アリ👀 (2024/09/15 訪問)

鎌倉駅から「鎌40」系統のバスに乗り,小坪バス停下車。ここから逗子マリーナの前を通り,向かいました。
まずはパネルがあり,その向いている方向に絶景があります。富士山と江の島のコラボを楽しんでください。私の場合,富士山の冠雪シーズンではなかったので,ちょっと残念ですが…。
ショートカットになるのかわかりませんが,正覚寺を抜けて住吉神社へとたどり着きました。井戸ワキの抜け穴とされるヤグラですが,覗いてみたら光が差し込んでいましたので,抜けられそうです。足元の状態が確認できませんでした。ただ,ジメジメしていましたので,高い確率でヒルが生息していると思われます。
ここのパネルは無残にも倒れていました…。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/04 訪問)

愛媛+α城廻:第四日(最終日)
※前日広島市内泊

中国城廻の際にすっかり組み込むことを忘れていたので今回の愛媛城廻と組み合わせました
まあまあの上りがある山城で、広大な広さ。ゆっくり全部見るには2,3時間必要かと
民俗博物館でスタンプ押印時に城跡マップをゲットして行程を確認してから行きましょう
毛利元就のお墓や遺構は堀切、土塁、切岸などが多いが、本丸には医師gは気に使われていたと思われる石が散在していた
帰りに麓の清神社で鹿さんに遭遇、逃げないので人馴れしている感じだった

【本日の行程は以下の通り】
8:45広島バスセンター(路線バス:8番乗場)、10:18安芸高田市役所前
 (徒歩8分)安芸高田市歴史民俗博物館(百名城スタンプ 9:00-17:00火休祝翌休)
 郡山城散策(3時間)
13:42安芸高田市役所(路線バス)、15:16広島バスセンター
 広島市内をうろうろ観光
18:08広島(新幹線)、21:59東京

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/03 訪問)

愛媛+α城廻:第三日
※松山城と共に登城、前日松山市内泊

資料館は道後公園駅が近いですが、道後温泉駅からもすぐです。資料館は元NHKアナウンサーの松平さんが案内する数分の紹介ビデオのほか奥には10分程度の河野氏など湯築城の歴史のビデオもあるので視聴をお勧めします
城跡は土塁、堀中心で武家屋敷など復元されています

【本日の行程は以下の通り】
8:00黒門口~戸無門へ登城
 松山城(百名城スタンプは切符売り場横 9:00-17:00無休)
10:30(下城)県庁裏道(登石垣見学)
11:07県庁前(市電)、11:19道後公園駅
 (徒歩1分)湯築城資料館(百名城スタンプは館内 9:00-17:00無休、無料)、湯築城跡散策
13:00道後公園(市電)、13:20,13:32大手町駅(伊予鉄)、13:51高浜
(徒歩10分)14:15松山観光港(フェリー)、16:10呉中央桟橋ターミナル
 (徒歩7分)大和ミュージアム(9:00-18:00火休,祝翌休)
18:02呉(JR)、18:47広島
 泊:広島市内

※松山から広島のフェリーは豪華な内装、座り心地良い椅子でした
 直接広島港行けますが、大和ミュージアムに立ち寄りたかったので呉港で途中下船
 大和ミュージアムおすすめです、1/10サイズの模型やゼロ戦も見どころですが、海底に沈んだままの大和の映像もおもしろい。それに何といっても戦争への警鐘を改めて感じることができました

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/03 訪問)

愛媛+α城廻:第三日
※湯築城と共に登城、前日松山市内泊

何度目かの松山城、今回はリフトなど使わず大手門跡から黒門口道を登って登城。途中早速人懐っこい猫が出迎えてくれて挨拶したら「にゃ~ん!」と返事が。後ろ髪をひかれながら戸無門、筒井門(隠門)、太鼓門を経て本丸へ。開城の9時前だったが20人くらい並んでいた。開城時には後ろにさらに何十人も・・・、さすが人気のお城
連立式天守はぐるりと回ることができ、江戸時代のままの柱や床などは残存天守ならでは!野原櫓(中は入れませんでした)や乾門もチェックして、登り石垣のある県庁裏道から下城しました
見どころ満載なので、たっぷり時間を取っておくことをお勧めします

【本日の行程は以下の通り】
8:00黒門口~戸無門へ登城
 松山城(百名城スタンプは切符売り場横 9:00-17:00無休)
10:30(下城)県庁裏道(登石垣見学)
11:07県庁前(市電)、11:19道後公園駅
 (徒歩1分)湯築城資料館(百名城スタンプは館内 9:00-17:00無休、無料)
13:00道後公園(市電)、13:20,13:32大手町駅(伊予鉄)、13:51高浜
(徒歩10分)14:15松山観光(フェリー)、16:10呉中央桟橋ターミナル
 (徒歩7分)大和ミュージアム(9:00-18:00火休,祝翌休)
18:02呉(JR)、18:47広島
 泊:広島市内

※松山から広島のフェリーは豪華な内装、座り心地良い椅子でした
 直接広島港行けますが、大和ミュージアムに立ち寄りたかったので呉港で途中下船
 大和ミュージアムおすすめです、1/10サイズの模型やゼロ戦も見どころですが、海底に沈んだままの大和の映像もおもしろい。それに何といっても戦争への警鐘を改めて感じることができました

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:若江城 (2024/10/03 訪問)

若江岩田駅から徒歩20分弱で、石碑/説明板前(34.654512、135.603831)に着きました。

若江城は畠山基国によって築かれた城で、重臣の遊佐氏が城主をつとめました。
「応仁の乱」の原因ともなった畠山氏の相続争いにはじまり、織田信長が三好義継を攻めた「若江城の戦い」など数々の戦乱の舞台となった城です。
また、義継の死により、三好本家が滅亡した城でもあります。その後、信長による石山本願寺攻めの際には攻略拠点として使用されましたが、本願寺開城・退去後の1583年(天正11年)に廃城となりました。

東大阪市立若江小学校の側に、道を挟んで石碑と案内板がありました。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=八尾城を目指す為、若江バス停から近鉄バスで、近鉄八尾駅前バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:岡山砦 (2024/10/03 訪問)

大池橋(北)バス停から徒歩10分弱で、御勝山古墳説明板前(34.654107、135.535568)に着きました。

岡山砦は桃谷駅東側の御勝山古墳に、1614年(大坂冬の陣)の際、徳川二代将軍・秀忠が本陣を置いた砦です。
翌年の夏の陣でも秀忠はこの岡山砦を利用し、勝利を収めたことから、従来「岡山」と呼ばれていたこの墳墓を御勝山と名づけられたとされます。

古墳の一部が残っているようですが、柵によって囲われているため中を確認することはできません
遺構は確認できませんでしたが、石碑、説明板が設置されています。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=若江城を目指す為、生野区役所バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、若江岩田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:江口城 (2024/10/03 訪問)

瑞光四丁目駅から徒歩15分くらいで、大隅神社鳥居前(34.749367、135.550494)に着きました。

築城年代、廃城年代はともに不明ですが、細川晴元の側近・三好政長によって築城されたのではないかとされています。
1549年(天文18年)「江口の戦い」が勃発。政長は同族の三好長慶と争い、江口城は戦場となりました。
この戦いにより政長は戦死、長慶は晴元や将軍足利義輝らを京より追放し、三好政権を樹立するきっかけとなりました。

江口城の正式な場所は特定されておらず、大隈神社付近であろうと推定されているそうです。
遺構や解説板、石碑もありません。ちょっと怖い顔した狛犬の写真を撮りました。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=岡山砦を目指す為、瑞光四丁目駅から電車➡バスを乗り継ぎ、大池橋(北)バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:守口城 (2024/10/03 訪問)

守口市駅から徒歩5分くらいで、難宗寺付近(34.738699、135.566647)に着きました。

守口城は1399年(応永6年)に起きた「応永の乱」の際に、大内義弘の家臣である杉九郎が居城したと伝わっています。
その後「応仁の乱」や「石山合戦」などでたびたび戦場となっており、「石山合戦」では明智光秀がここを砦にしたそうですが、詳しいことはわかっていません。

現在城址には難宗寺が建てられていますが、所在地についても諸説あるようです。
失敗しました。太鼓門のGPS座標を誤り、見ることができませんでした。後で調べたら、すぐ近くなのに悔やまれます。
電車の時間が迫り、雨も降っているので太鼓門を捜すのを諦めて撤退しました。攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=江口城を目指す為、守口駅から電車で瑞光四丁目駅に向かいました。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/02 訪問)

愛媛+α城廻:第二日
※宇和島城と共に登城、前日宇和島泊

朝から雨だったが、松丸着いたら上がって日差しも出てきたので登城したが、下山ごろに強い雨が降り出し、カッパも着る間もなくびしょ濡れの登城でした。こういう場合は松丸駅にある温泉であったまり、着替えるのがおすすめです
さて、河後森城跡は土塁や堀切を楽しめる城跡、さほど広くないので1時間から1時間半で回れるかと(今回途中からの土砂降りで新城は断念しましたが)

【本日の行程は以下の通り】
8:15上り立ち門から登城
 宇和島城(百名城スタンプ天守券売所 9:00-16:00,城内6:00-17:00 11-2月)
10:30宇和島バスセンター(路線バス)、11:26松丸
 (徒歩5分登城口)河後森城跡(続百名城スタンプ:第十曲輪馬屋24H可)
  ※松丸温泉入浴(駅ビル)
15:14松丸(JR)、16:00,16:02宇和島(JR宇和海22号)、17:21松山
 泊:松山市内

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/02 訪問)

愛媛+α城廻:第二日
※河後森城と共に登城、前日宇和島泊

現存する薬医門である上り立ち門から登城、式部丸経由長門丸石垣へ。長門丸石垣は立派だが、隅櫓はあっただろうが、続き櫓を建てるには少々上部の奥行がない(1mちょい?)ように思える。郷土資料館は開館前だったので素通りして二の丸、本丸へ。依然来た時も思ったのだが本丸にこじんまりした天守がポツンと佇んでいる感じがなんとなくかわいい。とはいえ残存12天守の一つだけあり、天守内のつくりは急な階段や大きな梁など興味深い
今回は高虎時代の石垣と修理、増築されたその後の石垣などの違いを十分楽しんで、井戸丸経由で下城

【本日の行程は以下の通り】
8:15上り立ち門から登城
 宇和島城(百名城スタンプ天守券売所 9:00-16:00,城内6:00-17:00 11-2月)
10:30宇和島バスセンター(路線バス)、11:26松丸
 (徒歩5分登城口)河後森城跡(続百名城スタンプ:第十曲輪馬屋24H可)
  ※松丸温泉入浴(駅ビル)
15:14松丸(JR)、16:00,16:02宇和島(JR宇和海22号)、17:21松山
 泊:松山市内

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虎の子

お城への交通手段実践レポート (2024/11/01 訪問)

愛媛+α城廻:第一日
※今治城と共に登城

ここでも傘がいる程度の雨でしたが、復元された天守や連結式の現存の2つの櫓(高覧櫓、台所櫓)は、やはり模擬天守と違い興味深い
入り口は台所櫓、さっそく天守復元に役立った骨組み模型があり、実際の櫓の木の梁などが楽しめた。台所櫓の二階は非公開だったが、天守や高欄櫓は上階に登れる。天守から見る高欄櫓は、城内側には高欄がないのがよくわかり、装飾性の高いものだったのだろうと感じた

【本日の行程は以下の通り】
6:00東京(新幹線)、9:26,10:00福山駅前(高速バス)、11:30今治桟橋
 (歩11分)今治城(9:00-17:00無休:百名城スタンプは天守入り口)
12:36今治城前(路線バス)、12:45,13:01今治駅(JR)、14:09,14:28松山駅(JR宇和海17号)、15:02伊予大洲,15:17大洲駅前(コミュバスぐるりん)、15:29大洲城前
  大洲城(9:00-16:30無休:百名城スタンプ台所櫓入口券売所)、三の丸南隅櫓
(大手門歩6分)17:47大洲本町(路線バス)、18:48宇和島バスセンター
 泊:宇和島

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虎の子

お城への交通手段レポート (2024/11/01 訪問)

愛媛+α城廻:第一日
※大洲城と共に登城

今治市に着くとあいにくの雨、散策後半はお濠にも波紋が結構広がるくらいの雨でした
堀は思ったより広い海水の堀、残念ながら泳いでいるというクロダイやスズキは確認できませんでした
模擬天守だが、近くで見ると迫力ある天守に隅櫓もあり、本丸には神社が建立されていました
鉄門にある鏡石は立派で目を引きます

【本日の行程は以下の通り】
6:00東京(新幹線)、9:26,10:00福山駅前(高速バス)、11:30今治桟橋
 (歩11分)今治城(9:00-17:00無休:百名城スタンプは天守入り口)
12:36今治城前(路線バス)、12:45,13:01今治駅(JR)、14:09,14:28松山駅(JR宇和海17号)、15:02伊予大洲,15:17大洲駅前(コミュバスぐるりん)、15:29大洲城前
  大洲城(9:00-16:30無休:百名城スタンプ台所櫓入口券売所)、三の丸南隅櫓
(大手門歩6分)17:47大洲本町(路線バス)、18:48宇和島バスセンター
 泊:宇和島

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イオ

小阪部陣屋(岡山県新見市大佐小阪部) (2024/09/15 訪問)

小阪部陣屋(城びと未登録)は、江戸前期に兄・水谷勝宗が備中松山藩を継ぐ際に2000石を分知された水谷勝能が築いた陣屋で、本家が備中松山藩を改易された後も、小阪部水谷氏は旗本として明治まで続きました。陣屋跡は公園になっていて、石碑と説明板が立てられているくらいです。説明板によれば陣屋礎石が遺っているようですが、よくわかりませんでした。陣屋跡から北東に約500mの円通寺には陣屋の大門が移築されているそうですが、未確認です。

明治に陣屋が廃されると、長瀬から小阪部に移り住んだ山田方谷が陣屋跡に小阪部塾を開き、多くの門人を受け入れました。小阪部塾は方谷の最期の地でもあり、小阪部塾跡は方谷園として整備され、勝安房(勝海舟)の題字、三島中洲の撰文による方谷山田先生遺蹟碑が建てられています。また、小阪部は方谷の母の故郷でもあるため、母の実家の菩提寺(金剛寺)には母方の祖父母の位牌を祀った方谷庵が建てられ、その麓には山田方谷記念館が設けられています。この日は開館時間(10時~16時)を過ぎていたので記念館は見学できませんでした……残念。

城びとへの投稿なので小阪部陣屋の投稿の体をとっていますが、言うまでもなく「山田方谷ゆかりの地めぐり(新見市編)」として訪れました。そのため小阪部陣屋としての下調べはほとんどしておらず、城郭放浪記さんで紹介されている移築門を見落としてしまったのは不注意の極み…。山田方谷記念館の見学とあわせていつか回収したいものです。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:古橋城 (2024/10/03 訪問)

大和田駅から徒歩10分弱で、願得寺山門前(34.742571、135.596863)に着きました。

古橋城の築城時期や築城主は不明ですが、三好義継の支配下にあったことから若江城の支城として築城されたものと思われています。
1570年(永禄13年・元亀元年)、三好三人衆が野田城・福島城を出て古橋城に侵攻。三好義継勢150と畠山昭高勢150の合わせて300の兵が城に集まったとされ、三好三人衆方との激戦の末に城兵200が討死し敗走したようです。

古橋城は願得寺付近にあったとされていますが、城があったことを示すものは何もありません。
門は閉まり、雨も降っているので早めに撤退しました。攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=守口城を目指す為、大和田駅から電車で守口市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:楠葉台場 (2024/10/03 訪問)

橋本駅から徒歩10分ちょっとで、楠葉台場北虎口跡側(34.877781、135.680649)に着き、その後、楠葉台場跡説明板前(34.875399、135.681594)に向かいました。

1865年(慶応元年)江戸幕府によって築かれました。
江戸時代末期に開国を求める外国船が大阪湾にも現れるようになると、京都守護職であった会津藩松平容保によって江戸幕府に建白があり、大阪湾から京へ遡上する淀川沿いに築いたのが楠葉台場であったようです。

楠葉台場は大阪府と京都府の境目の辺り、淀川の東岸に築かれており、現在は国指定史跡となり公園として整備されています。
現在残されている遺構は台場の東半分程度で、西側は京阪本線や河川となっています。南側に大空堀がありますが底はコンクリートになっています。
土塁や内側にある見切塁、北には北虎口、北堀なども残っており、規模は小さいですが案内標識があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=古橋城を目指す為、橋本駅から電車で大和田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:枚方城 (2024/10/03 訪問)

枚方公園駅から徒歩10分弱で、御茶屋御殿広場入口(34.813687、135.642878)に着きました。

枚方城は京阪枚方公園駅の東側の丘上にあったとされ、現在の枚方小学校の付近がその推定値と考えられています。
枚方は、奈良時代に百済王氏(百済の最後の王の流れを汲む氏族とされます)が渡来した地で、その子孫と称した本多氏が枚方城主を務めていました。
本多内膳正政康は豊臣秀吉に仕え、その娘が秀吉の妾になったことから、豊臣氏との関係が深まり家運も栄えたとされます。
しかし、秀吉亡き後は1614年(大阪冬の陣)の前年に、徳川方によって陥落。翌年の1615年(大阪夏の陣)で大阪城が落城するに伴い、枚方城も廃城になったとされます。

推定値とされる枚方小学校には向かわず、御茶屋御殿広場に行きました。
遺構は残っておらず、御茶屋御殿跡にある説明板に枚方城の名前を見つけることができる程度です。
雨が降っているので早めに撤退しました。攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=楠葉台場を目指す為、枚方市駅から電車で橋本駅に向かいました。

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