詳細は不明ながら、南北朝期に南朝方の浅間氏や保田氏が藤白山系に築いたとされ、山名義理により北麓に大野守護所が置かれると、守護所の背後を守る山城として機能したと考えられます。その後、紀伊国守護は山名氏から大内氏、畠山氏へと代わり、畠山基国が守護所を広に移した後も戦国末期まで活用されましたが、畠山氏の没落とともに廃城となったようです。
森林公園 雨の森駐車場から登城開始。大野城は「東の城」と「西の城」と呼ばれる二つの曲輪群からなり、東の城の登城口まで林道が通じているようですが、雨の森からの高低差はほとんどない上に、途中から未舗装になるらしいので無難に徒歩を選択。駐車場から約20分で登城口に着きました。
案内表示に従って登城口から階段を上って行くと送電鉄塔があり、振り返ると市街から和歌浦方面の眺望が開けています。さらに上って道をそれると主郭北裾に浅い堀切がありました。堀切から直登した主郭は三段の曲輪からなり、頂部に大野城趾の石碑と文字が消えてしまった説明板が立てられています。主郭から西尾根へと下りたところには藪化した堀切があり、南側に竪堀となって落ちていました。
西尾根には尾根に沿っていくつかの曲輪群が展開し、北辺には尾根を削り残した土塁が設けられています。曲輪群は堀切により東西に区画され、堀切の南側は竪堀となってずっと下まで続いています。竪堀に下ろされたトラロープを頼りに下りて行くと、西尾根曲輪群の南面には竪堀群と腰曲輪が縦横に設けられ、南側への警戒感が窺えます。
さて、竪堀群から尾根まで戻って、尾根伝いに西の城を目指します(続く)。
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