上梅沢館からの転戦です。小出神社鳥居前(36.733693、137.313083)に路駐しました。
1545年(天文14年)越後長尾氏と従属関係にあった越中国松倉城主・椎名長常に仕えていた式部大輔唐人兵庫によって築かれたようで、唐人氏はその名が示す通り大陸由来の氏族と思われるようです。
当時椎名氏は東へと勢力を伸ばしていた富山城主・神保長職との攻防は、主に小出川を挟んで繰り広げられており、小出城はその最前線で椎名側にとって川を挟んで神保側の越中国鶯野城と睨み合う、防衛上重要な拠点だったようです。
1563年(永禄6年)には越中に侵攻した上杉謙信によって落城、その後揖美庄助五郎が城主となりますが、1566年(永禄9年)上杉謙信によって再び落城、家臣長尾小四郎景隆が城主となりました。
謙信没後の1579年(天正7年)佐々成政によって落城し、成政の家臣久世但馬が城主となりました。
1581年(天正9年)織田信長が催した馬揃えの為に成政が上洛している隙を突いて、上杉景勝が小出城を包囲しますが、急ぎ引き返した成政らの軍勢が来援する知らせを聞いて包囲を解いて退いたそうです。
その後成政は、佐々喜藤次、佐々喜右衛門を城代として小出城に置いたそうです。
1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、織田方の混乱に乗じて上杉方の須田満親が小出城を奪取しました。
1583年(天正11年)体勢を立て直した成政は魚津城を攻め落とし、上杉方の須田満親は小出城も明け渡して越後に退いたそうです。
1583年(天正11年)成政の支配に抵抗していた弓庄城主土肥政繁が、小出城と新庄城を攻め落としますが、維持する力は無く、まもなく撤退しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による富山の役で成政が敗れ平定されると、小出城は役目を終え、廃城となったようです。
小出神社付近に築かれていたようです。遺構はありませんが、小出神社に説明板がありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=仏生寺城に向かいます。
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