さわやまじょう

佐和山城

滋賀県彦根市

別名 : 佐保城
旧国名 : 近江

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

あき

過ぎたるもの佐和山城 (2025/03/10 訪問)

小谷城から宿泊している彦根へ これから彦根城行っても中途半端になりそうだなと思い佐和山城へ 駅から歩いたら結構距離ありました 自転車借りれば良かった 佐和山城の入口龍潭寺へ到着 山門抜けて墓地抜けてハイキングコースへと入ります 正直にいうとちょっと気軽に考えてましたが なかなかキツイ登りです トレッキングポール登場 切り通しや西の丸 解りづらいけど竪堀などを通り20分位で本丸跡へ 本丸跡からは彦根城が見えます 静かに忘れ去られたような佐和山城と観光客で賑わっているであろう彦根城 なんとも言えない気持ちになります 本丸跡は大規模な破城があったといわれ ほとんど遺構は見られないのですが 本丸を大手方面に少し降りて行くと本丸の隅石垣が2つ残っています 三成が過ぎたるものといった佐和山城の数少ない遺構です 関ヶ原から敗走する時見えたであろう佐和山城から上がる火をどんな気持ちで見たのでしょうか… さて日も傾いてきたので来た道を戻ります 最後に三成の像にお邪魔しましたとご挨拶して佐和山城を後にしました 往復で1時間位でした 余談ですが本丸にある案内板のQRコードを読み込んでアンケートに答えると 彦根駅案内所や彦根城開国記念館で佐和山城御城印に三成の花押が入ったものが買えます あと佐和山城観光案内所の定休日は佐和山城の地図が載ったパンフレットが無い場合があるので駅の観光案内所で貰ってから行くと良いかと思います

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

城下町の遺構がまた一つ・・・ (2024/11/12 訪問)

昨年秋ですが佐和山城を訪れました(昨年春以来3度目です)。今回は搦手側の龍潭寺からではなく、大手側の大手門があった場所(大手口)を目指しました。彦根駅から近江鉄道に乗り(写真①)1駅目の「鳥居本」で下車しそこから歩きました。

昨年8月に、工事中に石田三成時代の遺構が見つかったというニュースで気になっていたので、イオさんに続き私も遅ればせながら訪れてみると、イオさんの投稿の写真の時からさらに工事は進んだようで、遺構が見つかった付近だけではなく、内堀からその外側のほとんどは埋立られていました。三成時代の城下町があったと思われるこの一帯は、国道8号バイパス工事がすでに大規模に行われていて、重機やダンプがたくさん入り立入禁止でした(写真⑤⑥⑦:写真②の地図に撮影場所を書いています)。

こんな大きな道路ができてしまえば、沿線には必ず商業施設やマンションや工場などが立ち並んで行くので、わずかに残っている外堀跡などの遺構(写真⑧の小野川付近)も、あと数年後にはだんだんと無くなっていくかもしれませんね。三成時代の城下町の全貌が解き明かされる事も、今後は難しくなりそうな気がします。

大手口(大手門跡)前がちょうどダンプの出入口になっていて、工事の方がいたので断って入りました(写真③)。三成の時代はここがメインの登城路で、ここに大手門が建っていて、その前の場所には侍屋敷があったようです。大手口のこの橋から先は龍潭寺の私有地なのでこの写真③の光景は、今後も残り続けると思います(たぶん)。そしてこの右側、内堀から外堀までの一帯が商人や足軽などが住む城下町で、鳥居本駅から国道の向かい側一帯が江戸時代の宿場町であったと思われます。東海道「鳥居本宿」の跡碑もありました(写真⑨)。

関ケ原で戦いがあった翌日、三成の父正継と兄正澄の2,800の軍勢が守るも、小早川秀秋ら15,000の大軍に攻められ、佐和山城と侍屋敷とこの城下町一帯は全て焼き払われてしまいます。ならばその後に入った井伊直政は、いったいどこで政務を執っていたのか🤔? それはよくわかりませんでした。

城下町の遺構が、また一つ解明されないまま消えて行く・・・、これも時代の流れで仕方ないのかな。帰りに近江鉄道のドアに描かれていた「ひこにゃん」に癒されたのが、せめてもの救いでした(写真⑩)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

スティクラ

武士の夢 佐和山城へ (2025/01/01 訪問)

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

今年初の訪城は、佐和山城。
龍潭寺の裏から佐和山城ハイキングコースで城跡へ。
比較的登りやすく20分弱で頂上へ。
頂上からは、彦根城や琵琶湖を一望することができて、想像以上の眺めだった。
石垣や千貫井戸を見ながら、龍潭寺と逆方向から下山。
帰りは滑りやすそうな場所もあったが、それほど大変ではなかった。
ただ、かなり離れた場所に下山するため、龍潭寺に車や自転車を停めて登っている人は、千貫井戸を見終わったら、もう一度頂上から龍潭寺側に降りた方がいいです。

(※彦根を姫路と誤記してましたので、訂正しました)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

三成にすぎたるものが三つ??? (2024/11/30 訪問)

 龍潭寺より登城し本丸周辺を散策し大手である鳥居本方面へ下山しました。鳥居本方面では大手の跡や堀の跡を見ることができます。
佐和山自歩道トンネルを通って彦根駅まで歩いて帰ってきました。佐和山自歩道トンネルの石碑に「三成にすぎたるものが三つある・・・島左近と佐和山城と百間橋」と書かれていました。すぎたるものは二つじゃないのか。百間橋って何と思い調べると彦根市観光ガイドに「通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540m)に及ぶものと伝えられています。」「石田三成はその佐和山統治期に松原内湖の西側を三ヶ所切り、運河とするとともに松原と東の蒲生坂に向けて、内湖に土堤(大道・大海道)と百間橋を架けました。」と記載してありました。また「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に百間の橋」という言葉もあるようです。龍潭寺の近くの踏切を渡ってすぐの所に「百間橋跡」の石碑がありました。
 龍潭寺に行く前の民家から野猿に遭遇し、境内や城域にも野猿に注意するように表示がありました。実際にかなりの数の野猿と遭遇しました。たまたま画面に入った猿の写真を撮りましたが、ビビってて少しボケていますね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 連郭式山城
天守構造 型式不明[5重?/1595年頃?/破却(廃城)]
築城主 佐保氏?
築城年 建久年間(1190〜1199)
主な改修者 石田三成
主な城主 佐保氏、小川氏、磯野氏、丹羽氏、石田氏、井伊氏
廃城年 慶長11年(1606)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 滋賀県彦根市古沢町
問い合わせ先 彦根市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0749-26-5833