(26人目)井伊直政の続き㉛です。
直政の死を悲しんだ家康は、直政の生前の最後の願いを聞き入れ、義弘の助命と島津の本領安堵を、義弘の子で義久の後の島津家を継ぐ「島津忠恒」に約束します。すると忠恒は、薩摩に隠れていた宇喜多秀家を引き渡し助命嘆願をしますが、それも受け入れ八丈島への流罪で決着します。直政死後、家康は直政の遺志を継ぎ、もう事を大きくしたくなかったというのが本音だったのではないでしょうか? そしてその翌1603年、これで西軍諸将が全て家康に恭順の意を示した事で、家康は二条城にて征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開くことができたのでした。
【直政辞世の句】
祈るぞよ
子の子のすべての末までも
守れ近江の国津神々
やはりいよいよ最後は、直継と直孝それに政子と亀姫の、自分の子らの事が一番心配になったのでしょう。子と井伊家末代までもどうか近江の神々よ守ってほしい、と詠んだようです。
佐和山城の麓(島左近屋敷跡)には、菩提を弔うため、直継により「清涼寺」が建てられ(写真①②③④)、そこに直政の墓が建てられました。私も清涼寺に行き、直政の墓に手を合わせてきました。本堂の左奥、少し登った所に墓はありました(写真⑤)。ちょうど桜が満開の時期だったので、とても静寂な雰囲気の中で、さわやかな風とともに桜の花びらが舞う姿には、何か心を打たれてしまいました(写真⑥)。清凉寺の横には、直政を祀る「井伊神社」もありました(写真⑦⑧)。
一方、島津義弘が隠居していた薩摩の加治木館にも直政死の悲報が届きます(写真⑨⑩)。義弘は直政が自分の助命嘆願と薩摩の本領安堵に尽力してくれた事に大変感謝していました。今こうして自分が生きていられるのは直政のおかげだと、涙ぐんで手を合わせたそうです。そして同じく加治木館でこの時義弘に仕えていた、あの井伊直政を狙撃し鉄砲傷を負わせた柏木源藤は、「自分はいったい何という事をしてしまったのか!・・・」と罪悪の念にかられて出家し、そのまま加治木館を出て、直政を供養する旅に出たまま消息を絶ったそうです。
次は(最終回)、彦根城と長松院に向かいます。
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