三好義継と彼を裏切った若江三人衆(多羅尾綱知、野間康久、池田教正)に少し興味があり、見られる遺構はないとわかっていましたが、一度行ってみたかった城址です。若江公民分館を中心とする地域に築かれていたと伝わっています。説明板、石碑があります。
近鉄奈良線若江岩田駅より1Kmくらいなので徒歩でも行けると思いますが、この日は若江岩田バス停よりバスに乗り若江バス停で降り登城しました。若江バス停からは徒歩5分くらいで行くことができます。
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2023/08/31 21:27
2021/05/09 18:42
若江城/木村重成・山口重信公墓所 (2021/05/09 訪問)
【若江城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>バイク
<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾1城目。先日のGWの郊外の山城ハイキングコースでの密を反省し、非接触のバイク旅を実施しました。
若江城は1382年河内守護となった畠山基国が北朝方の拠点として築城し、守護代の遊佐氏が城代を務めた。戦国末期には三好義継→池田氏と城主が変わり、織田信長軍の猛攻を受けるなどして度々激戦の拠点の城となっている。また足利義昭が信長に京都を追われて入城した城でもある。1583年に大坂城築城に伴い石垣・建物等を持って行き廃城されたとされる。
若江公民分館から小学校にかけてが城域らしく、公民館にある説明板によると1972年の発掘調査で2重の堀、土塁、瓦片が発掘されたとあります。説明板の発掘写真の場所が説明板のある場所という感じがして、瓦片が大量に写っているので若江城の建物は瓦葺きだったことが分かります。現在残る遺構はありません。公民分館から道路を挟んで南側に城跡碑があります。
調べなければ気づかなかったのですが、先達のイオさんの投稿が有難く、近くの木村重成・山口重信墓所にも寄りました。木村重成公墓所は幸第一公園内、山口重信公墓所は川を挟んで北側の墓地内にあります。
<満足度>◆◇◇
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2020/09/29 08:13
若江の戦い (2020/09/13 訪問)
南北朝期に河内守護となった畠山基国が守護所として、また南朝方への備えとして築城し、遊佐氏が代々城主を務めました。その後、畠山政長、義就ら畠山氏の内紛の舞台となり、三好義継が城主の時には京を追われた足利義昭を迎え入れたりしましたが、佐久間信盛に攻められて落城。石山合戦での織田信長の拠点となった後、本願寺との和睦により八尾城に機能を移して廃城となったようです。
若江公民分館あたりが主郭、若江小学校も城域に含まれ、発掘調査により堀や土塁、石垣、井戸、礎石建物が確認されていますが、地表面に見られる遺構はなく、若江公民分館に説明板と石碑(見落としました…)、南側道向かいに石碑が見られるくらいです。
…と、これだけでは見どころに欠けるので、周辺の大坂の陣史跡めぐり(第9回)を。
このあたりは夏の陣の若江の戦いの古戦場で、河内方面から迫る幕府本軍を迎撃すべく木村重成や長宗我部盛親らが出陣、木村隊は若江に布陣し、藤堂高虎隊の先鋒を打ち破るも、続く井伊直孝隊の猛攻を受けて木村重成は討死、木村隊も壊滅しました。
若江公民分館から南に徒歩2分の蓮城寺には木村重成の位牌を安置する霊牌所があり、蓮城寺から南東に徒歩6分の第二寝屋川南側の公園には木村重成の墓があります。また、木村重成の墓の川向かいには木村重成に討ち取られた山口重信の墓があり、近鉄・若江岩田駅南側の商店街の先には、山口重信に討ち取られた飯島三郎右衛門の墓があります(ただし、現地では見つけられず、帰宅してからストリートビューで確認)。かつては近隣に木村重成像もあったようですが、今はなくなっているようです。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 畠山基国 |
築城年 | 永徳2年〔南朝〕/弘和2年〔北朝〕(1382) |
主な城主 | 畠山氏、遊佐氏、三好氏、池田氏 |
遺構 | 土塁跡、井戸跡 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 大阪府東大阪市若江北町 |
問い合わせ先 | 東大阪市立郷土博物館 |
問い合わせ先電話番号 | 072-984-6341 |