(「前書き」からの続きです)
織田信長より安土城にて甲斐の武田勝頼を滅ぼした徳川家康を慰労すべく饗応役を任された光秀は、天正10年(1582年)5月15日からの3日間その役を務めます。そして3日目、もうすぐ無事に終わると思ったその時、魚の臭いに激怒した信長は光秀を折檻し、饗応役を解いてしまいました。そして同じ頃、備中高松で毛利と対峙している秀吉から援軍要請の文が届いたため、信長は光秀に自分の代わりに援軍として向かうよう指示します。この事への逆恨みから謀反の心が芽生えたとういうのが一般的な通説(江戸初期に書かれた「川角太閤記」から)ですが・・・
安土城の近くにある「信長の館」を訪れてきました。当時の安土城の5~6階部分が実寸大で展示されています。それはもう唖然としてしまう程の迫力ある豪華絢爛で見事なものでした😲~(写真⑤⑥)。何と宣教師が書いたという信長の肖像画もありました(写真⑦ 信長ってこんな顔だったの?)。そして何より見たかった、光秀が出したという膳のレプリカが展示されていました(写真①~④)。最高の食材をよく吟味し、そして一流の料理人が作っているので、いくら冷蔵庫がない時代とはいえ、出した魚が臭いなんて事は実際にはありえないと思うのですが・・・・(🤔~しいていえばこの魚かな?)
【補足】建造物自体は著作権で守られているので、写真⑤⑥は他の承認されたHPからの引用とさせて頂きました、御容赦下さい。
【アクセス】安土駅から安土城までの交通機関は全くないですが、駅前にレンタサイクルがあり安く回れて便利でした。オススメです(写真⑧⑨)。
【余談(あくまで私の推測で申し訳ないですが・・・)】
私としては、最後の3日目の最後の膳になって饗応役を解いても何の意味もないと思うので、饗応は3日間とも無事に終ったのではないかと思っています。そして、「明智軍記」によると、光秀は饗応の前にはすでに、「出雲・石見に出陣せよ、そして坂本に代わり切り取り次第、出雲・石見を領地として光秀に与える」、との信長からの命を受けていたので、予定通り饗応が終了したので出陣の準備に入ったのではないかと考えています。武田亡き後、信長の当時の最優先課題は、残る反信長の最大勢力である毛利を何とか屈服あわよくば滅亡させる事であり、秀吉と光秀で東と北から包囲し圧力をかけていく作戦ではなかったかと。「川角太閤記」自体は、後の江戸時代に入り田中吉政の家臣が又聞きやうわさをまとめたものなので信憑性となると? という感じです。
しいて本当に魚が臭いと言ったのであれば、信長の気持ちとしては、光秀が3日間あまりにも完璧な膳を用意し家康から気に入られてしまったので、嫉妬心から「ちょっと最後はいじめてやろう」というぐらいの気持ちと、家康と光秀があまりにも親しくなりすぎたので「今後の為にまずいかも」と思ったのか、魚が臭いなどと言いがかりをつけ、折檻のふりをして二人を試したのかもしれません。光秀も信長の性格は熟知しているので、こんな事でいちいち逆キレして謀反まで計画する程の単純な人物ではないはずです。謀反はむしろもっと大きな理由で決断したと思いますが・・・皆さんはこの辺をどう思われているのでしょうか? (永遠の謎ですね😊)
(第2回「坂本城」へ続きます)
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