日本100名城

あづちじょう

安土城

滋賀県近江八幡市


旧国名 : 近江

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安土城
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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第1回】安土城(信長の館)  (2022/05/07 訪問)

(「前書き」からの続きです)

織田信長より安土城にて甲斐の武田勝頼を滅ぼした徳川家康を慰労すべく饗応役を任された光秀は、天正10年(1582年)5月15日からの3日間その役を務めます。そして3日目、もうすぐ無事に終わると思ったその時、魚の臭いに激怒した信長は光秀を折檻し、饗応役を解いてしまいました。そして同じ頃、備中高松で毛利と対峙している秀吉から援軍要請の文が届いたため、信長は光秀に自分の代わりに援軍として向かうよう指示します。この事への逆恨みから謀反の心が芽生えたとういうのが一般的な通説(江戸初期に書かれた「川角太閤記」から)ですが・・・

安土城の近くにある「信長の館」を訪れてきました。当時の安土城の5~6階部分が実寸大で展示されています。それはもう唖然としてしまう程の迫力ある豪華絢爛で見事なものでした😲~(写真⑤⑥)。何と宣教師が書いたという信長の肖像画もありました(写真⑦ 信長ってこんな顔だったの?)。そして何より見たかった、光秀が出したという膳のレプリカが展示されていました(写真①~④)。最高の食材をよく吟味し、そして一流の料理人が作っているので、いくら冷蔵庫がない時代とはいえ、出した魚が臭いなんて事は実際にはありえないと思うのですが・・・・(🤔~しいていえばこの魚かな?)

【補足】建造物自体は著作権で守られているので、写真⑤⑥は他の承認されたHPからの引用とさせて頂きました、御容赦下さい。
【アクセス】安土駅から安土城までの交通機関は全くないですが、駅前にレンタサイクルがあり安く回れて便利でした。オススメです(写真⑧⑨)。

【余談(あくまで私の推測で申し訳ないですが・・・)】
私としては、最後の3日目の最後の膳になって饗応役を解いても何の意味もないと思うので、饗応は3日間とも無事に終ったのではないかと思っています。そして、「明智軍記」によると、光秀は饗応の前にはすでに、「出雲・石見に出陣せよ、そして坂本に代わり切り取り次第、出雲・石見を領地として光秀に与える」、との信長からの命を受けていたので、予定通り饗応が終了したので出陣の準備に入ったのではないかと考えています。武田亡き後、信長の当時の最優先課題は、残る反信長の最大勢力である毛利を何とか屈服あわよくば滅亡させる事であり、秀吉と光秀で東と北から包囲し圧力をかけていく作戦ではなかったかと。「川角太閤記」自体は、後の江戸時代に入り田中吉政の家臣が又聞きやうわさをまとめたものなので信憑性となると? という感じです。
しいて本当に魚が臭いと言ったのであれば、信長の気持ちとしては、光秀が3日間あまりにも完璧な膳を用意し家康から気に入られてしまったので、嫉妬心から「ちょっと最後はいじめてやろう」というぐらいの気持ちと、家康と光秀があまりにも親しくなりすぎたので「今後の為にまずいかも」と思ったのか、魚が臭いなどと言いがかりをつけ、折檻のふりをして二人を試したのかもしれません。光秀も信長の性格は熟知しているので、こんな事でいちいち逆キレして謀反まで計画する程の単純な人物ではないはずです。謀反はむしろもっと大きな理由で決断したと思いますが・・・皆さんはこの辺をどう思われているのでしょうか? (永遠の謎ですね😊)

(第2回「坂本城」へ続きます)
 

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おっちゃん

安土城案内図 (2015/10/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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カズサン

信長廟から摠見寺 (2010/05/22 訪問)

 続き

 天主跡、本丸の探訪を終り、伝二ノ丸に在る信長御廟所(本能寺後秀吉が信長の御廟所を造り祀る、徳川幕府も摠見寺を通して祀り安土城が破壊される事無く残った)、本丸西虎口、黒金門を経て摠見寺曲輪群へ、仁王門、伝百々橋口道、百々橋門通行不可にて百々橋門手前より麓道より大手道へ戻る。
 今回の探訪が天主跡を訪ねた最終の登城のままと成って居ます。 中々天主跡まで登るのがきつく成って来ました、皆さんの投稿が今後の楽しみです。
 
 長々とご覧いただき有難うございました。

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カズサン

天主跡・伝本丸 (2010/05/22 訪問)

 続き

 整備された大手道、黒金門跡前後の続きです、伝黒金門から伝二ノ丸下帯曲輪へ、本丸西虎口から天主台下を通って伝本丸跡、天主取付台を登り天主台虎口より天主穴蔵に入る、天主の建物礎石が整然と並んでいる、天主穴蔵周囲の石垣に登り穴蔵内部の観察見学、外の眺望も堪能する。
 以前に安土城郭資料館、安土城天主信長の館、各種安土城復元書籍を見学、閲覧して居ましたので天主跡で壮大華麗なる天守閣を想像してみたり、何時登城して天主跡を訪れても感激し心を揺さぶられます。
 木々樹木が茂って居ましたので天主台、本丸の撮影が下側の石垣に成って仕舞いました。

 続きます。

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概要

長篠の戦いに勝利した織田信長が築き、近世城郭の祖型とされている城。五重七階の豪壮な天主を建てたが本能寺の変後に焼失し、天守台礎石群と石垣だけが残っている。桝形になっている二の丸下段の虎口や、大手門から山頂に向かう石段の大手道など、信長のこだわりと工夫が随所に見られる。

城郭情報

城地種類 山城
築城年代 天正4年(1576)
築城者 織田信長
主要城主 織田氏、明智氏
文化財史跡区分 国特別史跡(安土城跡)
近年の主な復元・整備 羽柴秀吉
天守の現況・形態 望楼型[地上6階地下1階/1579年築/焼失(火災)]
主な関連施設 一部の石垣、大手道石段、門跡、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、天守台、石垣、土塁、横堀
住所 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
問い合わせ先 安土城郭資料館
問い合わせ先電話番号 0748-46-5616