豊田館は国道と県道の交差する北東側の丘陵に築かれていました。館跡には江刺市の文化財に指定されている豊田城趾碑があり、
「昔 亘理権太夫(藤原)経清の城であった、経清 平泉の役(厨川柵)で戦死し、其の子権田郎清衡、勤王の勲功があったので奥の六郡の領主としてここに居た。其の当時、北上川は豊田城のあたりを流れていて、浮梁(舟橋)と言う地名が今も残っている(中略・・・)
年を経るに従い土地の人でさえ忘れられるので、この碑を建て、後の世まで伝えるものである。」
といったことが記載されているようです。この碑が立てられたのが安永三年で関わった人物の名も記載されています。
やがて、清衡は藤原姓に戻って、平泉に戻り奥州藤原氏四代の祖となった・・と考えると「おおっ」となりますね。
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