かのどじょう

叶堂城

兵庫県南あわじ市

別名 : 感応堂城
旧国名 : 淡路

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感應寺
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赤い城

城跡には感應寺 (2025/02/08 訪問)

三原川河口近くに位置し、豊臣水軍の拠点となった城です。
城跡には感應寺が建ち、駐車場もあります。
感應寺の石垣は城の石垣を一部残し、積み直して改修されています。
また石碑の石垣部分は穴太衆による積み直しとのこと。
お寺からの見晴らしも良く、水軍の拠点であったことが良く分かりました。
お寺から西の御原橋北詰近くにも石碑が立っていました。
橋の上から感應寺を望むとなんとなく往時の姿を感じることができるかな?

加藤嘉明が伊予に転封された後、秀吉の直轄となり石川紀伊守が入り築城しました。
石川氏は関ヶ原の戦いで西軍につき、敗走後は蜂須賀氏の所領となり廃城となりました。

【見どころ】
 ・穴太衆により積み直された石垣
 ・橋からの遠景

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todo94

城址碑はまたの楽しみに (2023/10/29 訪問)

高松に泊をとっての朝駆けです。感応寺は叶堂城築城によって移転を余儀なくされましたが、廃城によって戻ってくることができたとのことです。小城小次郎さん投稿の城址碑は見逃してしまいました。次回、訪れた時の楽しみに取っておきたいと思います。

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しんちゃん

穴太積のかつての遺構は失われ。残念としか言いようがない。 (2023/08/12 訪問)

叶堂城は南あわじ市松帆の三原川沿いにある、松帆山感応寺が
所在地になっています。
慶長6年(1601)豊臣家直轄の代官石川紀伊守が感応寺を北の松原に移転させ
その跡地に築城を開始しました。
三原川に面した石垣は加藤嘉昭の居城であった志知城の石垣を再利用したものと
されています。資料によると慶長元年(1596)の大地震によって大日川の船の通行が
困難になり志知城に代わる水軍基地として建設されたとあります。
その後、紀伊守は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、廃城となった叶堂城に
感応堂が戻されました。
昭和50年代 三原川の拡幅計画により、感応寺の移転計画が持ち上がりました。
史跡保存と工事との軋轢の中、石垣の移築保存の声もあがりましたが
調査と並行しながら感応寺は川沿いの上流400mへ移築され
石垣は一部の復元にとどまり、記念碑がたてられました。
昭和55年度の調査は4箇所のトレンチを設け行われましたが、現存遺構は石垣のみとの
結論に至りました。昭和58年度の調査では、かつての堀を埋めて
石垣が築かれていることも判明、縄文時代の土器なども出土しています。
近世から近代に手を加えられた箇所も多かったようですが、
川沿いの石積は戦国期の物だったようです。
石の風化が激しく、昭和の移転後も再利用はされなかったのですが
残念としか言いようがありません。

次は移築前の場所も訪れてみたいです。なにか痕跡があるかもしれません。

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織田晃司

現在は (2023/07/22 訪問)

松帆山感応寺となっており石垣が残る。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 石川紀伊守
築城年 文禄4年(1595)
主な城主 石川紀伊守
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 石垣、横堀(空堀)
住所 兵庫県南あわじ市西淡町松帆古津路叶堂