かのどじょう

叶堂城

兵庫県南あわじ市

別名 : 感応堂城
旧国名 : 淡路

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todo94

城址碑はまたの楽しみに (2023/10/29 訪問)

高松に泊をとっての朝駆けです。感応寺は叶堂城築城によって移転を余儀なくされましたが、廃城によって戻ってくることができたとのことです。小城小次郎さん投稿の城址碑は見逃してしまいました。次回、訪れた時の楽しみに取っておきたいと思います。

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しんちゃん

穴太積のかつての遺構は失われ。残念としか言いようがない。 (2023/08/12 訪問)

叶堂城は南あわじ市松帆の三原川沿いにある、松帆山感応寺が
所在地になっています。
慶長6年(1601)豊臣家直轄の代官石川紀伊守が感応寺を北の松原に移転させ
その跡地に築城を開始しました。
三原川に面した石垣は加藤嘉昭の居城であった志知城の石垣を再利用したものと
されています。資料によると慶長元年(1596)の大地震によって大日川の船の通行が
困難になり志知城に代わる水軍基地として建設されたとあります。
その後、紀伊守は関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、廃城となった叶堂城に
感応堂が戻されました。
昭和50年代 三原川の拡幅計画により、感応寺の移転計画が持ち上がりました。
史跡保存と工事との軋轢の中、石垣の移築保存の声もあがりましたが
調査と並行しながら感応寺は川沿いの上流400mへ移築され
石垣は一部の復元にとどまり、記念碑がたてられました。
昭和55年度の調査は4箇所のトレンチを設け行われましたが、現存遺構は石垣のみとの
結論に至りました。昭和58年度の調査では、かつての堀を埋めて
石垣が築かれていることも判明、縄文時代の土器なども出土しています。
近世から近代に手を加えられた箇所も多かったようですが、
川沿いの石積は戦国期の物だったようです。
石の風化が激しく、昭和の移転後も再利用はされなかったのですが
残念としか言いようがありません。

次は移築前の場所も訪れてみたいです。なにか痕跡があるかもしれません。

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織田晃司

現在は (2023/07/22 訪問)

松帆山感応寺となっており石垣が残る。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:叶堂城 (2022/07/21 訪問)

志知城からの転戦です。感応寺駐車場(34.326838、134.736863)に駐車しました。

1595年(文禄4年)志知城主加藤嘉明が伊予国松前に転封になった後、豊臣秀吉の直轄領となり代官として石川紀伊守光之が派遣されました。
その後、1600年(慶長5年)までに志知城は廃城となり、新たに志知城に代わる水軍基地として築城されたそうです。
しかし、間もなく光之は「関ケ原の戦い」で西軍に与して敗れたため、淡路国は阿波国徳島藩主蜂須賀氏の所領となり叶堂城は廃城となっています。
江戸時代には、築城時に北の松原に移されていた感応寺が1621年(元和7年)に再建され、徳島藩主・蜂須賀氏の庇護を受けて、石垣などが改修されました。

石垣と説明石板を確認しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=重清城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 石川紀伊守
築城年 文禄4年(1595)
主な城主 石川紀伊守
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 石垣、横堀(空堀)
住所 兵庫県南あわじ市西淡町松帆古津路叶堂