みやおじょう

宮尾城

広島県廿日市市

別名 : 宮ノ尾城、宮尾ノ城、宮ノ城、要害山城
旧国名 : 安芸

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①棚守屋敷跡
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(棚守屋敷(城びと未登録 広島県廿日市市)) (2026/06/06 訪問)

勝山城(城びと未登録 広島県廿日市市)から徒歩5分くらいで、説明板前(34.294135、132.319703)に着きました。

厳島神社の神職の代表的な氏族の棚守の屋敷跡です。
棚守は佐伯氏の中の一族の野坂氏のことで、棚守というのは本来は「役職名」で、宝蔵を管理する役職の名前です。
神官である佐伯氏を補佐するのが「棚守」です。戦国時代の棚守房顕の時に大内義隆や毛利元就らの御師となり威勢が神主を凌ぎ権力者になったそうです。
毛利元就らが厳島に参拝のときには棚守宿所を利用したそうです。江戸時代にはいって広島藩主らが参拝のときも棚守屋敷に宿泊しているようです。

階段の入口に説明板がありますが、屋敷へ向かう道は閉ざされています。長い石段が遺構なのかな?
隣に上卿屋敷があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の観光先=洞雲寺へ向かう為、宮島港から宮島松大汽船旅客船とJR山陽本線を利用して廿日市駅に向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(勝山城(城びと未登録 広島県廿日市市)) (2026/06/06 訪問)

厳島神社本殿から徒歩10分くらいで、勝山城碑前(34.294395、132.317996)に着きました。

築城年代は定かではないですが、1524年(大永4年)頃に大内義興によって築かれたと云われています。
1555年(天文24年)厳島合戦で毛利方の宮尾城を攻略するために厳島に上陸した陶晴賢は、はじめ勝山城に本陣を構えました。その後、本陣をより宮尾城に近い塔ノ岡へと移しました。
しかし、折からの暴風雨と夜陰に乗じて包ヶ浦に上陸した軍、大鳥居側の海から元就の3男小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し厳島神社周辺で激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅しました。
晴賢は僅かな兵と共に島の西部へ敗走しますが、なすすべなく山中で自刃しました(厳島合戦)。

厳島神社の後ろ側の道を進み、大願寺の向かいに有る細い石段を登ると多宝塔が有ります。その高台の辺りが城址とのこと。
侵入禁止が気になり城址碑の写真を撮り忘れました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=棚守屋敷(城びと未登録 広島県廿日市市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(厳島神社本殿と海上大鳥居) (2026/06/06 訪問)

塔の岡から徒厳島神社本殿入口に向かい、本殿を観光しながら海上大鳥居を見ました。土曜日だったので観光客で一杯でしたが、なるべく観光客がいないアングルで写真を撮りました。

嚴島神社の御本社は、大鳥居の先にあり、広さ約271平方メートルの本殿は日本最大級です。
本殿は毛利元就が1571年(元亀2年)に改築したもので、拝殿や祓殿は1241年(仁治2年)の再建当時のもので、すべて国宝です。
主祭神の市杵島姫命をはじめとする三女神が祀られています。
かつては「嚴島弁財天」とも呼ばれていましたが、明治維新時の神仏分離令により弁財天は大願寺に移されました。

海上大鳥居は平安時代の文化の特色が色濃く残る日本屈指の名社・嚴島神社のシンボル的建造物です。
海面に高さ約16.6m・重さ約60tの、主柱周り約9.9m、棟の長さ約24.2mの木造両部鳥居(四脚鳥居)がそびえ立つ。
現在の大鳥居は1875年(明治8年)に再建されたもので、平安時代から数えて8代目にあたり、建立するにあたっては巨木探しに20年もの歳月を要したと言われています。
奈良の大仏とほぼ同じ高さを誇る鳥居の根元は海底に埋められておらず、松材の杭を打って地盤を強化し自重で立っているのが特徴です。
朱塗りの大鳥居は、「厳島神社」を象徴する建造物で海中に立つ景観はとても有名です。
観光時間は10分くらいでした。次の攻城先=勝山城(城びと未登録 広島県廿日市市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征27日目:宮尾城周辺観光(塔の岡) (2026/06/06 訪問)

御笠浜からすぐの場所にある塔の岡階段(34.296784、132.319762)に着きました。

1555年(天文24年)厳島合戦で毛利方の宮尾城を攻略するために厳島に上陸した陶晴賢は、はじめ勝山城に本陣を構えました。その後、本陣をより宮尾城に近い塔ノ岡へと移しました。
しかし、折からの暴風雨と夜陰に乗じて包ヶ浦に上陸した軍、大鳥居側の海から元就の3男小早川隆景の軍と、宮尾城の兵が呼応し厳島神社周辺で激戦となり、不意を突かれた陶軍は壊滅しました。
晴賢は僅かな兵と共に島の西部へ敗走しますが、なすすべなく山中で自刃しました(厳島合戦)。

塔の岡とは、宮島の厳島神社・五重塔が建っている小高い丘のことを指します。
もとは「宮崎」と呼ばれていましたが、五重塔が建てられてから、「塔の岡」と呼ばれるようになりました。
厳島合戦の際に、大内軍の本陣が置かれた所として有名ですが、それだけではなく、古来より「眼下に厳島神社を望む」重要な場所として五重塔や納経堂などが建てられました。
近世には豊臣秀吉が千畳閣(豊国神社)を建立したところでもあります。

五重塔は工事中でした。
観光時間は10分くらいでした。次の観光先=厳島神社本殿と海上大鳥居に徒歩で向かいました。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 毛利元就
築城年 天文24年(1555)
主な城主 毛利氏、己斐直之
廃城年 不明
遺構 曲輪、石垣、堀切、井戸
指定文化財 国特別史跡・特別名勝(厳島)
再建造物 説明板
住所 広島県廿日市市宮島町厳島要害山
問い合わせ先 広島県教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 082-513-5021