くさじじょう

草路城

京都府京田辺市

別名 : 草内城
旧国名 : 山城

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城跡の咋岡神社
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イオ

突出部のある館城 (2025/02/23 訪問)

築城時期等は不明ながら南山城の国人・草内氏の城館とされ、室町期には興福寺領の政所が置かれていましたが、応仁・文明の乱の終結後もなお続く畠山氏の内紛の舞台となり、山城国一揆でも畠山氏により活用されたと考えられます。

城跡には咋岡神社が鎮座し、鳥居前の空きスペースに駐車させてもらって登城開始。鳥居をくぐってすぐのところに草路城跡の石碑が立てられています。草路城は周囲を水堀で囲んだ方形単郭の城館ですが、西辺に突出部を設けて横矢掛りになっています。突出部から南辺にかけて土塁をめぐらせてはいるものの、高さはないので遠目にはよくわかりません。北辺の横堀は二重になっていて、内側の堀は境内に明瞭に遺っています。

境内をひとめぐりすると、今度は外周を時計回りに一周。北辺には境内で見た二重横堀の外側の堀の名残の水路が東西に走っています。東辺から南辺にも細い水路が続き(たぶん道も堀跡)、南辺の水路越しに境内を覗くと南辺の土塁がよく見えました。外側からは突出部南西隅の土塁もよく見えます。西辺の突出部の周囲では水路の幅が広くなり、往時の水堀に少しは近い感じでしょうか。

境内に遺る土塁や横堀だけでなく、外周を一周すると方形城館の雰囲気が感じられるので(時間が許せば)おすすめです。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:草路城 (2024/10/02 訪問)

同志社前駅から徒歩20分ちょっとで、咋岡神社(くいおかじんじゃ)鳥居前(34.811577、135.786096)に着きました。

草路城の築城年代は定かでないようですが、国人草内氏によって築かれたと考えられているようです。
応仁・文明の乱(1467年-1477年)後も南山城では東西両軍の対立は続き、1482年(文明14年)に東軍の畠山政長が東軍の諸勢を草路城へ集め、西軍の畠山義就に備えたが西軍に攻められ落城しています。
1485年(文明17年)の山城国一揆では東軍の拠点となっています。

草路城は、草内地区の咋岡神社境内一帯の築かれていました。
神社の参道入口脇に神社の案内板がありますが、破れた案内板に草路城の文字が見えます。
遺構は、神社境内の西面と南東角に土塁跡、神社社殿の北側に横堀が残っていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=稲八妻城を目指す為、興戸駅から電車で新祝園駅に向かいました。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城② (2024/10/12 訪問)

JR乗り放題なのに来た道を戻るのが嫌で近鉄線を利用してアプローチしました。咋岡神社がその故地になります。城址碑の向かいの標柱はフィルムがはがれかかっていて、咋岡神社の説明板の文字も半ば消えかかっていました。かすかな土塁と濠跡だという用水路が残りますが、山城国一揆の故地だと思うとありがたみがじわじわとわいてきました。

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しんちゃん

咋岡神社一帯が城址 (2024/04/19 訪問)

咋岡神社周辺が城址となっているようですが、うっすらと土塁が見える以外は、特に遺構を見つけることは出来ませんでした。
応仁の乱の後、畠山氏の跡目争いの舞台になり、文明14年(1482)畠山政長勢のこもる草路城を畠山義就勢が攻撃し、草路城は落城、数十人が切腹させられたとのことです。両畠山氏の争いは山城国の国一揆を招き、両畠山氏は山城国から撤退するも、明応2年(1493)一揆勢力内の対立に乗じて古市澄胤が抵抗する勢力を破って一揆は終結したとのことです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 遊佐氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(水堀)
再建造物 石碑
住所 京都府京田辺市草内宮ノ後
問い合わせ先 京都府教育庁指導部文化財保護課
問い合わせ先電話番号 075-414-5903