JR乗り放題なのに来た道を戻るのが嫌で近鉄線を利用してアプローチしました。咋岡神社がその故地になります。城址碑の向かいの標柱はフィルムがはがれかかっていて、咋岡神社の説明板の文字も半ば消えかかっていました。かすかな土塁と濠跡だという用水路が残りますが、山城国一揆の故地だと思うとありがたみがじわじわとわいてきました。
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2024/10/18 07:13
2024/06/30 00:51
咋岡神社一帯が城址 (2024/04/19 訪問)
咋岡神社周辺が城址となっているようですが、うっすらと土塁が見える以外は、特に遺構を見つけることは出来ませんでした。
応仁の乱の後、畠山氏の跡目争いの舞台になり、文明14年(1482)畠山政長勢のこもる草路城を畠山義就勢が攻撃し、草路城は落城、数十人が切腹させられたとのことです。両畠山氏の争いは山城国の国一揆を招き、両畠山氏は山城国から撤退するも、明応2年(1493)一揆勢力内の対立に乗じて古市澄胤が抵抗する勢力を破って一揆は終結したとのことです。
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2023/07/20 21:00
2023/07/08 18:05
草路城 (2023/06/17 訪問)
【草路城】
<駐車場他>駐車場はなし。咋岡神社に駐車するのは厳しい。
<交通手段>車
<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅1城目。草路城の築城は定かではないが、応仁の乱以前に山城の国人草内氏によって築城されたとされます。応仁の乱前後には東西に分かれた畠山氏の相続争いの城として利用されたようです。
現地は現在咋岡神社になっていて土塁、水堀、広い削平地が残ります。室町時代特有の200m四方の方形居館城だったように感じる。
南へ600m程に穴山梅雪の墓地を発見したのでお参りして次の城跡へ向かいました。墓地は移転してここに納めているそうです。
<満足度>◆◇◇
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分類・構造 | 平城 |
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築城主 | 不明 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 遊佐氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(水堀) |
再建造物 | 石碑 |
住所 | 京都府京田辺市草内宮ノ後 |
問い合わせ先 | 京都府教育庁指導部文化財保護課 |
問い合わせ先電話番号 | 075-414-5903 |