続日本100名城

さがきくによしじょう

佐柿国吉城

福井県三方郡

別名 : 国吉城、佐柿城

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佐柿国吉城
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イオ

腹が減っては戦ができぬ (2018/12/02 訪問)

山麓の居館と山上の詰城からなる中世山城ながら、随所に特徴の異なる石垣が見られ、次第に石の城に改修されていった様子が覗えます。

山麓から本丸までは600メートル、30分弱の行程ですが、急な斜面をつづら折りに一気に登ること、本丸からの眺望を楽しみながら食べようと思っていた昼食のおにぎりを買いそびれ、空腹を抱えての登城だったため、下山した頃には疲労と空腹でふらふらになり、この後行くつもりだった小浜城と後瀬山城はあきらめて退却することに…。さすがは10年にわたり朝倉勢の侵攻を退けた「難攻不落」の城ですね!(ちょっと違う)

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ブラタヌシ

難攻不落の城 (2018/10/21 訪問)

山城攻め❗️何とも景色のよい城跡でした。

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若狭を守護した国境の山城 (2018/09/24 訪問)

北陸への旅の最終日の最後に佐柿国吉城を訪問致しました!
国吉城は、若狭守護武田義統の有力武将である粟屋勝久が、越前との国境に近い三方郡佐柿にあった古城跡を利用して1556年に築いたと云われています!
1570年4月、勝久は、朝倉氏と敵対する織田信長と結んで、織田の軍勢を迎えた!
国吉城は、朝倉攻めの本陣とされ、織田勢は敦賀に攻め寄せたが、浅井氏の裏切りによって撤退を余儀なくされた!
織田信長亡きあと、柴田勝家と豊臣秀吉の対立から、若狭国を治めていた丹羽長秀は、柴田勝家の侵攻に国吉城を改修せよと勝久に命じています!
その後、浅野氏、木下氏、京極氏の城代支配が続き、その後酒井氏がこの地を領して明治維新に至った!
国吉城は、1634年、酒井忠勝が小浜藩主となると廃城とされ、翌年、若狭東部統治の拠点としては佐柿町奉行所が、また領内巡検の休息所としての御茶屋屋敷が城跡の南に新築されました!
伝二ノ丸(出丸)には、喰違虎口があり、本丸には、本丸虎口が有りました!
その他に、ニノ郭、三ノ郭、四ノ郭、五ノ郭、六ノ郭が有りました!
国吉城は、標高およそ197mの城山頂上部を本丸として、北西屋根上にさらに5段の曲輪が連なります!
また、頂上部から西に派生する尾根には、高土塁と喰違虎口をもつ伝二ノ丸があり、南麓に城主居館が広がる!

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todo94

続日本100名城スタンプ9個目 (2018/04/29 訪問)

一乗山城攻略後、大量に水分摂取。そして大汗をかいて電解質が失われ、脚に疲れが出てしまった。それでも本丸だけでなく、連郭式の北西郭群や伝二の丸の出郭にも脚を伸ばした。

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城郭情報

城地種類 山城
築城年代 弘治2年(1556)頃
築城者 粟屋勝久
主要城主 粟屋氏、木村氏、堀尾氏、江口氏、浅野氏、松原氏、多賀氏
文化財史跡区分 町指定史跡
近年の主な復元・整備 城址碑、説明板、遊歩道、一部遺構(石垣)の露出展示など、佐柿町奉行所書院座敷(資料館木造棟)
主な関連施設 若狭国吉城歴史資料館
主な遺構 本丸・伝二ノ丸・連郭群などの山上の曲輪群、山麓城主居館跡、石垣、堀、土塁、虎口
住所 福井県三方郡美浜町佐柿
問い合わせ先 若狭国吉城歴史資料館
問い合わせ先電話番号 0770-32-0050