城びと先達の国重さんのレポートでは、「道が広い華光寺へ一旦行き、そこから徒歩で鬼ノ身城へと」勧められてましたが、軽自動車で行ったことと雨天のため、分かれ道を鬼ノ身城方向へ進入。脱輪の危険にびびりながら、かなりな距離を行き、城の下のUターンできるところまで到着。
一の壇から五の壇は、草刈りされて遺構がよくわかります。説明板には、「一の壇を扇の要にして」とありますが、残念ながら、六の壇以降は笹が生い茂っています。刈るのはかなり手強そう。
麓から車でかなり進みましたが、南の平野から見ると、それほど遠くはなく、辺りで一番高い山に城が構えられているのがわかります。備中兵乱では、三村氏の重要拠点の猿掛城と備中松山城の中間をおさえる位置です。3000騎で毛利軍を迎え撃ちました。
説明板に、「天正2年に謀反を起こしたことにより、毛利の大軍が」とあり、「謀反」はあまりに素っ気ない。毛利が宇喜多と組んだことでやむにやまれず、離反したのに。
+ 続きを読む