きのみじょう

鬼身城

岡山県総社市

別名 : 鬼ノ身城
旧国名 : 備中

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山への進入口
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:鬼身城 (2026/05/25 訪問)

猿掛城から車で40分ちょっとで、山への進入口(34.692475、133.664041)に着きました。
ここから山に入り、登り口付近(34.691046、133.663501)方面に向かう予定でしたが、左足首の痛みの為、登城は厳しいので、ここで断念しました。
ここから戻ろうとしましたが、道が狭く何度も切り返してやっと脱出できました。素直に登り口付近方面に向かい戻ってきた方が良かった気がします。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代の1385年(至徳2年・元中2年)には今川泰範が城主だったようです。
1501年(文亀元年)頃から上田氏が代々在城することとなり、 天正年間には備中・松山城主三村元親の弟実親を養子に迎えていまする。
1575年(天正3年)備中兵乱により三村氏の諸城を落とした毛利氏が鬼見城を囲むとこれに抵抗したが、城主実親は城兵を救う事を条件として自刃しました。
その後、毛利氏は宍戸隆家を城主とし城代として佐々部美作守を置きました。
その後、隆家の嫡子元秀の子元継が城主となりますが、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、毛利氏の防長移封により廃城となりました。

攻城時間は10分(車の切り返しに時間がかかりました)くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストの予定でしたが、鬼身城の登城を途中で取りやめた為、時間があり明日予定の鴨山城へ行くことにしました。
鴨山城の比高は140m。痛い左足でもなんとかなるかもと淡い期待を持って、次の攻城先=鴨山城に向かいました。

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hitoritabi

20240503  (2024/05/03 訪問)

朝鮮風の山城が印象的
GWのためふもとのキャンプ場からのアプローチ道路が狭く大混雑でした

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備中兵乱の堅城 (2021/10/25 訪問)

城びと先達の国重さんのレポートでは、「道が広い華光寺へ一旦行き、そこから徒歩で鬼ノ身城へと」勧められてましたが、軽自動車で行ったことと雨天のため、分かれ道を鬼ノ身城方向へ進入。脱輪の危険にびびりながら、かなりな距離を行き、城の下のUターンできるところまで到着。
一の壇から五の壇は、草刈りされて遺構がよくわかります。説明板には、「一の壇を扇の要にして」とありますが、残念ながら、六の壇以降は笹が生い茂っています。刈るのはかなり手強そう。
麓から車でかなり進みましたが、南の平野から見ると、それほど遠くはなく、辺りで一番高い山に城が構えられているのがわかります。備中兵乱では、三村氏の重要拠点の猿掛城と備中松山城の中間をおさえる位置です。3000騎で毛利軍を迎え撃ちました。
説明板に、「天正2年に謀反を起こしたことにより、毛利の大軍が」とあり、「謀反」はあまりに素っ気ない。毛利が宇喜多と組んだことでやむにやまれず、離反したのに。

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国重

中世の城 (2019/09/08 訪問)

鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことがわかっている。5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していた。天正2年(1574)に謀反を起こしたことで同年11月に毛利方の大群が備中国に出陣してきた。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある出場の防御を固め、鬼ノ身城へも3000騎を配置した。しかし、三村方の諸城はことごとく落城した。【案内板より抜粋】

総社市山田 華光寺を目指していくと途中で道が二股に分かれる。右に行くと鬼ノ身城、左に行くと華光寺の案内板がある。そこから蟻ヶ峠まで小型車ならいけるが、道はとても狭く舗装はされていない。華光寺の方に少し行くと道が広くなり路駐ができる。ここから歩くと片道2.5kmほどある。道は歩きやすい。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 今川氏、上田氏、宍戸氏
廃城年 江戸時代前期
遺構 曲輪、石垣、土塁
指定文化財 市史跡(鬼ノ身城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 岡山県総社市山田
問い合わせ先 総社市教育委員会文化課
問い合わせ先電話番号 0866-92-8363