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しんちゃん

熱海の城跡といえばココ (2024/07/16 訪問)

熱海と言えば熱海城という怪しい「お城」が有名ですが、城びとの城では網代城になります。教安寺に城址碑があり、そこからの眺めもなかなかですが、より高所に江戸時代の石丁場があるので寄って来ました。伊豆半島も僻地の割には見所が多く、もっとゆっくりしたかったのですが、時間の制限もあり全部は見切れていません。でも、なんとか伊豆の城びとの城は回ることが出来ました。
「古城盛衰記」さんによると網代中学校跡の北側に入り口があり、山頂の朝日山公園に曲輪があるとのことですが、認識不足で至っていません。すぐ近くまで寄っていたものの、いささか惜しいことをしたと思います。
「城郭放浪記」さんにも記載があるので参考にするべきでした。
網代城は南北朝の時代に聞間氏によって築かれたのが発端とされ、戦国時代には北条氏家臣とおぼしき岡本善左衛門尉が城主を務めたとされますが、諸説あるようです。岡本善左衛門尉に関しては北条氏規の朱印状に名前が出ており、伊豆多賀郷の代官・百姓に貸し付けた兵糧が返済されずトラブルになっていたようです。「早く取り立てろ」と催促されていたようで、氏規さんもけっこうイライラ来てたのが伝わってきます。

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チェブ

『信松院』の巻き。 (2024/04/20 訪問)

八王子の「横山党館」から車で10分弱。「八王子城」や「滝山城」からなら30分位の場所に『信松院』があります。
八王子市 台町 3-18-28
『信松院』の道路を挟んだ所に駐車場もあります。

武田 信玄さんの娘 松姫が過ごした『信松院』。
こちらに たどり着くまで、大変な道のりを越えて来ました。
松姫と言えば、織田 信長さんの嫡男 信忠さんと婚約したが、破棄になり尼さんになったくらいしか知りませんでした。
写真⑨の本、『疾風に折れぬ花あり』は、武田家の衰退近い「高遠城」から始まります。松姫は、仁科 盛信さん、武田 勝頼さん、小山田 信成さんの娘を託され八王子に逃れて来ました。

『信松院』は青い屋根のかわいらしい御寺さんです。
入口には松姫像。この細いお身体から、前向きに生きる様を教えていただきました。
中にはカフェもあります。松姫が手植した松があったようです。
『信松院』には松姫のお墓があります。
お墓は、松の木が。こちらは手植した松ではなさそうですが、お墓を守っているかのように枝の伸ばしています。

私の他にもお参りしている方がいらっしゃいました。

この八王子市は松姫様を慕い旧武田家の方々が集まってきたそうです。
先人たちの足跡は武将だけではなく、姫たちも戦い紡いで今があるのだと再確認した『信松院』参拝でした。

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しんちゃん

ペリーロード (2024/07/15 訪問)

車中泊で下田まで来たのですが暑かったですね~ ネットの予報では夜25度くらいだったんだけど実際は29度。だいぶ違うねぇ~。5年前のデータでやってるんじゃないの?
下田といえば下田城だけど、ここは母方の実家でもあるので、下田城→ペリーロード→叔父の家と訪問して、ソバいただいて2時間くらいお邪魔して次に向かいました。次はもうちょっとゆっくりさせていただきます。
下田は本当に狭い町ですが見どころはたくさんあります。ペリーやハリスが来航したり、吉田松陰が密航を企てたりと材料には事欠かない上に、ダイナミックな自然や海水浴場があったりします。下田公園に駐車して(無料)ペリーの像を見てからペリーロードに向かいます。澤村邸(無料)からペリーロードを眺め、異国情緒漂う街並みを歩いていきます。このあと叔父の家で何か食べてくつもりだったので、食事等は摂りませんでしたが、おしゃれな喫茶店やレストランがあちこちにあります。
長楽寺にも寄っていきます。日米和親条約や日露和親条約の批書交換が行われた場所で境内は広くはありませんが、風情を感じることはできます。

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しんちゃん

土肥金山 伊豆市土肥 (2024/07/14 訪問)

雨期明け直前、ギリ大丈夫かなと思って伊豆半島を車中泊で回ってきました。予報では夜は25度くらいだからハンディの扇風機回せば大丈夫かな‥と思っていたのですが実際は29度、冗談じゃないですわ。夜中の2時にギブアップしてエンジンかけてエアコンつけてしのぎました。ネットの天気予報は当てにならんぜよ(毎回これ言ってる)南伊豆~西伊豆は暑かった。
土肥金山、正確には土肥金山郷土資料館です。
内容は金鉱跡の洞窟と資料館の二本立てで金鉱跡は結構広いです。中には大山祇神社が祭られ、工 夫達の人形が至る所に配置されています。鉱山では女性も働いていたようで、労働者たちの憩いの場である風呂場にはムフフな人形も置いてあります。中は暑くて皆、裸に近い格好で働いていたというし混浴だったのかな?
史料館にはあの大久保長安の人形もありました。慶長11年(1606)から伊豆の奉行を務め金山の管理もしていたようです。いわゆる「やらかし系」で子孫は悲惨な目にあってますが、それは置いといて、展示物には大判・小判や千両箱など金や金属に関する展示が充実しています。中でも目を引くのがギネスにも登録された重さ250kg、時価33億円の金塊です。いま円がクッソ安いので、もっと価値は上がってるんじゃないですかね。触ることが出来るので、皆さん必ずおさわりしていきます。
嬉しそうな、ちょっぴり寂しそうな、何とも言えない表情が良いですね。なでなでなでなで‥ なでなでなでなで‥

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モト

古代の人の技術力の高さを感じる土塁跡です。 (2024/07/19 訪問)

ただの土塁、されど土塁と改めて感じる場所でした。
古代からこの技術力があるのはすごい。
一見ただの公園にも見える場所ですが我々城好きにはロマンを感じる場所です。

以下は案内文から参照
鎮西山から南に延びる八藤丘陵と二塚山丘陵をふさぐように築かれた土塁である。築成当時は両丘陵を東西につないでいたと思われるが、中央を流れる船石川により分断されている。規模は全体で300m。東側で幅10~15m、高さ1~1.5m。西側で幅34~40m、高さ4~5mである。堤体は種類の違う土を交互に積んで叩き締める「版築技法」が用いられている。この土塁の築造時期については、出土遺物が少ないため断定できないが、版築の技法、周辺の遺跡の状況等から、7~8世紀頃と推定されている。築成目的については、灌漑施設説、防衛施設説、道路跡説、併用説などがある。古代における大規模かつ高度な土木技術を示すものとしても重要である。

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todo94

安房神社に説明板 (2024/07/13 訪問)

鷹尾城をグーグルマップで検索すると筑後川とは別水系の矢部川の近くの鷹尾城主田尻親種墓碑案内板が引っ掛かりましたので、まずはここに向かいました。近くの安房神社もグーグルマップで( )付きで鷹尾城表記がありますので徒歩で向かおうとしたところ、雨が落ちてきてしまいました。結構強めの雨になってしまったので仕方なく車で向かい、車中から説明板を撮影しました。

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you

いにしへも 今も変はらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉 (2023/11/22 訪問)

2本目です。ぼちぼち投稿していきます。

別名の舞鶴(ぶかく)城が現在の地名の由来になったとか。
古今和歌集の伝承者 細川藤孝(幽斎)50余日の籠城の舞台となった丹後田辺城。
JR西舞鶴駅から徒歩約5分。現在、主郭部分は舞鶴公園として整備されています。
公園の西側に、城跡の入口と言わんばかりに櫓門が建っており、2階部分が資料館になっています。
櫓門を抜けて左側に見える二重櫓が彰古館で、この城の代表的景観です(私的に)。
現存する天守台の石垣は本丸の石垣よりも高さがないので、説明板を見るまで気づきませんでした。
発掘調査によれば、天守台の周囲には水堀が巡らされていたらしいのですが、その面影はあまり感じられません。

本投稿のタイトルにもなっている幽斎の歌は、彼が古今伝授を証明する書物に添えたものといわれていますが、とても気に入っています。
短歌って、聞きなじみのない難しい古語が平然と並んでいるのでどうしても距離を置いてしまうのですが、この歌は平易な言葉遣いゆえの妙な語呂のよさがあって、スッと耳に入ってきますね。

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しんちゃん

アノお城‥ (2024/07/16 訪問)

大きな声では言えませんが熱海城の投稿です。城じゃないぞって? はい城じゃないですね。正確には城郭風の鉄筋コンクリート製の建造物です。海抜100mの地点に築かれ、見晴らしは非常に良さそうですが(曇ってた)、ここに城郭があったという記録は見当たりません。
駐車場料金は500円、入場料は1200円と結構値が張りますが、親子連れなどでなかなか賑わっています。私はスルーしましたが、近くには熱海秘宝館もあります。刀剣や鎧の展示の他、城郭の絵や春画の展示が豊富です(写真OK)。地下一階には無料のゲームセンターがあって、ここで元を取ることが出来ます。時間の制約が無かったらあと三時間ぐらい居たかった‥。
熱海城はゴジラに完膚なきまでに破壊された数少ない「城」と名のつく建造物で、他には名古屋城や大阪城がブッ壊されています。ゴジラも案外わきまえていて、現存天守などは破壊してないんですね。松本城もキングギドラに表層を吹き飛ばされただけで済んでいます。別にエレベータのついてる鉄筋コンクリートだから破壊していいってわけじゃないんですけどね。

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カズサン

【近江 柏原御殿】滋賀県米原市 柏原御茶屋御殿 (2024/06/24 訪問)

 滋賀県に4ヶ所ある徳川将軍家御茶屋御殿の一つ柏原御殿を1泊2日滋賀県近江未踏の城探訪の最終に訪ね4ヶ所の御茶屋御殿跡探訪完了する事が出来ました。

 住所:滋賀県米原市柏原2137
 駐車場:柏原宿観光駐車場(米原市柏原831辺り)、余裕の駐車スペース、トイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る

 当地は国道21号線から北に1本道に入った旧中山道柏原宿に当たる。
 観光駐車場から旧中山道に出ると、街並み家並みは往時の風情豊かに落ち着いている、道は融雪装置付きと砂利道風浸透性にある舗装路で街並みに合っている、伝統的建物群を観ながら約西に約350m程で柏原御茶屋御殿跡の小公園があります、石碑と解説板と樹木が植栽されて御茶屋跡を偲ばせている。
 更に西に約200m行くと柏原宿一里塚跡が在ります、黒塀、黒基調の建物が風情あり、郷宿、柏原銀行跡、柏原宿歴史資料館、旧造り酒屋などの建物で、江戸の町に紛れ込んだ様です。
 
 解説板によると
 江戸時代の初め、将軍上洛下向の際の宿泊・休息の目的で、街道の各所に設けられた館で、天正18年(1588年)徳川家康が上洛の際、当地の西村家で休息。以後、中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繫に成った為、元和9年(1623年)二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後御殿番を置いて守備してきた。
 その後、徳川幕府の勢力増大につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689年)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。
 

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ぴーかる

大草城 (2024/05/25 訪問)

【大草城】
<駐車場他>福厳寺駐車場に駐車し参詣してから徒歩で白山神社(大草城跡)に行きました。
<交通手段>車

<見所>土塁・曲輪
<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾5城目。現地説明板によると大草城は文安年間(1444~1449年)に西尾式部道永によって築城されました。道永は三河西尾の出身といわれ、その後岩倉織田氏に仕えました。織田氏の家督争いから1548年頃この地を離れて廃城となったようです。西側の白山神社入口からすぐに竹林の曲輪跡がみられます。平山城というより丘城で南側に対してはやや比高があるが、残り3方は緩やかに高くなっています。最頂部の城跡碑・祠から東西に土塁が伸びています。南と西方向の竹林にひな壇状の曲輪が降りていっています。筍採取の為に土地整備されているかも分かりませんが、曲輪段がはっきりしています。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

登りは急! ゴム手袋を用意して行った方が良い (2024/02/11 訪問)

水茎岡山城は標高188mの岡山(大山)の頂部に築かれ尾根上に東西に遺構が残っています。南側にも遺構が有るようですが、状態が良くないので山頂の遺構を散策するのにとどめています。
北東に位置する水道施設に向かう急な階段を上っていくと途中から更に道が悪くなります。急な登り坂をトラロープを頼りに登って行くのでゴム手袋を用意しておかないと手のひらにダメージを受けてしまいます。城址は荒れ放題で正直、ここは城びとしか来てないんじゃないかと思います。上まで登りきって尾根上を西に移動して行くと、ほどなくして、かなり大きな堀切が見えてきます。その先にも曲輪があり南側には腰曲輪が配されています。さらにその先の堀切まで行き、この日は引き返しました。この周辺が主郭か二郭だと思います。
水茎岡山城は南北朝時代に佐々木氏によって築かれたとされ、永正5年(1508)室町幕府の11代将軍・足利義澄が六角氏被官の城主・九里信隆を頼って城に入った頃に本格的な築城が成されたとされています。また、当城で後の12代将軍・足利義晴が誕生したとされ、同年に足利義澄が帰洛を果たせぬまま、ここで亡くなったとされています。

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しんちゃん

アディオス八王子城。そして謎のオヤジ。 (2024/01/28 訪問)

八王子城投稿 5回目にしてようやく御主殿に到達です。普通最初に来るところですが、今回の訪問では山上の遺構を優先しました。いろいろありました、本丸行って、整備道通ったら西の曲輪いったり、謎のオヤジと遭遇したり‥。
ここ御主殿には「主殿」「会所」とされる大型の建物の礎石が検出され、主殿は北条氏照の居館跡であったとされています。他にも敷石通路や庭園跡の遺構が発掘されており、盛土を60cm施した後、忠実に再現がされています。ひとしきり訪問を終え、疲労感と満足感に浸ります。きっちり3時間半はかかりましたが、それだけの甲斐は有りました。帰り道にはさっきのオヤジがいなくなっています。ノルマを果たしたから帰ったのかな?
ひょっとしたら、この八王子城に住まう妖精だったのかもしれません。あなたも運が良ければ謎のオヤジに会えるかもしれませんよ。運がいいのか悪いのか知らんけど。

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todo94

クリークの城 (2024/07/13 訪問)

蒲池城からの転戦です。戒音寺辺りが城跡とのことで戒音寺周りにはクリークが巡っていました。近くの皿垣小学校は2024年度をもって閉校となるようです。

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シャンシャン

さんじゅーろー人形GET‼ (2024/07/13 訪問)

新発売となったさんじゅーろー人形をあしあと館でGET‼
本物との記念写真も撮影(^^♪
人出もそこまで多くなく、さんじゅーろーとたくさん触れ合うことができた。

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カズサン

金森御坊辺りが城跡 (2024/06/23 訪問)

 金ヶ森城は金森御坊辺りが旧跡のようで雨が降り止んだりの中、グーグルマップ片手に訪ねました。

 駐車場:特に無し、金森霊園と中央公園の間の幅広道に路駐(35°03'21"N 135°58'46"E h=100m)
 参考資料:城びと、グーグルマップに依る。

 グーグルマップに依ると金ヶ森城跡の史跡マークは、中央公園北東角と善立寺南、城びと金森御坊の三ヶ所記されて居り、路駐の金森霊園より北へ、中央公園北東角を訪ねるが何もなし、北進し水路か堀か?を渡り西に曲がり善立寺南を訪ねるが徳香流遠石碑が在るのみ、善立寺には蓮如上人像、蓮如上人旧跡石碑、金森道西坊碑が立っている、金森御坊は閉まって参拝見学出来ず、御坊の屋敷周囲をぐるーと廻る。金ヶ森城の遺構は良く分からず。皆さん投稿の「金森御坊と中世の歴史遺産」立看板は見てけられませんでした。

 守山地域は蓮如上人の足跡も有り浄土真宗のご門徒の篤い信仰の地で湖西の堅田ともども名をはせています、ネットの情報では寺内町のはしり、比叡山との合戦、一揆でも知られ、信長との戦いも有った様です、信長に仕えてた、金森長近が若き日に金森で過ごしたようです。
 

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しんちゃん

織田信長により築城(らしい) (2024/02/11 訪問)

多喜山城は比高120mほどの日向山の山頂に築かれています。東海道の南に位置し、元亀2年(1571)以降に栗太郡一帯を支配する目的で織田信長により築城されたとされています。主郭の周辺に郭が配されただけの小規模な城ですが、北側と西側に土塁が残っています。
虎口は南と東についており、北東には穴蔵と呼ばれる周囲を土塁で囲まれた小さな郭がありました。

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雑賀衆の城 (2024/07/18 訪問)

 雑賀衆の城でしたが、遺構はありません。標柱と説明板がありました。

和歌山市駅よりバスに乗り市民体育館前バス停下車。バス停から徒歩約5分で行くことができます。

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粉河寺 (2024/07/18 訪問)

 紀州で根来寺とともに大勢力であった粉河寺が防御強化のため1573年に築いた城と伝わっています。豊臣秀吉による紀州征伐の後、藤堂高虎が入城しました。高虎が宇和島に移封された後、廃城となっています。現在は秋葉公園として整備されています。曲輪の地形が何となくわかりますが、どこまでが当時の地形かはわかりません。石碑と石に彫られた説明板がありました。
 城址を下ると粉河寺に行くことができます。粉河寺の北東の矢倉山も要塞化されて堀切や土塁が残っているとの情報がありましたが、今回は行っていません。

 JR粉河駅より徒歩15分くらいで猿岡山城の登り口に行くことができます。
昼飯に「まる乕 本店」さんで天然鮎寿司をいただきました。

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ぴーかる

上末城 (2024/05/25 訪問)

【上末城】
<駐車場他>駐車場はなし。ファミリーマート小牧上末店に買い物して駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾4城目。現地説明板によると、上末城の築城は文明年間(1469~1487年)に落合勝正によって築かれました。子の安親は織田氏に仕えました。小牧長久手の合戦では池田恒興の三河中入り作戦の道案内をしたそうです。
 現地には竹藪の中に土塁が一部残されていて、国道155号線に向けて藪の中に城跡碑と説明板があります。西に面しては少し高台になっていて東に向かって緩やかに登っていっています。主郭跡と思われる陶昌院には行きませんでしたが、落合氏の墓碑があるようです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

草津宿本陣 (2024/02/11 訪問)

滋賀県草津市にある国指定史跡・草津宿本陣は寛永12年(1635)に始まった参勤交代制度のために草津宿に設置された休憩施設です。現在残っている建物は弘化3年(1845)~文久3年(1863)ごろの旧状を良く残す遺構であるとされています。
現存する宿帳には浅野内匠頭、吉良上野介、シーボルト、皇女和宮や徳川慶喜らが宿泊した記載が残されています。全国でも珍しい、その姿を良く留めている本陣遺構です。

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