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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:佐治城 (2024/10/08 訪問)

小佐治公民館バス停から徒歩15分くらいで、秋葉神社鳥居前(34.940719、136.216474)に着きしました。南側に枡形池と説明板があります。

1062年(康平5年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったようです。
永禄11年(1568年)に六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、1571年(元亀2年)には14,000石を領したようです。
しかし1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受けます。
更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡したそうです。

堀跡といわれる桝形池や堀、土橋、虎口などがありましたが、どこまでが遺構なのかはわかりません。
バスの時間が迫っているので、攻城時間は10分くらいで撤退しました。
次の攻城先=仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町)を目指す為、和野バス停から甲賀コミュニティバスで平町バス停に向かい、そこから徒歩で水口石橋駅に向かい、近江鉄道➡近江鉄道湖国バスを乗り継いで日野川ダム口バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:土山城 (2024/10/08 訪問)

近江土山バスから徒歩5分ちょっとで、城址碑前(34.938892、136.286686)に着きました。城址碑の左の通路より攻城、奥に説明板が見えます。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に土山盛忠によって築かれたと云われています。
土山氏は音羽野城主・頓宮四方介利盛の二男、土山鹿之助盛忠を祖とする甲賀の名門でした。
土山左近太夫盛綱が城主の1582年(天正10年)、織田信長の家臣である滝川一益によって攻められ落城しました。
その後、「小牧・長久手の戦い」の際に羽柴秀吉がこの城を改修して在城したという説もあります。

城址には土塁や堀切、虎口などの遺構が良好な状態で残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=佐治城を目指す為、近江土山バス停から甲賀コミュニティバスで小佐治公民館バス停に向かいました。

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トク

紫式部邸=廬山寺(紫式部ゆかりの地を訪ねて①) (2024/11/10 訪問)

大河ドラマ「光る君へ」も終盤に入ってきたので、紫式部ゆかりの地を訪ねてきました。しばらく5回くらいのシリーズでお伝えしようと思います。お城の話題から外れて申し訳ありませんが、癒し旅に少しでもなれればと思います。よろしくお願いします。

まず最初に、紫式部邸(まひろの家)を訪れました。現在は「廬山寺(ろざんじ)」というお寺になっていました(写真①②③④)。まひろはここで生まれ育ちます。父の藤原為時が漢詩の師であったため、幼い頃から漢詩を憶え教養を身につけます。弟の惟規(のぶのり)は憶えが悪かったため「そなたが男であったらのう・・」と父は嘆いていたとか。しかし父には官職がなく貧しい暮らしが続いていたようです。この廬山寺の庭を眺めていると、数々のそのドラマのシーンが浮かんできました(写真⑤)。

まひろが26才になった時、父には越前守の官職が与えられ、まひろは20才以上も年上の「藤原宜孝」と結婚します。当時の貴族は一夫多妻制で、身分の低いまひろは妾(めかけ=正妻ではない)となり、この家で暮らし続けます。よって通い婚だったようです。そして1年後には娘「賢子(かたこ)」が生まれます。しかしその幸せもつかの間、2年後に宣孝は病で亡くなり、シングルマザーとなったまひろは、また貧しい生活に逆戻り。当時は貴族の女性が働く事は許されず、家にいて子供を育てるのが当たり前だったので、働きたいがままならない。どうしようもないまひろは気を紛らわすため、石山詣に出かけました。

まひろの家のすぐ目の前には、土御門第邸(つちみかどてい=藤原道長の屋敷)がありました(写真⑤⑥)。意外とご近所さんだったんですね! と思いきや中間には土塀と清和院御門があり(写真⑦)、塀の向こうとこちらでボールを投げれば届きそうなくらいの距離に住んでいるのに簡単には行き来できない、身分の違いを感じさせられる場所でした。

鎌倉時代に入ると、この邸宅は「廬山寺」となります。その後、明智光秀が比叡山延暦寺を焼き払った時に、この廬山寺も焼き払おうとしますが、正親町天皇から止められ、そこで光秀は自ら持っていた守り神の「念持仏」を奉納したそうです。寺院内には、その仏像が今でも残っており、今回の特別公開で運よく見る事ができました(撮影不可)。

では次は、まひろが詣でた「石山寺」へ向かいます。
 

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todo94

日帰り羽越ドライブでの攻城⑦ (2024/10/20 訪問)

大川城からの転戦です。今回の目的は城カードのゲットでしたが、しっかり天守台まで登ってきました。三の丸は工事中で立入禁止となっていました。中世の土の城の部分も土砂災害を受けていて立ち入ることができません。石垣で固められた本丸を楽しめただけで良しとします。続100名城のスタンプを過去に2回捺印した際には入館しなかったおしゃぎり会館に初めて入館しました。祭りにはさほど興味はないのですが、2階に城の展示があったので入館は正解でした。村上城の前に訪れた大川城の掲示もありましたので。窓から村上城の遠景も楽しむことができました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:大河原氏城 (2024/10/08 訪問)

高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)から徒歩10分ちょっとで、民家左手登り口(34.958821、136.336297)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、長享年間(1487年〜1489年)に大河原源太によって築かれたと云われています。
大河原家・黒川家ともに、近江守護職六角氏(観音寺城主)との繋がりは深く長享・明応の乱(1487~1501)に戦功をたてました。
六角氏が9代将軍足利義尚に攻められた長享の乱 「鈎の陣の戦い」に参戦しての勲功により感状を与えられた甲賀二十一家の一で両家ともに「地域連合惣」の北山九家の一です。
大河原源太が鮎川を、 黒川久内が黒川・黒滝の地を領有し以後代々子孫が世襲していますが、六角氏が衰退により甲賀五十三家も弱体化していく中、1585年(天正13年)羽柴秀吉によって解体されて共に滅びました。

時間ロス(バス到着遅延&黒川氏城での迷子時間)と高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)で転んでカッパ/ズボン/靴が泥だらけ状態。
このままの状態では、バスにも電車にも乗れないので鮎河口バス停で着替えました。
上記より、大河原氏城攻城の時間がなくなり、遠景の写真を撮って攻城としました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=土山城を目指す為、鮎河口バス停から甲賀コミュニティバスで近江土山バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/10/08 訪問)

鮎河城案内板付近から徒歩5分弱で、鷹尾山地蔵堂墓地横登り口(34.959527、136.343205)に着きました。

現地案内板よると、建武年間(1334年~1338年)頓宮弥九郎が築城したとされますが、戦国期に黒川氏が改修したと考えられます。

地蔵堂左手背後、墓地の裏手に入口があります。 
高尾城の案内標識はありますが、急斜面のけもの道で雨が降って滑りまくりました。
案の定、転んで滑り落ちた為、途中で断念して引き返しました。
カッパ/ズボン/靴が泥だらけです。このままではバスにも電車にも乗れません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=大河原氏城へは徒歩で向かいましたが、攻城は諦めるしかありません。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:鮎河(館)城&鮎河城山上の城 (2024/10/08 訪問)

黒川氏城から徒歩10分くらいで、鮎河城山上の城民家横登り口(34.957096、136.342925)に着きました。
ここから、正等院跡まで路はありますが、先は看板はあるが踏み跡がないようですが、バス遅延及び黒川氏城での迷子時間を取り戻す為、鮎河城山上の城は登城を諦めて、鮎河城(館)阯に向かいました。

現地案内板によると、南北朝期に南朝に属した頓宮弥九郎(鮎河弥九郎)が南朝の拠点とした城のようです。
1338年(建武5年)頓宮弥九郎は兵を挙げ鮎河城に立て篭もりましたが、北朝方の佐々木秀綱に属した山中橘六、小佐治右衛門、美濃部兵衛三郎らの軍に攻められ落城しました。

北側山上に高尾城、東側山上に鮎河城と説明があります。
ちなみに、鮎河城案内板はこの付近(34.958716、136.343356)にあります。

鮎河(館)城
 城跡は田んぼになっていますが、城址碑の立つ付近が虎口ように見えます。ただ、現在、この地は伝承地とされているようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高尾城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:黒川氏城 (2024/10/08 訪問)

貴生川駅バス停から鮎河口バス停に向かうバスの中で、「甲賀コミュニティバス一日フリー乗車券」を購入しました。今日はこの乗車券で交通費を浮かせます。
鮎河口バス停から徒歩5分ちょっとのウグイ川公園駐車場入口(34.955353、136.338925)から、ガソリンスタンド背後を進むとのフェンス扉に着きました。

黒川氏城は甲賀の有力国人である黒川玄蕃佐が築いた城と伝えられています。
黒川氏は六角氏に従っていましたが、六角氏が織田信長に敗れて近江を追われるとその後は信長に仕えています。
しかし1585年(天正13年)秀吉に命じられた紀伊川堤防修築工事失策の責任を問われて領地没収、廃城となりました。

鮎河口バス停に15分遅れで到着しました。
雨が降りはじめた為、カッパ装着で攻城開始です。現在城址は山林となっています。
本丸跡周辺には石垣や屋敷の跡などが残っており、屋敷跡から主郭まで見どころいっぱい(自分は堀切が好物なので満足しました)の城跡でした。
下山時、道に迷ってしまいかなり時間のロスをしました(来た道を戻るだけなのに迷子になるとは、方向音痴の自分がなさけない)。
時間のリカバリの為、次の鮎河城山上の城は登城を諦め、鮎河城(館)の確認だけにします。
攻城時間は60分(迷子の時間を含みます)くらいでした。次の攻城先=鮎河城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:山田城 (2024/10/08 訪問)

今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
宿泊先のホテルから徒歩40分ちょっとで、草津市立武道館付近(35.024261、135.931559)に着きました。

山田城は、鎌倉時代から室町時代にかけて、この地を支配した山田氏が住んだ城館です。
山田氏は、志那・矢橋とともに当時の良港であった山田港を押さえるためこの地に城を構えたといわれています。

山田城は現在の市立武道館の辺りに築かれていたそうです。現在、遺構はありませんが武道館の表門の所に案内板が設置されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=黒川氏城を目指す為、山田バス停から近江鉄道湖国バス➡JR➡甲賀コミュニティバスを乗り継いで鮎河口バス停に向かいました。

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しんちゃん

続・野口城 (2024/10/14 訪問)

向小島城の代替・野口城の続きです。向小島城の投稿なのに、なんで野口城が続いているのか? と思われるかもしれません。
ごもっともです。答えは近くにある良い山城だからです。行ってみたかったんですよ。
南側が旧登城道になりますが、ここはお勧めできません。北に新しい道が付いているので、訪問される方はここから登ってください。この城は訪れて損は無いと思います。主要部と思われる曲輪が三つあります。まず最初に訪問する南西の曲輪。
そして尾根沿いに続く北の曲輪と南東の曲輪です。尾根上に逆Vの字に城域が展開し、ある意味一城三郭の様相を呈しています。
南西の曲輪は急峻な切岸に守られ(ここを直登、直下するはめに)、北と南東の曲輪は尾根上を堀切で幾重にも遮断し斜面を畝状の空堀で防御しています。それほど手入れもされず、雑草が生い茂っていますが遺構はしっかりと残っています。

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しんちゃん

関ヶ原古戦場記念館 小早川秀秋 (2024/10/19 訪問)

菩提山城に行ったついでに関ヶ原古戦場記念館にも寄って来ました。小和田教授がネットで推薦していた本を購入するのが目的の一つです。私にはちょっと物足りないですが、いろいろと面白い情報も載っています。
私は、いずれ小早川秀秋に対する評価が変わるのでは‥?と思っています。日本には江戸時代から続く、若者を侮る「悪い文化」がありますが、秀秋のことは豊臣秀吉も徳川家康も警戒していたと思います。何といっても高台院(ねねさん)の血のつながった実の甥ですからね。
ねねさんを慕う強力な武将は何人かいて、彼らを仮に木下派(高台院派)と呼称すれば、秀秋は木下派のプリンスになるわけです。秀頼が秀吉と血が繋がっていないとしたら、秀秋は将来秀頼に対する脅威になる可能性もあったと思います。
関ヶ原合戦の前でも秀明、福島正則、加藤清正ら木下派の武将たちは十分侮れない勢力であったけど、合戦後は合わせて150万石ほどの強大な勢力になりました。彼らと豊臣恩顧の武将らの仲の良さを考えれば、その中心となる可能性のある秀秋は徳川幕府に対して脅威と感じられた可能性があります。私は秀秋の死に不穏なものを感じています。
関ヶ原の合戦に関する研究では、私は白峰氏の研究が抜きんでていると思います。小和田教授も間接的にではありますが、大谷吉継の陣の背後に宇喜田秀家の陣が有ったことは認めています(地方紙研究411)。実際に曲輪や四条の堀切もありましたね。
木下派の武将たちとの関係性から秀秋が最初から東軍側で有ったことは想定でき、西軍の実質的大将である宇喜田秀家の陣の眼前に陣を張った秀秋の豪胆さは、これまでの評価を覆すのに値するのではないでしょうか。

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ぴーかる

中尾城の支城 (2024/11/03 訪問)

【大山出城】
<駐車場他>次の中尾城で記載します。

<見所>虎口跡・土塁・主郭
<感想>城びと未登録の大山出城は1549年頃に足利義晴・義藤(のちの義輝)父子によって築城されたとされます。中尾城の北西部に位置しており、中尾城の出城として造られたとされるので中尾城での投稿とさせていただきます。
 中尾城から北西部に向かって降り下るルートがありますので、そこから来ました。城跡の曲輪は大きく2段構造になっていて、南側は山のピークで緩傾斜を広く取った曲輪、北側は大きく下がってダイナミックな削平地があります。北端に土塁があります。南のピークと北の下段の切岸を凄く削った感じがあります。また曲輪の北西端に石積み跡の虎口のような跡があります。尾根以外の周囲は崖になっています。中尾城をも含めて1番広い曲輪なので城に入る時、ここに居館(仮の御所)があったかとも考えられます。合戦籠城となった時に上方の中尾城に入るという感じ。でも電気通ってないのにTVアンテナが3つ程捨てられていた(不法投棄?民家があった?)のが気になりました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

尾根を断つ堀切と土橋 (2024/10/19 訪問)

小島城はそれほど技巧的な構造では無く、斜面に無数の腰曲輪が続いています。最高所とそこから三段ほど続く腰曲輪が主要部になるようです。構造的には長野県の林大城に似てますね。最高所を本曲輪と仮定して、本曲輪の背後に大きな堀切があり尾根を遮断し、土橋がかかっています。この土橋の存在感が素晴らしく、残存石垣と並んで、当城の見どころだと思います。
下三段目の腰曲輪の西下には石垣が残っています。各所に石が散乱しているので、戦国期にも利用されていたのではないでしょうか。
土岐康行が足利義満に滅ぼされたのが明徳元年(1390)の頃らしいので、遺構との関連が興味深いです。曲輪の配置などは記憶が薄れかかって来たので「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張り図を参考にしています。いつも感謝しています。
城址中腹から下まで大きな竪堀が切られていて、登城道にもかかっているようです。

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しんちゃん

芭蕉句碑 (2024/10/19 訪問)

菩提山城の投稿ラストです。本曲輪は堀切で仕切られ南は二の曲輪になります。西の虎口から台所曲輪(調査のため立入禁止)に至り、台所曲輪の南は三の曲輪に続いています。台所曲輪の東の道から西の曲輪に北上し、北側の遺構まで確認しています。
竪堀や空堀もいくつか見られ、遺構も充実しています。また比較的大規模な城址ながら、曲輪がコンパクトに配されていて散策もしやすいです。今回は三の丸の写真は割愛しています。麓の芭蕉句碑も省略の予定でしたが、一枚省いて載せました。
此の山の 悲しさ告げよ ところほり  はせを翁(芭蕉)
と刻まれています。元禄4年ごろの大凶作の際に、人々がところ芋を掘ってしのいでいる姿を詠んでいるようです。各地を歩いて旅していた芭蕉翁は困窮する人々の生活を身近に感じていたようです。

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chiroru

もう一度は行かないと (2024/11/08 訪問)

東京から京成本線に乗り、大佐倉駅で下車。「えっ(・_・;)どこ?どっち?」となり駅の地図看板みて冷静に頭の中に入れてきた
進路おもいだしながら、線路の側道を歩きながら直進していくと、もしかしてあれかな?とちょっと安心と嬉しさが。
10分ほどで東山虎口に到着です。

東山虎口入った通路は、人が一人通れるくらいの幅で土塁もいい。東山に登る(階段が足元少し不安定)。
空気気持ちよくて見晴らし良かったです。
京成本線と遠くには順天堂大学が見えるし、空気が澄んでくる冬には男体山も見えるんだよーって案内所の方が教えてくれました。

なんとなく順路に沿うようにして進んで、大堀切に向かう通路はここも狭いし急です。いろいろ考えて当時はつくられていたんだろうな
と思えます。案内の看板が要所ごとにあるので助かります。

各郭を満遍なく見学はできなかったけれど、大堀切の狭いとこ抜けて東山馬場まで降りて案内所で続100名城のスタンプ。

帰りはJR酒々井駅から乗車したかったのでタクシー呼んで、待っている間に案内所の方が「ここは、そのまんま残っているから
すごいところななんだよ、またゆっくり来てね、早い時間に来てもらえるとガイドさんと歩いて怖い思いもしなくていいし、詳しく
教えてもらえるよ!」って。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:荒神山城 (2024/10/07 訪問)

山崎山城から徒歩10分くらいで、荒神山神社遥拝殿(35.231152、136.204720)に着き、そこから徒歩30分かけ本坂コースを登り、荒神山神社(35.233407、136.197419)に着きました。

築城年代は不明のようですが、観音寺城主六角氏の重臣日夏氏累代の居城で、日夏安芸守が荒神山上に城を築いたそうです。(日夏氏は、六角氏の庶流)
山頂にある荒神山神社は、城との関係は定かではないようですが、由緒書きによれば、1864年(慶応4年)神仏混淆を廃止となるまでは、お寺と神社が同居していたそうです。
荒神山神社は、明治維新までは奥山寺といい、宗派は天台宗で織田信長によって比叡山が焼き討ちされたのと前後して奥山寺も焼き払われたそうです。
神社が城域であったならば、信長の近江侵攻までには廃城になっていたそうです。
関ヶ原合戦後、井伊氏が近江に封ぜられた際に、佐和山・磯山とともに新たな築城の候補となったとされますが、最終的には金亀山(彦根城)に築城されました。

本坂コースの登りは短いですが70歳手前の自分には、かなりきつかったです。
荒神山神社周辺に、曲輪らしき削平地と石垣を確認しました。下山途中に雨が降りはじめました。
攻城時間は65分くらいでした。(内訳は本坂コースの登り30分、下り25分、見学10分)
次の攻城先=永原城を目指す為、河瀬駅へ向かう途中、荒神山城下山途中に降りだした雨が強雨に代わり風も吹き始めました。
途中、傘からカッパに切り替えましたが、時すでに遅く、上から下までびっしょり濡れてしまいました。
河瀬駅で服を着替え、本日この後の攻城予定=永原城/桜生城/星ヶ崎城の攻城を断念し、本日の城巡りは、ここをラストにしました。
(上記3城はホテルに帰り、予定を組み直して10/9(水)に攻城することにしました)
本日の宿泊先に向かう前に、八日市駅でコインロッカーより荷物を取り出し、本日の宿泊先の滋賀県の草津駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=32248歩、攻城距離=22.57Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:山崎山城 (2024/10/07 訪問)

肥田城から徒歩30分くらいで、山崎山城址無料駐車場&登城口(35.226116、136.204920)に着きました。

築城者は誰なのかは不明のようですが、近江守護の佐々木六角氏配下の在地領主で、1568年(永禄11年)から始まった織田信長の近江侵攻に伴い信長に従った山崎氏が、信長の命により築いたと考えられているようです。
平成6年度に彦根市教育委員会が行った発掘調査により、小規模ながらも石垣を設けた城であったことが分かりました。
この石垣は、安土城の石垣に類似していることから、築城時期は安土城が築かれた天正年間(1573~1592)の初期頃と推定されています。
なお、山崎氏は、豊臣秀吉の時代には摂津の三田(現在の兵庫県三田市)に移封されており、この時期に廃城となったものと考えられています。

城址は公園として整備されており、石垣を確認するのを忘れました。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=荒神山城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:肥田城 (2024/10/07 訪問)

越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市)から徒歩10分ちょっとで、城跡説明板前(35.201349、136.207394)に着き、その後、土塁豪跡(35.199217、136.205128)➡水攻堤(35.206342、136.204678)の順番で廻りました。

築城年代は定かではないようですが、大永年間(1521年〜1528年)に六角氏配下の高野瀬隆重によって築かれ、隆重・秀隆・秀純(秀澄)が居城としたと云われています。
高野瀬氏は代々六角氏に仕えていたが、高野瀬秀隆の代に浅井氏に付き、1559年(永禄2年)の「肥田城の水攻め」、1560年(永禄3年)の「野良田表の合戦」の2度にわたり、六角定頼・義賢(承禎)父子に攻められました。六角義賢は城の周囲に土塁を築き、肥田城を水攻めにしたが、土塁が崩れ、水攻めは失敗に終ったそうです。
浅井氏が織田信長によって滅亡すると、高野瀬秀隆は柴田勝家に仕えますが、1574年(天正2年)越前一向一揆に敗れて自害したそうです。
その後、1574年(天正2年)蜂屋頼隆が城主となり、1584年(天正11年)には長谷川秀一が城主となりますが、長谷川秀一が朝鮮の文禄の役で病没すると廃城となったそうです。

城址は、田んぼの中にあります。山王祠があり、城跡碑、説明板もありました。
移動時間を含め、攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=山崎山城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市) (2024/10/07 訪問)

吉田城(城びと未登録 滋賀県豊郷町)から徒歩35分くらいで、石碑前(35.199302、136.212137)に着きました。

越川城の築城年代等は不明ですが、肥田城の支城として築かれたようです。
守備したのは肥田城主高野瀬氏の重臣久木氏とされていますが、久木氏の居城は太堂城とも云われていて、よくわかりません。
久木氏は高野瀬氏とともに江北浅井氏の傘下として、1559年(永禄2年)肥田城水攻めや、その翌年の野良田表の合戦に従軍しました。
浅井氏滅亡後は主君高野瀬秀隆とともに柴田勝家に従ったようです。
1574年(天正2年)信長の命により、勝家が越前一向一揆の鎮圧に出陣したため、久木氏もこれに従軍しました。
しかし、安居の戦いで高野瀬秀隆とともに久木定邦・隆致は自害して果てたようです。

遺構はなく、石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=肥田城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:吉田城(城びと未登録 滋賀県豊郷町) (2024/10/07 訪問)

目加田城から徒歩5分くらいで、石碑説明板前(35.185827、136.232228)に着きました。

吉田城は佐々木秀義の六男、厳秀を祖とする吉田氏の居城です。
戦国時代の状況は不明ですが、京極材宗や辻与兵衛が在城したといわれており、1571年(元亀2年)に織田信長の攻撃により落城するとそのまま廃城になったと思われます。

愛知神社そばにある造り酒屋の岡村本家の東側の小道沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市)へは徒歩で向かいました。

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