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T-Shionoya

岩村城 見どころ満載の石垣遺跡 (2025/03/30 訪問)

メモリアルな200城目として3月末に訪れた岐阜県恵那市の岩村城。

木曽川や東山道の南に位置する岩村盆地南端の比高約180mの山に築かれた城。
江戸期の城では最も高い標高717mに建てられた日本三大山城の1つ。
古くからの遠山荘の中枢で、戦国期には勢力争いのポイントとなった地。

源頼朝家臣の加藤景廉から始まる遠山氏が鎌倉期から統治し、1500年代初期には山上の城が築かれていたのだとか。
戦国期には武田家臣の秋山信友や織田方の森氏などが治め、森氏時代に各務兵庫が近世城郭に大改修した模様。
江戸期になると大給松平家乗が入り改築し、以降は大給松平本家2代・分家7代が主な城主。

現在は、江戸期の藩主邸跡に太鼓櫓(復元)などが建ち、山城エリアには石垣が残る日本100名城の城跡。

山の南側から本丸に隣接する出丸まで車で入ることも可能だが、訪問時は藩主邸跡から徒歩で本丸へ。
一の門から本格的な石垣エリアとなり、右の崩れそうな石垣は、いにしえの世界への入口を感じさせるもの。
個人的な最注目ポイントは畳橋。建物は残ってないが、外枡形と三重櫓から横矢が掛かるL字状の橋の防御システムはまさに技巧的。
また後から知ったのだが、古絵図を見ればシンボルの六段壁の手前には二重櫓があり、2階から二の丸門へ渡り廊下が掛かっていたとのこと。
更に本丸では長局埋門と埋門がとても魅力的。

結局、石垣未使用エリアを含めて4時間滞在した、見どころ満載の私の城郭巡りの200城目でした。

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しんちゃん

粟野氏の城 (2025/01/02 訪問)

北目城は元は粟野氏の城でした。5代の粟野忠重の時代に、茂ヶ崎城より北目城に移り天正年間まで粟野氏の城でした。9代の粟野重国は天正19年(1591)伊達政宗との戦いに敗れ、伊達氏の支配下に組み込まれています。
その後、北目城は関ヶ原の戦いに際に上杉軍と対峙する拠点として使われています。規模は東西約370m、南北約280mの平城で、平成4~5年の発掘調査によって堀跡が発見され、上幅10~14m、下幅2.5~3mの大きさで、堀底に段差や「障子」などが備えてあったようです。
現在は完全に市街地になっており、国道4号線と広瀬河畔道の交差を北に100mちょっと行ったところに案内板が有りました。
城址近くの「焼肉冷麺やまなか家仙台郡山店」で食事を取りました。盛岡冷麺が看板メニューの一つですが、温麺もあるようです。この日はちょっと寒かったので温麺を頼みました。個人の好みもあるけど、私としては冷麺の方が好みですね。 

※内容を修正・加筆の上 再投稿させていただきました。申し訳ありませんがご了承お願いします。

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しんちゃん

亘理伊達家 (2025/01/01 訪問)

千葉常胤の子孫・武石氏がこの地に移り、暦応2年(1339)には亘理氏を名乗るようになり小堤城を築いたとされています。亘理氏は伊達氏・国分氏・相馬氏と争うようになりますが、亘理宗元の代に伊達氏に従うようになり、天正年間(1573~92)元宗・重宗のころに亘理城を築いて移って行ったと考えられています。
現在は大雄寺の境内となっていて、後に亘理城主となった亘理伊達氏の墓所が有ります。墓所のある城址南側には土塁も残っておりました。
大雄寺は亘理伊達家初代の伊達成実が菩提寺である雄山寺を居城に移し大雄寺と改称したとされています。

※申し訳ありませんが、内容を一部修正・追加し再度掲載させていただきます。一度なら偶然で済むのですが、連続して発生する場合は故意の可能性が有るとして、遺憾ながらこのような対応を取らざるを得ません。
四県コンプの時の事例も有りますので、なにとぞご理解いただければと思います。小堤城の投稿に関しては再投稿は、この先何が起きようと一度のみにさせていただきます。先の投稿で「いいね」をつけてくれた方々には申し訳ありませんがご了承願います。

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しんちゃん

稗貫氏最初の居館 (2025/01/04 訪問)

小瀬川館は鍋割川と台川の合流部に近い台地状に築かれていて、東に伸びる台地を堀切で断ち、主要な郭は北と南の二郭に分かれていたようです。現在は宅地と畑地になっていて案内板が立っていますが、遺構を確認することは出来ませんでした。
稗貫氏の最初の居館とされ、ここより本館(十八ヶ城)に移り、さらに鳥谷ヶ崎城(花巻城)に移ったとされています。稗貫氏は鎌倉時代に当地に移ったとされますが、出自も含めて詳細は不明とされています。中条氏から派生したとも言われ、南北朝時代に北朝方であった稗貫氏は暦応3年(1340)に南朝に転じた河村氏の一族に攻められ、翌年には南朝方の連合軍によって当主である稗貫出羽守が討ち取られるなど苦戦を強いられています。

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しんちゃん

国分盛重 (2025/01/02 訪問)

松森城は元は国分氏の城でした。後に伊達政宗の叔父の国分盛重が国分氏を継ぎますが、家中をまとめきれず改易となり、盛重が佐竹義宣の元へ出奔してからは伊達氏の城として整備されているようです。
最高所が主郭で、尾根上に南北と東に城域が伸びていることから鶴ヶ城の別名を持っています。南の城域は駐車場として転用され、そこから本丸めぐりの遊歩道が伸びています。主郭の南側は堀切と見られ、南東にも郭が伸びています。地形図を見ると、北側の郭は中学校造成の際に削られているようです。遊歩道に沿って歩くと堀切を渡って、本丸を一周してから元の場所に戻って来るようです。
この日の夕食はファミレスで牛タン定食を頂きましたが、全国チェーンなので、どこで食べても同じような。

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ぴーかる

西郷家発祥の地 (2025/03/22 訪問)

【増永城】
<駐車場他>西郷南州公園駐車場<32.974648, 130.763492>あり。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目7城目。現地説明板によると増永城は菊池十八外城の1つで別名西郷城といいます。菊池氏初代則隆公の長男政隆公が西郷氏として移り住み菊池氏一族の重臣として居城しました。26代西郷昌隆のとき薩摩に移り住んだという記録があるそうです。現地は神社・公園となっており遺構の堀はよくわかりませんでした。

<満足度>◆◇◇

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留守政景 (2025/05/24 訪問)

 伊達政宗の叔父である留守政景の居城と伝わっています。丘陵を切り込む沢を利用した城であったようです。現在は舘山公園として整備されています。
 JR利府駅から徒歩にて登城しました。利府小学校前にも説明板があり、その横に登城路があります。途中に「利府城跡の大イチョウ」がありました。巨木の前に標柱があり留守政景の娘美竹姫の安産と母乳が豊かにあるようにと祈願したものという言い伝えがありますと記載されていました。大イチョウは大きすぎて写真に納まりきれません。桜の園→憩いの丘→芝生広場→ふれあい広場→どかん広場→頂上広場と散策してきました。

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ヒロケン

良好な保存状態 (2025/05/01 訪問)

玄蕃尾城は、南北に主要4つの曲輪で構成し、その曲輪を土橋で連結、また各曲輪を土塁と空堀で囲い多重防御を施しています。その広がりは南北250m、東西150mにも及んでいます。また主郭には南側と北側に馬出、東側に出曲輪を設け主郭を防備しており、主郭の北東隅には、方形の一段高くなった場所があり、櫓のような建造物があったのではないかと推定されています。主郭部北側の搦手がある曲輪は最大の広さがあり兵糧などの物資や兵の駐屯の為のスペースであったと推定されています。

玄蕃尾城は、賤ケ岳の合戦のおり、織田家重臣の柴田勝家公が本陣とした山城です。越前と北近江との国境にあった城で、越前北ノ庄城の城主であった勝家公が国境の守りとして合戦以前に築いたものとされています。(所説あり)
ですが、この賤ケ岳の合戦では勝家公はこの城では戦わずして撤退していることから、玄蕃尾城は合戦当時のまま、良好な状態で保存されています。(地元の方が草刈りや整備をして頂いているお蔭様で何時行っても良好な状態で見学することが出来ます。)


しんちゃんさんへ 紫波洲崎城に行かれたのですね(#^.^#) 私はお化けと蜘蛛と百足が大の苦手で掴みどころのないものを見るとゾッとします。しんちゃんさんのお城にかける情熱というか執念というか見習いたいもので、感心してしまいます。
ところでしんちゃんさんの最寄りのお城は高縄城とお聞きしましたが、意外と自分とご近所さんかもしれませんね。

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伊達政宗 (2025/05/23 訪問)

 広瀬河畔通の歩道に標識と説明板がありました。遺構はありません。
JR長町駅より徒歩15分くらいでした。

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亘理神社 (2025/05/23 訪問)

 本丸跡に亘理神社が建立され、遺構としては、本丸南側に内堀跡が残り、旧舘公園になっています。皆さん尾投稿を見ていると内堀跡に水がありましたが、自分が訪れたときは水はありませんでした。

 JR亘理駅から歩いて15分くらいで行くことができます。

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チェブ

サラッと立川氏館。 (2025/05/25 訪問)

2回目の「立川氏館」です。
1回目は2018年で、「立川氏館」跡の普済寺はお墓参りシーズンで賑やかでした。
所用があり立川市に来たのに、このまま帰るにはもったいないと『お城を探す』を広げ「立川氏館」に向かいました。
車のナビで普済寺を登録。『目的地に到着しました。』と告げた場所は普済寺の駐車場ではなく、お隣の工事車両及び関係者の駐車場でした。
前の車も、裏側に案内するクセがあって困っていたのに、今回の車も先行き不安です。
こんな時に、スマホのグーグルで案内してもらいます。

「立川氏館」の説明板の横に土塁があります。土塁もですが土塁に根を張る木も立派です。
『普済寺内文化財』の案内板に『首塚』とあったので、お参りしようと探しましたが、分かりませんでした。

『普済寺』は住宅地の中にあるので散歩してる方が多かったです。
用水路があり、周りには紫陽花が、梅雨時期を待ちスタンバイしてました。

私の行動範囲のお城は『行った』済。
こんな感じで、サラッと再訪して投稿もいいかな。
城びとオールスターの皆さんと繋がっていたいから「立川氏館」攻めをしてみました。

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大雄寺 (2025/05/23 訪問)

 大雄寺の境内一帯が城跡とされています。千葉氏の一族である武石氏により築かれたと伝わる城です。武石氏は亘理氏と称するようになり代々居城としていました。後に伊達氏に仕え亘理城を築き廃城となりました。1603年に伊達成実が亘理に移封されると、亘理伊達氏の菩提寺である大雄寺がこの地に移され現在に至っています。境内には伊達成実霊屋などがあります。山門前に標柱があり、一部に土塁が残っています。

 JR亘理駅から徒歩25分くらいです。

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原田甲斐 (2025/05/23 訪問)

 伊達騒動の原田甲斐宗輔の居城として知られています。原田甲斐を主人公にした山本周五郎原作の「樅ノ木は残った」はNHK大河ドラマにもなりました。当時、見ていた記憶はありますが、原田甲斐を平幹二郎さんが演じていたことくらいしか覚えていません。原作を読んだのは社会人になってからです。
 船岡城址公園として整備されています。どこまで当時のままなのかは判断できませんが、所々に説明板がありました。船岡城の二の丸の説明板は2カ所にありますが、下にあった説明板に「船岡舘跡 遺構略図」があり、その中に石組、土塁、空堀などが記載されていました。見たいとは思いましたが、通路は外れて彷徨う必要がありそうでしたので断念しました。
船岡駅から約10分で登城口に行くことができます。御舘橋の登城口から上り、産業展示館方面へ下山しました。隣の柴田町図書館の前に大手門跡の説明板がありました。

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源重之 (2025/05/23 訪問)

 主郭付近が鵜ヶ崎公園として整備され、標柱が立っています。JR岩沼駅から徒歩5分くらいで行くことができます。
岩沼要害説明板がJR岩沼駅西口にありました。

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矢野目足軽 (2025/05/23 訪問)

 矢野目足軽という存在を初めて知りました。
石碑と標柱が岩沼市矢野目地区中央集会所の敷地内にあります。フェンス越しに写真を撮影し退散しました。

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伊達稙宗 (2025/05/23 訪問)

 高舘山の中腹から山頂付近にかけて築城されている城址です。安元元年藤原秀衡が館を築き、文治5年の奥州合戦の時には、藤原勢が立て籠もり鎌倉勢を迎え撃ったと伝わります。その後、永禄年間には名取、苅田、柴田、黒川四郡を領有した伊達稙宗が支配の拠点とし、家臣の福田駿河守を置いていたとされます。
主郭を中心に取り囲むように曲輪を設けています。
 高舘城の上方にある熊野那智神社から登城しました。歩いて行くと南之丸と秀衡ヶ崎の間の堀切に到達します。秀衡ヶ崎は藤原秀衡が築いたと伝わる砦部分で緩やかな平坦地となっていて先端には堀切がありました。元の道に戻り歩いて行くと蔵王山と彫られた石碑などがあり主郭へ上がることができます。もう少し先にも高舘城の標柱があり、そこからも上がることができますが、少し藪になっていました。主郭は思っていたより広く南北約100m弱、東西約50m弱あるようです。西側にはいい感じの高土塁がありますが、周囲は藪で全容を把握できません。周囲の曲輪を少し歩いてみましたが、全体的に藪になっていて足元も長く伸びた草や折れた木などが重なっていて歩きにくかった。ネットなどをみると他にも堀切や空堀があるという情報もありましたが、藪となっている場所も多く周囲の曲輪を含め十分に散策できませんでした。藪漕ぎはしない、無理はしないと決めていますが、帰って来てあらためて本やネットの情報を見ると、もう少し無理してもよかったんじゃないかと思うことも多いです。

 麓からも登城路がありますが、車で行かれる方は熊野那智神社まで上がると近くに高舘城の説明板と案内標識があります。10分くらい降りて行くと城址に行くことができます。

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在郷屋敷 (2025/05/23 訪問)

 中世の館跡で、江戸時代には仙台藩士の入生田家が伊達氏から館跡を拝領し、在郷屋敷として使用していました。公園として整備され土塁が一部ですが、残っています。
 地下鉄南北線富沢駅から徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

国の史跡・宮沢遺跡 (2025/01/03 訪問)

宮城県大崎市の「宮沢遺跡」は大崎平野北部の丘陵南端部に築かれた古代の城柵で国の史跡に指定されています。奈良時代から平安時代に築かれたとされ、東日本でも最大級とされ東西約1.4km、南北約850mの範囲を築地や土塁によって囲われていました。
現在はど真ん中を東北自動車道が通過し、バイパスの東側を東地区、西側を西地区と呼称しているようです。我が国の歴史や文化財に対する扱いなどこんなものかと嘆きたくもなりますが、新幹線や高速道路によって削り取られた関ヶ原の「自害ヶ峰」周辺よりはだいぶマシなのではなかろうか。あの丘陵部は神谷道一氏の陣地図では西軍の陣とされていたはずですが。

東西はバイパスによって分断されているので、トンネルをくぐって西地区に移動します。東側の丘陵上に主要な建物があったと思われ、西側の丘陵は周囲を俯瞰する物見の様な役割を果たしていたようです。また高所に陣を置くことにより戦闘を有利に進める狙いもあったのではないでしょうか(byキングダム)。

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しんちゃん

留守ですけど (2025/01/02 訪問)

現地案内板によりますれば、利府城は留守氏の重臣。村岡氏の居城でしたが、永禄12年(1569)留守氏の後継者問題で伊達系留守氏側と対立し翌年、この城で戦い滅亡したとされています。その後、伊達政宗の叔父の留守政景が20年の間この城を本拠としました。
標高100m、比高100mの山城ですが、駐車場まで車道が伸びているので、城址へのアクセスは容易です。北側の駐車場に車を留め、そこからは徒歩になります。北東と南西の二つの丘陵上に郭が築かれています。
余湖さんの縄張り図だと「憩いの丘」や「芝生広場」の有るあたりが南部分、「桜の園」と呼ばれる広場が北部分とされ城址碑も有ります。公園化されているので、遺構の判別は難しいですが西側の「どかん広場」「頂上広場」にも出丸や物見の雰囲気がありますね。

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郷六大膳盛元 (2025/05/23 訪問)

 国分氏の一族、郷六大膳盛元の居城でした。土塁と堀と思われる地形があります。余湖くんのHPを見ると東南則に土橋などがあるようですが、藪になっていてわかりませんでした。

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