今回は、戦国時代に筑紫平野一円を治めた武将「筑紫広門」という人物の、関ケ原までの波乱の人生を、6回シリーズで追って行きたいと思います。またよろしくお願いします。
JR鳥栖駅から1番のバスに乗り、東橋(あずまばし)で下車しました。東橋バス停にはパンフレットと地図がご自由にどうぞと置いてあったので、これは大変助かりました(写真③)。さあここから広門の居城「勝尾城」を目指します。
橋を渡り、ここからの川沿いが城下町で、だんだんと細くなり谷に入って行きます。まるで一乗谷のような感じです。この川沿い(四阿屋)に商人町があり、その先(城戸から先)は家臣が住む武家屋敷だったようです。
歩き始めて5分、四阿屋神社の河川敷公園にきれいな公衆トイレがありました。筑紫氏館にも小さなトイレはありましたが汚かったので、特に女性の方はここを利用されて行かれた方がいいと思います(写真⑨⑩)。ここには広い駐車場もありました。
四阿屋からふと左を見ると「葛籠城」がありました。勝尾城の出城のようです。登城口まで行きましたが、予想外に規模も大きく、土塁や空堀などの遺構もありそうです。葛籠城の前に立つと城山(勝尾城)が見えてきました(写真①)。ここから麓の筑紫氏館を通り、あの山頂の勝尾城までを目指します(標高498m、比高約350m)。だんだんと気合が入ってきました😠。しかし、あまり寄り道をすると時間も体力もなくなってくるので、葛籠城はあきらめ先へ進もうと思います(写真④⑤)。
さらに10分程歩くと城戸がありました。筑紫氏と島津氏との戦いでは、このあたりで最大の激戦があったようです。広門の子である「筑紫春門」(一説には弟とも)が奮戦し、最後は一騎打ちで勝負を決しようではないかと島津軍を挑発します。これに応じたのは、「川上左京亮(忠堅)」という男です。彼は何と😯・・・沖田畷の戦いであの龍造寺隆信を討ち取った男だとされています! しかし両者は相討ちとなり共倒れとなったようです。春門が槍を刺したと言われる岩や二人の供養塔がありました(写真⑥⑦)。
城戸を抜けると、辰兵衛さんのお友達に出会いました(写真⑧)。元気そうでしたよ!(笑)。そして東橋から歩く事30分、筑紫氏館(筑紫神社)に到着です。ここにも駐車場はありますが、四阿屋から先は道がとても狭いので車の方は注意されて下さい。
次は、筑紫氏館(筑紫神社)へ続きます。
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