車で岩切城の登山口まで行きそこから登城。
入り口に説明看板があり整備された登山道を登ります。
ゆるかで非常に快適でしたが昨今のクマ出没のせいかあちらこちらに「クマに注意」と幟がありました。
さすがに怖くなり速足で登城してきました。
帰りは退却のような速さで下っていきました(苦笑)
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2025/12/01 17:33
2025/07/09 21:27
留守ですよ。 (2025/01/02 訪問)
岩切城は高森山の山頂から伸びる尾根上に自然地形を利用して築かれています。
平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣・伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命し、伊沢氏は留守姓を名乗りました・・ってそのまんまやん。
留守氏は岩切城を居城とし、後に室町幕府内部でで足利尊氏と弟・直義の対立が激化すると、留守氏は尊氏の勢力に加担しますが正平6年(1351)の「観応の擾乱」にて、岩切城での合戦に敗れ岩切城は落城し、留守氏は衰退しました。後に留守氏は伊達氏の一門に加わり勢力を回復し、留守氏が居城を利府城に移すと、岩切城は廃城になりました。
西尾根上に連なる郭群の脇から登城道が伸びています。主郭には東屋があり、南側に土塁を備えた郭が有りました。主郭の脇から東尾根に向かって道が続いていて、堀切が間にありました。虎口らしき箇所を抜けると所々に土塁を備えた東の郭群があり、南の方にも道が伸びています。余湖さんの縄張り図を見ると東の尾根を進んだ先に堀を備えた枡形の様な虎口があるようです。
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2024/11/01 23:50
一期一会 (2024/09/29 訪問)
新利府から仙台方面にひと駅戻って岩切下車。駅から徒歩で向かいました。
八坂神社を過ぎた青麻道の道標から県民の森へ続く道路を上ります。歩道は埋もれてしまっているので後ろから轢かれないように車道の右側を歩き、急カーブでは前から轢かれないように外側に移動して上り続けること約20分。突然、城址碑と説明板が目の前に現れました。到着したうれしさもありましたが、この道で合っていたんだという安堵感の方が大きかったです。
その先は車が入ってこない安心の堀切道です。たくさんの郭が階段状に連なる山城だったようで、まだ夏の盛りの緑が生い茂る時期ではありましたが、いくつかの郭や土塁、竪堀らしきところを確認することができました。眺めもよくE5系が小さく見えました。
草叢を分け入ることはせず無理なく行けそうなところまで見学して終了としました。
多賀城へ行く前に乗り換え駅で降りて寄ってみた、というのが抑の訪問理由ではありますが、山道を黙々と歩きながら、また目的地のお城の地面を踏みしめながら、見知らぬ土地を歩くことが私はとても好きだ!ということを再認識すると同時に、ひとつひとつのお城との出会いを大切に覚えていたいなと思いました。
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2022/01/19 14:08
岩切城に異議あり
多賀城は賀美郡の城で多賀城碑出土地は多賀城跡ではありません。勿論、国府跡でもありません。
府中というのは国府の所在地。国府の所在地は信夫郡です。
岩切城は福島市大森城山です。金山跡で岩を削った跡と山頂部に岩切り空堀を作った遺構が残っています。
岩切城は吉良貞家が陣を置いた場所です。それゆえ、まず、岩切城の裏口(搦手)の警固をさせた後、大仏城を攻め畠山氏の陣がありました。畠山氏等は大仏城を脱出し岩切城近くの虚空蔵楯に陣をかまえました。そこを吉良勢に攻められ畠山国氏は自刃、留守三河守等は生け捕りにされたのです。
岩切城は伊達稙宗陸奥守護職以後から大森城と呼ばれたようです。大守の城ゆえ、大森(大守)城と呼称した。
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| 分類・構造 | 山城 |
|---|---|
| 築城主 | 留守氏 |
| 築城年 | 南北朝時代 |
| 主な城主 | 留守氏 |
| 廃城年 | 元亀年間(1570〜1572) |
| 遺構 | 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀) |
| 指定文化財 | 国史跡(岩切城跡) |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 宮城県仙台市宮城野区岩切字入山他/利府町神谷沢 |
| 問い合わせ先 | 仙台市教育委員会文化財課 |
| 問い合わせ先電話番号 | 022-214-8892 |