ふこうずじょう

深溝城

愛知県額田郡


旧国名 : 三河

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深溝城址碑がある工場西側の一角
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キンヤ

「家忠日記」を記した松平家忠の誕生地で城主を勤めた城跡 (2024/06/08 訪問)

NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉「松平家忠日記に見る戦国処世術」を見て興味を持ち、家忠の誕生地と紹介されていた深溝城と瑞雲山 本光寺に行きました。 
 
「松平家忠日記」は、家忠自筆の天正3年(1575)から文禄3年(1594)までの17年間の日記で、戦国時代の様子を伝える貴重な史料として重要文化財に指定されています。

深溝城は、鎌倉時代又は室町時代前半に三河大庭氏により築かれました。
16世紀前半に大庭氏が松平氏に討たれた後は深溝松平家の居城となり、深溝松平家4代の家忠も城主を勤めました。
後の寛永16年 (1639)、板倉氏が深溝陣屋を構えました。
城跡は工場と宅地になってますが、周囲を散策すると高台にあることが分かります。
工場西側の一角に城址碑が建てられており、工場東側と宅地の間の道沿いに遺構と思われる高い土塁が一部見られました。
深溝陣屋の門が医師の名家であった高橋家に移築され、今でもお宅に立派な門が残されていました。

瑞雲山 本光寺(深溝松平家の菩提寺・墓所)
深溝松平氏は各地に移封を重ね、島原7万石の大名となり明治を迎えましたが、当主が死去しても遺をこの地に運び埋葬されました。
島原藩主深溝松平家墓所として国史跡に指定されています。
東西の御廟所に分かれ、初代忠定から19代忠諒までの墓所があり、家忠のお墓にもお参りできました。6代から19代までのお墓は神殿石造りで珍しいです。
ちょうど紫陽花まつりが開催されていて、見頃前でしたが綺麗でした。

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小城小次郎

単なる偶然か運命の糸か (2023/01/28 訪問)

深溝から大庭氏を駆逐した五井松平家から分家した深溝松平家は後に島原藩主となるが、島原の乱で総大将を務めて不慮の死を遂げた板倉重昌の家系が旗本として明治まで深溝を領しているのは単なる偶然か運命の糸か。

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しんちゃん

深溝松平氏の城。近くには あじさい寺の本光寺と深溝松平家廟所(国の史跡) (2023/06/10 訪問)

深溝城は室町時代前半 深溝地域を支配していた三河大庭氏によって築かれました。(現地案内板による)
後に松平一族の五井松平家松平大炒助が入城を許され深溝松平家を名乗ります。
松平氏は後に各地に封じられた後、島原6万5000石に転封になりますが、お墓はこの地に残していきました。
すぐ近くに あじさい寺で有名な本光寺があり、廟所もそこになるのですが
東廟所の損壊が年々ひどくなっていっています。

深溝城は現在工場の敷地内で一部土塁が残っているようです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:深溝城 (2022/08/03 訪問)

形原城からの転戦です。
現在深溝城址は、株式会社三協幸田工場の敷地となっており、正門脇の道路沿いに石碑と案内板があります。
また幸田町六栗本郷の民家に深溝陣屋門が移築されているほか、陣屋絵図の写しが幸田町郷土資料館に収蔵されてるそうです。
以上の情報より、まずは三ヶ根駅より15分くらい歩き、説明板前(34.839375、137.176970)に向かいました。
幸田町郷土資料館は夜遅くなって閉まっている為、本光寺山門(34.837231、137.181530)に向かいました。

深溝城は十八松平のひとつ、深溝松平氏の居城でした。
松平忠定から4代・松平家忠まで在城しましたが、徳川家康の関東移封に伴い、忍城へ移りました。
家忠は「関ケ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」で鳥居元忠とともに討死し、その功もあり5代忠利は旧領に戻り三河深溝藩を立藩しましたが、1612年(慶長17年)に吉田城に移ったことにともない廃藩となりました。
その後、板倉氏が深溝陣屋をかまえました。

深溝松平家墓所の本光寺もなかなか良かったです。
攻城時間は、移動時間も含め20分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で三ヶ根駅から尾張一宮駅に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 大庭朝満
築城年 不明
主な城主 大庭氏、松平氏、板倉氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県額田郡幸田町大字深溝字丸の内、城山