深溝から大庭氏を駆逐した五井松平家から分家した深溝松平家は後に島原藩主となるが、島原の乱で総大将を務めて不慮の死を遂げた板倉重昌の家系が旗本として明治まで深溝を領しているのは単なる偶然か運命の糸か。
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2023/08/25 22:14
2023/06/11 19:31
深溝松平氏の城。近くには あじさい寺の本光寺と深溝松平家廟所(国の史跡) (2023/06/10 訪問)
深溝城は室町時代前半 深溝地域を支配していた三河大庭氏によって築かれました。(現地案内板による)
後に松平一族の五井松平家松平大炒助が入城を許され深溝松平家を名乗ります。
松平氏は後に各地に封じられた後、島原6万5000石に転封になりますが、お墓はこの地に残していきました。
すぐ近くに あじさい寺で有名な本光寺があり、廟所もそこになるのですが
東廟所の損壊が年々ひどくなっていっています。
深溝城は現在工場の敷地内で一部土塁が残っているようです。
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2022/09/09 07:18
2022夏の青春18キップ15日目:深溝城 (2022/08/03 訪問)
形原城からの転戦です。
現在深溝城址は、株式会社三協幸田工場の敷地となっており、正門脇の道路沿いに石碑と案内板があります。
また幸田町六栗本郷の民家に深溝陣屋門が移築されているほか、陣屋絵図の写しが幸田町郷土資料館に収蔵されてるそうです。
以上の情報より、まずは三ヶ根駅より15分くらい歩き、説明板前(34.839375、137.176970)に向かいました。
幸田町郷土資料館は夜遅くなって閉まっている為、本光寺山門(34.837231、137.181530)に向かいました。
深溝城は十八松平のひとつ、深溝松平氏の居城でした。
松平忠定から4代・松平家忠まで在城しましたが、徳川家康の関東移封に伴い、忍城へ移りました。
家忠は「関ケ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」で鳥居元忠とともに討死し、その功もあり5代忠利は旧領に戻り三河深溝藩を立藩しましたが、1612年(慶長17年)に吉田城に移ったことにともない廃藩となりました。
その後、板倉氏が深溝陣屋をかまえました。
深溝松平家墓所の本光寺もなかなか良かったです。
攻城時間は、移動時間も含め20分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で三ヶ根駅から尾張一宮駅に向かいます。
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2021/09/26 08:17
分類・構造 | 平山城 |
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築城主 | 大庭朝満 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 大庭氏、松平氏、板倉氏 |
廃城年 | 元和元年(1615) |
遺構 | 消滅 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 愛知県額田郡幸田町大字深溝字丸の内、城山 |