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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:黒田城 (2025/05/26 訪問)

光竜寺山城から車で20分ちょっとで、黒田城趾駐車場(35.053069、135.001911)に着きました。
そこから以下の順番で巡りました。
 ①登城口(35.053223、135.001992)
 ②姥が懐(35.053904、135.003206)黒田家の居館跡
 ③黒田城跡(35.053187、135.003584)清綱稲荷大明神
 ④黒田官兵衛生誕の里碑(35.052764、135.002192)
 ⑤荘厳寺入口(35.050558、135.014066)

真田昌幸&黒田官兵衛推しの自分としては、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地の黒田城訪問が今回遠征の目的の一つでした。
ちなみに、もう一つの目的は、真田昌幸が亡くなった九度山を訪問することです。(5/29(木)に訪問予定)

黒田城の詳細は不明のようですが、赤松円心の弟円光を始祖として息子、七郎重光が丹波との国境の黒田の地に1351年(観応2年)居を構えました。
1572年(元亀3年)石原掃部助と田高川湿地帯で戦い中、背後より赤井五郎の軍に襲われ戦いに敗れ、初代七郎重光より220年に渡りこの地を治めた黒田城は落城壊滅しました。
諸説あるうちのひとつに、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地といわれています。

登城口を階段ではなく左の小道へ行くと、黒田家の居館跡(姥が懐)に行けます。
時間の都合で、詰の城方面、多田構居跡入口/案内板には行っていません。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=久下城へ車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:光竜寺山城 (2025/05/26 訪問)

野間山城から車で2~3分くらいで、町民グランド駐車場入口(35.012730、134.908281)に着きました。
そこから、登り口/案内板付近(35.013065、134.907759)に向かいました。

詳細は不明のようですが、在田筑前守村長が本拠地を野間に移した際、野間山城の整備と同時に築いた城と考えられているようです。
主に政治的、経済的権威を示すために造られた見せるための居城だったそうです。

ガルテン八千代・町民グランドの搦手口ルートから登城しました。
本丸・二の丸の曲輪も史跡公園としてきれいに整備されていました。
たんたんと攻城した為、写真をあまり撮っていませんでした。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=黒田城へ向かいました。

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しんちゃん

マツエ・ジョー (2025/04/05 訪問)

マツエ・ジョーを知っていますか?
2011~2にかけて開催された、カルチャーイベント「米子映画事変」のシンボル的な作品「大特撮ネギマン」に登場するキャラクターです。製作はあの「ガイナックス」で「ネギマン」の3~4話に登場して強烈な印象を残しています。
長い年月を経て、付喪神と化したという設定で、何の脈絡も無く松江に現れたネギマンと激しい戦いを繰り広げます。しかも、ネギマンが登場する時に、三の丸に鎮座する島根県庁を激しく壊しながらやってきます。なんで島根県庁を壊しながらやって来るの? 会場は大ウケだったと思いますね・・。島根と鳥取の関係性ってどうなんだろ?
最期は宍道湖に、元の天守の姿で落ち着くのだけど、作中に出てくる新聞に「松江城国宝化へ?」といった描写があったりします。松江城の国宝化にネギマンの貢献がどれだけあったのかは不明ですが、予言は見事に的中しましたね。

国宝になってから、松江城に来るのは初めてです。松江城は慶長12年(1607)~16年(1611)正月にかけて堀尾吉晴の子・忠氏によって築かれました。以前は天守に千鳥破風や唐破風なども有ったそうですが、元文3年(1738)~寛保3年(1743)の大改修で今の質実剛健な姿になったようです。天守の中には井戸や塩蔵もあり、外見に違わぬ実戦重視の城だと感じました。天守の最上階からは松江の街や宍道湖を良く眺望することが出来ます。

追記・「ネギマン」は今でもユーチューブで見ることが出来ます。ジョーの鉄砲狭間や石落としを使った攻撃は見ててジワジワ来ますよ。バンダイさん、プラモかスーパーミニプラで出してくれないかなあ・・(超合金は高い)。
ネギマンは・・要らんなあ。 ソフビでもいいですよ。

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朝田 辰兵衛

大湯館散策2/2(本丸~搦手口) (2025/05/17 訪問)

搦手口は神明社へとアクセスします。本丸からは下っていきますが,スルーするにはもったいないので,ぜひ散策の足は止めないでください…🐾
そうそう,秋田では横手に行かなくても「横手焼きそば」が食べれ,県境を越えて酒田に行かなくても「オランダせんべい」が入手できます。

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朝田 辰兵衛

大湯館散策1/2(大手登城口~二ノ丸,清姫神社) (2025/05/17 訪問)

現地では大湯城のほうが一般的なようです。郭を空堀でしっかり区切っているのが印象的でした。当時からプライベート空間の確保にこだわった居住スペースづくりは,現代的思考の表現と言えるかもしれません。実際,そんな意識ではなかったと思いますが…<笑>。
しかし,複数の神社が同一城内に存在しているということは,まんざらでもないのでは…とも考えてしまいます。

にのまるさんへ…
若桜鬼ヶ城の「8の字廻り」を参考にしてくださり,恐縮です。もう3年も前です。山陰地方に3年もごぶさたということにもなります。思い出のモノの中に,若桜鉄道のきっぷがあります。いまだ現役の「硬券」。改札ではさみを入れてもらった瞬間は凝視してしまいました✂…👀
山の中では少ない情報でも心の支えになることが多々あります。私の「8の字廻り」が,にのまるさんの攻城推進力となったのであれば幸いです。ラストの倒木越えのオマケも笑い飛ばしておられたようで,精神的にも強靭化したように思います。
さて,6/26~7/2まで遠征に出かけます。✈で飛び,北Qバックで下関にも立ち寄ります。先日レポートされた「勝山城」も行ってみる予定です。雨男なのに今のところ晴れ続きという天気予報が不思議です…。

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しんちゃん

シャイな島根っこたち。 (2025/04/05 訪問)

もうじき松江でお城EXPOが開催されますね。合戦で2連敗して、「黄梅院」「安(つね)」さんをゲットし損ねたので、限定武将ガチャにかけています。ガラシャさんをゲットしたいですが、なんとなく「淀どの」を引きそうな気がします、なんとなくですが。
この日は松江城と城下でお祭りが開催されていて、松江大名行列も見ることが出来ました。桜も満開だし、良い一日でしたよ。市長が堀尾吉晴に扮してやって来るので「殿~」と声をかけてくださいと頼まれました。で、「殿~」と声をかけてみたら、声を出したのオイラだけでした。えっ? お祭りなのにノリが悪くない? あとで松江城のスタッフに聞いたら、島根の人達はシャイなんだそうです。
まあ、旅の恥はかき捨てってやつで、何度も来てるけど。

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dougen

2020.3.22登城 (2020/03/22 訪問)

成田山新勝寺の東側にある台地に寺台城址があります。

現在、物見台のあった場所が城址公園として整備されています。

それ以外の郭は藪化が激しく、散策は困難となっています。

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dougen

2020.3.22登城 (2020/03/22 訪問)

広の台城から国道408号を南下するとすぐに田んぼの中に小山が見えてきます。

この小山が長沼城址となります。

ちなみに往時は田んぼでは無く、長沼という沼に囲まれていた様です。

現在は長沼市民の森として整備されており、空堀や土塁などの遺構が確認できます。

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にのまる

8の字まわり。 (2025/03/25 訪問)

鳥取から18きっぷと若桜鉄道1日フリー切符で若桜まで行きました。若桜鉄道も若桜駅舎も温もりと懐かしさに溢れてとても心地よかったです。

観光案内所は開館時間前だったので帰りに寄ることにして先にお城に向かいました。

八幡広場登城口から登ることにしましたが、
“えっ?ほんとにここ⁇ここから登るの⁈”
と体が固まって思考も停止してしまうような細ーい道。
「これが無理なら諦めなさい。」
ということなのでしょうか。。。

はい🙌
諦めません。
案内板も立っているし、滑り台を逆から上がるようなものだと思えば平気平気!この先に登山道があるはずだしと心を整え、グラウンドゴルフをされている方々に笑顔で見送られ登城開始しました。(杖と熊鈴装備)

果たしてすぐに歩きやすい道が現れほっとしました。朝田さんご投稿の“8の字まわり”が初めから終わりまですごくありがたいヒントになりました。ありがとうございます。
また、分岐ごとにわかりやすい道標を立ててくださっていたので安心して進むことができました。(行きは「尾根経由」です。)

40分くらいで三の丸広場に到着しました。
二の丸、本丸、天守台と見学します。電気柵は外されていました。
結構すごいところに来ちゃったかも⁉︎という焦りの気持ちも石垣や瓦片を見ると満足感に変わります。破城痕と今なお踏ん張る石垣に枡形跡。眺望も素晴らしかったです。登城ノートがあったので記入しました。

山頂でおにぎり🍙タイムにするのが好きですが熊出没注意の山では食事はしないことにしているので、充分に満足したところで下山します。
精神的・体力的に無理そうだったら馬場の駐車場でタクシーを呼んで迎えに来てもらうという保険をかけていたのですが、近くでチェーンソーっぽい音がして人がいることがわかったので六角石垣経由で徒歩下山することにしました。

チェーンソーの音は六角石垣の上からで、四阿の解体修理をされていました。雪解けを待って作業に取り掛かられたのでしょうか。ありがたいです。

あとはひたすら下を目指します。
階段設置のところやはっきり道筋があるところは慎重に歩けば大丈夫でしたが、一カ所とてもありがたかったのが写真8枚目のピンクリボンとガムテープ。もしこの目印がなかったらそのまま突進していたかもしれません。ここで右に折れるのが正解でした。どなたがマークしてくださったのか知るすべはありませんがとてもありがたかったです。私もどなたかのお役に立てるお城めぐりができたらいいなと思いました。
登城ノートにも書きましたが無事下山してこその城めぐり。まだ雪の残る古城を経て30分弱で8の字のクロスしている地点に到着。ここから第一町民体育館方面に下りました。

と、最後の最後で折れたてほやほやの倒木が通せんぼ😱
横の急斜面は歩けそうもなく、倒木の下を潜るのも無理。出口はすぐそこに見えているのに何という試練😭
乗車予定の列車は20分後に迫っています。八幡広場に引き返すのは面倒くさいし時間もありません。
最後かつ唯一の手段と、リュックとポーチを倒木の向こうに投げ、枝をガシッと掴みヨイショと乗り越えました。

無事帰還に感謝。

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駿府城

企画展「十返舎一九と蔦屋重三郎」を開催します!

十返舎一九といえば、『東海道中膝栗毛』で知られる江戸の爆笑ヒットメーカー。その才能を見いだしたのが、出版文化に新たな流れを生み出した蔦屋重三郎です。本展では、そんな二人が築いた江戸出版文化の華やかな世界を、厳選された76点の貴重な資料とともに紹介します。
また、前期・後期で展示替えを行い、より多くの貴重な展示品をご覧いただけます!

◆会期: 2025年7月5日(土)~8月24日(日)
【前期】7月5日(土)~7月27日(日)
【後期】7月29日(火)~8月24日(日)
◆開館時間:9時~18時(展示室入場は閉館30分前まで)
◆休館日7月7日(月)、14日(月)、22(火)、28(月)、8月4日(月)、18(月)

◆観覧料 ※詳細は添付画像をご覧ください。

さらに、講演会や歴史を楽しく学べるトークイベントなど、関連イベントも多数開催予定です。詳細は静岡市歴史博物館ホームページ(https://scmh.jp)をご確認ください。

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天守無しがアツい

西光寺 (2025/06/23 訪問)

特別御城印…北庄城・西光寺・福井城を全て揃えると1つの絵になる…キャンペーンがあったので…柴田神社(北庄城跡)を巡り北庄城の特別御城印を購入してから西光寺へ🚶‍♂️

境内に入ると…柴田勝家の墓があったのでお参り🪦
ちなみにこれは慶長年間(慶長元年=1596年)建立されたそうで、勝家は天正十一年(1583年)に自害…つまり亡くなってるから、死後10年くらい経過してから造られた

おそらくこの墓に遺骨は無く…供養塔という意味合いの強い存在なのではないかと推測。現に勝家とお市の亡骸は自害した跡に(燃えさかる城内と共に)火にくべられた…と北庄城の案内板にあったから…行方不明状態のままなのではないか?

資料館があったけど閉まっていた…境内隣に幼稚園があり…そこの事務所で西光寺の特別御城印と御朱印をいただけたのはツイていた

御朱印は西光寺のみ(500円)or西光寺・勝家(2ページにまたがる)(1000円)の2種類…せっかくここまで来たので出費は惜しまない…後者を選んだ私

帰り際に…勝家の墓にもう一度手を合わせた際…幼稚園から出てきた女の子に「なにやってるの?」と聞かれる。私はこう答えた…「墓参り…せっかくここまで来たから思い残す事無いよう十分に…🙏」と

見ず知らずの人に「なにやってるの?」と話しかけること…大人になるとなかなかできなくなると思う。子供って純粋でいいなあ😊

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カズサン

夏草茂る真壁城-2/3 虎口編 (2025/06/07 訪問)

 夏草茂る真壁城-1/3 濠・壕・堀編の続です。

 9年振りのチョイ寄り散策探訪でしたがしっかりと1時間超の経過、真壁城本丸跡に在る体育館駐車場から、本丸虎口土橋を渡り二の丸へ、二の丸高台より筑波山山麓に広がり、夏草が茂った真壁城東方面が雄大に俯瞰できます、素晴らしい景観です、二の丸跡南側に二の丸東虎口跡、ここは元からの残りかも、中城に進み南西虎口、櫓台、土塁、Ⅲの堀に木橋が架かる、土塁、木橋、濠、虎口と復元されている、中城に戻り南東虎口へ、遊歩道から外曲輪南虎口へ、土塁、虎口、Ⅳの堀が復元されている、戻って遊歩道を伝い外曲輪鹿島神社へ、鳥居を潜って参拝、鹿島神社の北東に外曲輪東虎口があり左右に外曲輪Ⅳの堀、壕が広く甦っていた、よく復元されて居ますが夏草に覆われていますが良く分かります。少し戻って外曲輪北虎口へ、虎口と土塁、Ⅳの堀も確認、夏草の葦の間を歩いていると、既に夏気分、此処三日、太陽に当たり腕は赤くなって日焼けがひどい。帰って来てから腕の皮が剥けました久しぶりの経験でした。

 夏草茂る真壁城-3/3 曲輪編に続く。
 

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イオ

武家地屋敷跡めぐり (2025/03/08 訪問)

(続き)

聚楽第の周囲には豊臣政権有力諸侯の屋敷が配されていました。もちろん往時の屋敷は残っていませんが、屋敷跡に石碑や説明板が立てられていたり、福島町(福島正則屋敷跡)や左馬松町(加藤左馬助嘉明屋敷跡)など、町名に痕跡が残っていたりするようなので、可能な限りめぐってみました。

木村長門守重成公旧舘地(京都市上京区長門町)
聚楽第南西部の弘誓寺が木村重成の屋敷跡で、山門外側左手に石碑が立てられています。また重成の官職名が町名に残っています。

豊臣秀勝邸跡伝承地(京都市上京区弁天町)
西部の土屋町通沿いの小さな祠の前に石碑と説明板が立てられています。この豊臣秀勝は秀吉の姉の子で浅井三姉妹・江の再婚相手の秀勝です。

上杉景勝屋敷跡(京都市上京区弾正町)
上杉景勝・直江兼続屋敷跡推定地(京都市上京区長尾町・直家町)
上杉景勝屋敷の比定地は2か所あり、有力なのは北東部の一条戻橋西入ルの弾正町(景勝の官職・弾正小弼にちなむ)ですが、南東部の毛利輝元屋敷(森中町)に東接していたとされることから長尾町(上杉氏の旧氏にちなむ)とする説もあるようで、それぞれの比定地に石碑と説明パネルが設けられています。また、長尾町説では南接する直家町に直江兼続屋敷があったと推定しています。直家町は宇喜多直家屋敷跡とも云われますが、直家は聚楽第築城のずっと前に亡くなっていますし、江戸初期まで直家町は「なおい」町と呼ばれていたらしく、「なおえ」が転じて「なおいえ」と伝わったとしても不思議はないかな、とも。

黒田如水邸趾(京都市上京区如水町)
北東部の一条通沿いに石碑が立てられています。また法名の如水が町名に残っています。

加藤清正邸跡伝承地(京都市上京区主計町)
東部の一条通沿いに石碑と説明板が立てられています。また加藤清正の官職名(主計頭)が町名に残っています。石碑は六角柱になっていて、正面の「加藤清正邸跡伝承地」の右面には「応仁の乱 洛中合戦勃発地」、左面には「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」、その左面には「筑前福岡黒田屋敷跡」と記されており、平安期以降の千年もの間、この地が様々な歴史の中心地だったことがよくわかります。

千利休居士聚楽屋敷趾(京都市上京区晴明町)
北東部の晴明神社が千利休の屋敷跡であり最期の地でもあります。四神門の南脇に石碑が立てられていました。また境内の晴明井は、利休が秀吉にふるまったり最後の茶を点てるのに用いた名水と伝わります。晴明神社もいつか行ってみたいと思っていたので、あわせて参拝しました。

この日の武家地屋敷跡めぐりはこんなところで。徳川家康邸跡を見落としてしまったのは悔やまれますが、その辺はまたの機会に。町名に名残を残すのみの屋敷跡はまだまだあるでしょうけど、考えてみれば、わずか8年しか存在しなかった城の屋敷跡が400年以上も後までその名を残し続けているわけですから、聚楽第が往時の京の人々にどれほど強烈なインパクトを与えたかを考えさせられました。


> しんちゃんさん

城めぐアプリの合戦イベントはお察しのとおり前田軍でした。特に前田利家が好きなわけでも、佐々成政が嫌いなわけでもありませんが、金龍紀行とかやってる身としては羽柴方の前田軍だよなぁ…ということで。ただ、そういう消極的な理由で参戦したのではあまり必死になれないんですよね。軍功もそこそこ止まりでした。
 

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赤い城

足守陣屋 岡山県岡山市 (2025/06/08 訪問)

城びと未登録の陣屋です。
観光用の駐車場があり、街並みも雰囲気があります。
駐車場から侍屋敷を見ながら陣屋通りを歩くと突き当たりに陣屋跡があります。
三方を水堀が囲み、内側は公園になっています。
隣接する近水園の池には水草が浮かび、桜や紅葉の季節には賑わいそうです。

足守藩の木下家の拠点ですが、戦国時代には備中高松城攻めの前哨戦の舞台になりました。
すぐ裏手には境目七城の宮地山城があります。
ここも未登録ですが遺構が良好とのことなので冬になったら登城しようかな。

【見どころ】
 ・陣屋を囲む水堀
 ・隣接する庭園、近水園
 ・足守の街並み

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:野間山城 (2025/05/26 訪問)

小谷城から車で30分くらいで、橋付近駐車空スペース(35.012913、134.896955)に駐車する予定でしたが、塞がれて駐車できませんでした。
しかたないので、登り口/案内板付近(35.012769、134.897707)の空スペースに駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1362年(正平17年・貞治元年)在田重友によって築かれたとされています。
在田氏は赤松範資の次男朝範を祖とする赤松一族とされます。
享禄年間(1528年~1532年)在田村長のとき、浦上村宗によって攻められ落城しましたが、村宗は1531年(享禄4年)に大坂の天王寺で討死したため、在田氏が野間城を回復しました。
宗晴の代の1575年(天正3年)には但馬八木城主・別所重棟によって攻められ落城しました。

要所要所にある石垣が実にすばらしいですが、郭間が登り下りがほんとしんどかったです。
また、途中に堀切もありました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=光竜寺山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:小谷城 (2025/05/26 訪問)

山下城からの車の時間は、途中まで中道子山城を目指していた為、不明です。小谷区公民館駐車場(34.941913、134.829007)に着きました。
そこから、遊歩道入口(34.943103、134.830584)に向かいました。


築城年代は定かではないようですが、赤松義則の養子で赤松満祐の義弟にあたる上原民部大輔祐政によって築かれたといわれています。
赤松則繁の善防山城とともに、1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱でで落城したようです。
天文年間(1532年〜1555年)には赤松刑部少輔祐尚が城主でしたが、1542年(天文11年)尼子氏との戦いで討死したようです。
戦国時代には宇野氏が居城していた伝わっているようです。

小ぶりながら、横堀、堀切、竪堀が重なり合ってとても見応えがあります。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=野間山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:山下城 (2025/05/26 訪問)

志方城から車で25分くらいで、常行院駐車場(34.903303、134.800111)に着きました。
計画では、志方城から中道子山城➡山下城の順番で攻城する予定でしたが、間違って山下城のGPS座標を入れてしまい、こちらを先に攻城しました。(着いてからきづきました)
常行院駐車場➡案内板前(34.903187、134.800619)を通り、入口付近(34.901716、134.800266)に向かいました。


築城年代は定かではないようですが、城主は浦上久松でした。
浦上氏は主家・赤松氏をしのぐほどの権力を誇ったといわれており、戦国時代には三木城の別所氏に味方しました。
1566年(永禄9年)頃に別所氏の兵站拠点基地として改修されましたが、三木合戦の際に織田氏の軍勢に攻撃され落城したそうです。

現在は整備されて遊歩道が設置されており、本丸跡には東屋が設置されています。
登城口の大堀切はすごかった。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=小谷城へ向かいました。
攻城の順番を間違えたので、この後、中道子山城に向かいましたが、手前の道で工事関係者に通行止めを知らされました。
遠回りすれば、中道子山城に行けると云われましたが、時間も押していたので攻城を断念しました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:志方城(城びと登録城の攻城=1500城目) (2025/05/26 訪問)

加古川駅でレンタカーを借り、車で20分くらいで観音寺駐車場(35.817728、134.821843)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に櫛橋氏によって築かれたと云われていて、黒田官兵衛の妻・光(てる)が生まれたお城です。
櫛橋氏は藤原氏の末裔で櫛橋伊朝を祖とし代々赤松氏の家臣であったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)に別所氏と結んで羽柴秀吉に対抗しましたが敗れて落城したようです。
落城後の1587年(天正15年)宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために観音寺を建立したそうです。

黒田官兵衛の妻「光(てる)」のふるさとと案内板に書かれていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=山下城へ向かいました。
ちなみに、城びと登録城の攻城=1500城目は志方城でした。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:神吉城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
宝殿駅から徒歩30分くらいで、常楽寺南側駐車場(34.794493、134.829361)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、赤松則村の子孫の赤松範次によって築かれた城で、範次の子である元頼が神吉氏を称すると以後代々、神吉氏の居城となりました。
神吉頼定が城主の1578年(天正6年)に「三木合戦」が起こると、頼定は同じ赤松氏一族の別所氏に味方したため、織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻められ落城しました。

自分は徒歩で攻城しましたが、周辺道路はすごく狭いので、車で攻城する人はとても注意が必要です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=志方城へ向かう前にホテルに戻って朝食を取る為、神吉バス停からバスで加古川駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:加古川城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)から徒歩15分くらいで、称名寺入口付近(34.768278、134.8310973)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に加須屋氏(糟谷)によって築かれたと云われて、播磨守護代である糟屋氏代々の居城でした。
糟谷氏は相模国大住郡糟屋荘発祥で藤原氏の末裔のようで、1184年(寿永3年・元暦元年)源頼朝に属して平氏討伐に功を挙げた有李が、播磨国印東郡南条郷を得たことに始まるそうです。
加古川城は播磨守護代である糟屋氏代々の居城で、「賤ヶ岳七本槍」に数えられた糟谷武則の居城でした
1577年(天正5年)には羽柴秀吉を中心に毛利氏討伐の軍議がこの城で開かれました(加古川評定)。
このとき三木城主・別所長治の代理で出席した別所吉親が秀吉と不仲となり、三木合戦の原因となったそうです。
この三木城合戦で糟谷氏は別所方と羽柴方に別れて、羽柴方についた糟谷武則は後の賤ヶ岳合戦で七本槍の一人と数えられ、加古川城を居城として35,000石を領したが、関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となりまし。

現在城址は称名寺の境内となっているようですが、朝早い為、山門は閉まってました。。
山門の屋根に高砂神社でも見た屋根に鬼がいました。それと山門前の砂地になぜ瓦の破片があるか謎です?
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=神吉城に行く為、加古川駅から電車で宝殿駅に向かいました。

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