今日学校帰りに鬼薗山城の横を通りました
今は奈良ホテルになっていて何もないですがかつて古市氏が筒井氏に備えるために築城したみたいです
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2025/06/06 20:29
奈良ホテルになった城 (2025/06/06 訪問)
今日学校帰りに鬼薗山城の横を通りました
今は奈良ホテルになっていて何もないですがかつて古市氏が筒井氏に備えるために築城したみたいです
+ 続きを読む
♥ いいね
8人が「いいね」しています。
2025/06/06 18:55
天候に恵まれて良かったです…☀ (2025/05/03 訪問)
横尾城からの転戦です。正確に時間を測ってませんでしたが,徒歩約60分くらいの感覚でした。結局,真田自治センター入口バス停から,横尾城そして洗馬城まで往路も復路も歩きました。しかも,復路では真田自治センター入口バス停で1時間待ち。そもそも,「最悪のパターンで計画しよう」と腹をくくらないと,攻城に踏み切れないと思います…。
個人的には,天候に恵まれてホント良かったです。雨男なので。
洗馬城ですが,ぜひ主郭背後の堀切,そして堀切から落ちる竪堀を(いろいろと想像を巡らせながら)散策してほしいです。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2025/06/06 14:09
2025/06/06 12:37
一歩前進。 (2025/03/20 訪問)
数年前の初登城時は焼米ヶ原と増長天礎石群、鏡ヶ池で時間切れとなってしまいました。
それはそれで満足しているのですが、百間石垣を見てみたいのと、何を見ても読んでも全体像が掴めないあの山の中が一体どうなっているのか自分の足と目で確かめたいという気持ちが募って再訪してきました。
麓の大宰府政庁から市民の森を経て岩屋城へ。
岩屋城からさらに進んで太宰府口城門へ向かいました。
太宰府口城門は前回下りなかったことを激しく後悔していたので、一も二もなく突進しました。
そして出会ったパラダイス✨
1300年の時を超えて今この姿を見、かの時代に思いを馳せることができる幸せを噛みしめました。
両袖に延びる石塁と土塁もまた目と心にぐっと迫り来るものがあり、強さに魅せられるというのはこういうことなのかと感じ入りました。
広々とした焼米ケ原。どこまでも続く青空。どこからでもかかってこい!な眺望。
版築模型や公衆トイレの新築工事など楽しく安心してお城を学べるサポートもありがたいです。
尾花礎石群、増長天礎石群に行きました。鏡ヶ池から大石垣まで遊歩道で行けそうなのですが、途中で案内がなくなり、わからなくなってしまいました。
土塁の工事をしているところがあり百間石垣まで通じていて一周できるのかな?とも思いましたが、行っていいのかどうかわからなかったのでやめておきました。
子供の国も人の気配がなく、ここから先どう行けばいいのか行き詰まってしまったので、仕切り直して車道から県民の森センターに行くことにしました。
県民の森センターでスタッフの方に見どころや安全に歩いていけるかどうか、所要時間などを伺い、いろいろ考えて車道から百間石垣へ行き、北石垣経由で戻ることにしました。
てくてく歩いていると自動車が2台停まっていたので何かあったのかな?と思ったら、そこが百間石垣でした!
こんな風に現れるとは思っていなかったのでびっくりです。
階段があったので登ってみるとかっこいい土塁が続いています。登山道の案内もあり、ここを歩けたんだろうなぁと思いましたが、全体像もルートも今ひとつ把握できていないビギナーの単独登城なので、今回は車道ルートでOKだったとしました。
そして北石垣に向かったつもりが「鮎返り滝」の案内につられて道を一本間違えてしまい、外側の遊歩道に行ってしまいました(ノД`)
そのおかげで北端の土塁を見ることができ、いい具合に小石垣(北石垣ではなく!)に出ることができたのですが、まあまあ彷徨うことになってしまいました。(しかもこのあたりは電波がない。)
見上げる小石垣は露出部分は少なめながら古城感を纏っており、暫し見惚れてしまいました。
「小石垣100m・北石垣290m」という案内があります。小石垣は目の前なのであれ?と思い、290m登るのはきついかもと少し躊躇しましたが、せっかくなので北石垣へも行ってみることにしました。ロープ伝いに登り、案内が立っているところを何度も見たのですが、草に覆われた行き止まりのロープの先だったのか確認はできませんでした。
そろそろ戻ります。
北石垣から主城原に遊歩道が延びていたので、通り損ねた百間石垣への土塁ルートではなくこちらを通ることにしました。
静寂の中の礎石群。
迷ったり悩んだり間違えたりしてたどり着いたので、導かれたんだなぁという気持ちになりました。離れがたいです。でもここにとどまり続けるわけにはいかないので“また来るね”と言ってあとにしました。
遊歩道をずんずん歩いて県民の森センター近くに抜け出しました。疲れていたらタクシーを呼ぼうと思っていたのですが、あとは帰るだけだから平気だろうとまた車道を焼米ヶ原に戻り、そのまま太宰府駅へくだりました。なかなか遠くて、ここがいちばんきつかったです。
行く前は謎だらけで全体像もイメージも全く把握できなかった大野城。
完璧には程遠いながら歩いてみて大枠で掴めた気がします。次回の目標もできました。
帰宅後、改めてみなさまの投稿を読むと、書かれていることがものすごくよくわかりました。
ー登城体験を共有できた喜びー。
これが城びと投稿欄のいちばんの意義なのではないかと思いました。
そして、まだまだ行ける、行ってみたいところをリストアップすることができました。みなさまの現地情報のおかげでますますお城めぐりが楽しくなってきています。改めてお礼申し上げます。ありがとうございます🙇♀️
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2025/06/06 08:28
綺麗な復元天守と好きなこうの史代の原画 (2025/06/01 訪問)
6月1日ずっと行きたっかた福智山城に行きました。
大量の転用石をじっくりみながら天守に行きました。
天守は複合・連結式望楼型の綺麗な復元天守でした。そして天守に登り明智光秀の展示を見大好きな映画『この世界の片隅に』の作者の
原画を見ることができました。
帰り黒井城と鬼ヶ城に行きました。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2025/06/06 08:21
2025/06/06 07:09
ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑦ (2025/05/05 訪問)
4連休の最終日には所用が入っていたため、この日が因幡の城めぐりの最終日となります。本当は、市場城もターゲットにしていて鳥取県の城びと登録城、一気にコンプリートしてしまうつもりでいましたが、続100名城のスタンプ帳を忘れてしまったため、若桜鬼ヶ城攻略を来年以降に先延ばしすることにしました。かなり手ごわそうな市場城は、若桜鬼ヶ城の比較的近くに所在していますので、その折に攻略したいと思います。ということでこの日は鳥取城のみに専念することになりました。今年のゴールデンウイーク後半の目的地を鳥取県にしたのは、鳥取城にてこのたび渡櫓門が竣工し表門と共に中ノ御門となっている桝形を拝むためでした。ホテルの朝食をいただいて、7時にはチェックアウト。7:10の段階では、まだ県庁の吉川経家像前の駐車場もガラガラです。青空のもとで、竣工したばかりの渡櫓門、4月26日に開門式が行われた中ノ御門を拝むことができました。擬宝珠橋を渡るのも今回が初めてです。初めて鳥取城に来た20年以上前に比べると、鳥取城の整備がかなり進んでいてうれしい限りです。天球丸まで脚を伸ばしてから、山上ノ丸へと進みます。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2025/06/06 06:27
目立つ模擬天守 (2025/05/28 訪問)
遠くからでも存在感を持つ模擬天守、河原城の案内板があります。
秀吉が鳥取城を攻める際に陣を置いたとされます。
麓から散策路が整備されていますが車でも山頂まで行くことができます。
広い駐車場もあり、眺望も良いですが遺構は無さそうです。
曲輪の跡っぽい部分や竪堀っぽい地形もありますがおそらく違うでしょう。
主郭から駐車場を挟んだ反対側には古墳がありました。
物見の役割もあったのかな?
朝早かったので模擬天守内には入れず、おとなしく仕事に向かいました。
【見どころ】
・山頂からの眺望
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2025/06/06 01:33
2025/06/05 21:31
北の高城神社は眞城跡とされる。 (2025/05/07 訪問)
月山日和城は高城町の市街地の北の丘陵上にあり、慶正寺の西側、内の城・池の城のあたりに模擬天守が築かれています。北を堀切道が東西に走り、その北側の丘陵上も城址になります。最も訪問しやすいのが眞城(西の城)とされる高城神社のある郭で、南側は厳しい切岸になっています。眞城の東に本城、中の城と呼ばれる二つの郭が有ったようですが、現在は原型を留めていないようです。その東には樽原と呼ばれる比高15mの扁平地があります。
後醍醐天皇の初年(1318)肝付八郎兼重が三俣院司としてここに在し、暦応3年(1340)南朝方として畠山直顕の大軍と戦いました。兼重は家臣・江田家定の犠牲によって落ち延び、本城である肝属(鹿児島県)の高山に帰り着くことが出来たようです。
延文3年(1358)肥後の菊池武光が城を奪取し、明応4年(1495)には伊東氏の城となり、八代長門守が置かれました。天文元年(1532)島津氏が伊東氏の八外城を奪回にかかった際には、島津氏に従う都城の北郷氏に落とされ、天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を統一した際には都城を伊集院氏に与えたので、その支城となったようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2025/06/05 21:15
小林城 (2025/06/05 訪問)
愛知県名古屋市にある城址です。清浄寺一帯が跡地で、城びとには未登録です。
天文17年(1548年)頃、尾張国守護斯波氏の一族牧下野守長義が築いたと伝わっています。子の長清は織田信長の妹「おとくの方」を娶っています。「おとくの方」は姉妹のお市の方と同様に美人の誉れが高く「小林殿」と呼ばれていました。長清は老後、仏門に入り、死後、廃城になったとされています。
跡地は尾張徳川家2代光友の時、剣術指南役となった柳生兵庫助利厳の屋敷となりました。その後は1701年清浄寺が建立され現在に至っています。境内には小林城主牧氏の墓があり、石碑、説明板があります。遺構はありません。
名古屋市の中心地である栄から近く地下鉄矢場町駅から徒歩5分で行くことができます。栄付近に所用があり、帰りに立ち寄りました。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2025/06/05 20:40
飯盛山城の支城 (2025/05/31 訪問)
野崎城は慈眼寺の裏山の標高114.4m(111とも)・比高約80mの位地に築かれています。河内守護畠山氏の内紛の際に、畠山義豊が尚順の籠る野崎城を攻めたという記録があるようです。また若江城の支城として守護代の遊佐氏の一族が守っていたともされ、飯盛山城が築かれた後は、その支城(出城)となったようです。
また現地の案内板には「太平記」に、四条畷合戦(1348)において北朝方の縣下野守が、ここに陣を敷き、南朝方の楠正行と対峙したと記述があるとしています。主郭の西に二つの郭を持ち、主郭は二段になっていて、上下に展望所があります。主郭の南東には長さ10mほどの堀切が有り、そこから降って行くと、その先にも郭が有るようです。北西の尾根上にも郭があり、主郭の他に4の郭を持っています。
今回は吊り橋を渡って石造九重層塔のある郭に戻ってから下山しています。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2025/06/05 19:47
信貴山城の出城、かつては4のエリアで構成される要衝だった。 (2024/11/10 訪問)
立野城は現在は城山台第二児童公園になっていて、その上の墓地も城址に含まれます。墓地の写真をはしょっていますね、申し訳・・。
とはいえ、現在城址はかつての姿を留めてはいません。かつては信貴山ケーブルの下駅近くの張りだした丘陵上に築かれていて、信貴山旧参道を挟んで、南側に二段の郭、北側に三段の郭と帯郭を配置し、北東に枡形の様な馬出を備えた郭があり、さらに北東に櫓台を備えた広くて長い郭が有ったようです。概ね、4のエリアで構成されていて、それぞれに土塁や堀などを備えた要衝と呼ぶにふさわしい城郭であったようです。できれば、その状態で見たかったとは思いますが、時代の波には逆らえないようです。
至徳元年(1348)には大乗院方の立野氏の居城であったとされ、戦国時代の城として完成されたのは永禄年間(1558~70)の末頃、松永久秀の信貴山城の出城としてのようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2025/06/05 19:46
尼子十砦8城目 (2025/03/30 訪問)
【高守山城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡南側の道路幅の広い場所の道路脇に駐車しました。ストック要です。
<交通手段>車
<見所>曲輪段
<感想>日帰り尼子十砦旅2城目。案内から。登城口は<35.334191, 133.276565>ちょうど向かいの民家の方が出ていましたので、お声がけして「結構荒れていますよー」との事、自由に入ってもOKな感じでした。登城口のスロープを上がって、椎茸栽培の木が集められた左手の谷から北に向かって登ります。倒木はあるものの、何となく道になっているので登れます。登り切る最後の方は斜面が急なので木や竹をつかみながら登り切ると、城跡の東側の大堀切に出ます。大堀切北側は植林整備された土地で、大堀切東側の尾根上は削平されていますが城跡かどうかは分からない感じでした。大堀切から西に向いて高い切岸を登ります。垂らしてある灰色の細いロープが埋もれていたので掘り出しておきました。切岸を登り切ると連郭曲輪の2段目の側面に着きます。
城跡は概ね5段の連郭式で3段目あたりから、北から西側にカーブして4・5段目は西に向いています。主郭は南側が低い段があり2段構造となっています。主郭は広いようですが、北側ほど笹が鬱蒼としていて、背をかがみながら進まないと行けません。主郭の北側はスロープ状に下っているようですが、進めそうになかったので引き返しました。砦とはいえ、この地方独特の連郭式のなかなか良い城跡でした。
<満足度>◆◆◇
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2025/06/05 18:40
主郭エリアに何か案内が欲しいです… (2025/06/01 訪問)
足軽屋敷通りは普通の住宅街に見えました。不審者に疑われると面倒なので,撮影はしませんでした。また,登城口のネットは開放中でした。たまたまだと思いますが…。たぶん,広大な山の中全体が城域だったのではないかと感じて,ウロウロウロウロと散策しましたが,祠のひとつも見当たりませんでした。期待していると,疲労感だけが溜まると思います…。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2025/06/05 08:28
上有知散策 (2025/02/01 訪問)
(続き)
小倉山城に続いては、金森長近が開いた上有知の城下町を散策しました。
上有知湊(美濃市港町)
現在よりも下流にあった川湊を、長近が小倉山の麓に移して整備したもので、長良川水運の拠点として城下町の繁栄を支えました。住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられた川湊の灯台が現存しています。
清泰寺(美濃市殿町)
上有知金森氏の菩提寺で、二代・長光の墓所のほか、寺内社・金森大権現として初代・長近が祀られています。また、廃寺となった以安寺から移された鉈尾山城主・佐藤氏二代の墓所もあるようです(未確認)。
上有知城下町
水害を受けた長良川近くの町(古町)を、長近が小倉山南麓の台地上に移住させて開いた城下町で、美濃和紙の産地として、また上有知湊による物流の拠点として繁栄しました。美濃和紙により財を成した豪商たちが競うように町家に設けたうだつがあちこちに見られる「うだつの上がる町並み」として知られ、重伝建地区に選定されています。
教泉寺(美濃市東市場町)
城下町の南側に位置し、廃城後に城跡に置かれた尾張藩上有知代官所の門が山門として移築されています。また「命のビザ」で知られる杉原千畝の生誕地でもあり、千畝が生まれた借間は現存しませんが、山門前に案内板が立てられていました。
旧名鉄美濃駅(美濃市広岡町)
平成11年に廃駅になった旧名鉄美濃駅の駅舎・プラットホーム・線路が保存され、往時の車両が展示されています。小倉山城には全く関係ありませんが、美濃市出身・野口五郎の「私鉄沿線」の舞台とのことで(記念碑もあります)、ついでに立ち寄ってみました。
美濃上有知のみならず、越前大野にも飛騨高山にも城下には長近が開いた町割りが今なお残っていて、長近や金森氏がそれらの地を去った後も繁栄し続けたことを思うと、長近がまちづくり名人と評されるのも大いに頷けるものがあると改めて感じた上有知散策でした。
この後、上有知とあわせて長近の隠居領となった関(の関城)にも行く予定でしたが、鉈尾山城と上有知散策に時間をかけすぎたので、またの機会に。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2025/06/05 07:15
ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑥ (2025/05/04 訪問)
因幡新山城からの転戦です。鳥取市内には、防己尾城の近くの六反田にも丸山城があり、河原城も城びとの登録名は「丸山城」で紛らわしいことこの上ありません。今回向かったのは、丸山町の丸山城です。国道9号沿いで給油をしてから向かったのですが、覚寺交差点の先の国道9号バイパスが通行止め(おそらく事故が原因)となっていて大渋滞に巻き込まれてしまいました。ほんの3kmほどの距離を進むのに1時間以上、かかってしまいました。諏訪湖花火大会の帰路を上回るわが人生最悪の渋滞でした。肝心の攻城は、城郭放浪記さんの写真で迷うことなく登城することができました。なだらかな山頂部にわずかながらも土塁を確認することができました。渋滞のせいで、ホテルのチェックインは少し遅くなってしまいましたが、日が長くなってきていて助かりました。できたばかりの東横インに泊を取りました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2025/06/05 06:55
錦水公園 (2025/05/19 訪問)
アドベンチャーワールドのパンダが中国に返還される前に一目見ておこう、と大阪から白浜へ足を伸ばしました。
平日なのに人が多かったです😅
パンダだけでなく展示が充実していて楽しめました。
その帰り、近くの田辺城へ立ち寄りました。
その前に世界遺産に登録されている闘鶏神社へ。
その境内には田辺城主だった安藤直次を祀った藤巌神が建てられています。
田辺城は会津川河口に築かれましたが現在は水門と石垣が残るくらいです。
この水門付近は錦水公園として残っていて駐車場もあります。
周辺を散策してみましたが宅地化されています。
どこかに石垣が残っているはずですが確認は困難でした。
【見どころ】
・水門と石垣
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2025/06/04 22:33
2025/06/04 22:18
湯浅宗藤 (2025/06/01 訪問)
有田川町(旧清水町)には三つの阿瀬川城が有るようです。一つは城びとの城である杉野原の城。二つ目は清水にある城。八幡神社の裏山とされるので、あさんが初投稿を取った清水城のことだと思います。城郭大系の縄張り図には北側の二つの堀は記載が無く、かつては南の郭を横切るように堀切が設けられていたようです。
三つ目は黒石山の南西中腹・比高70mの位地に築かれた山城とされています。
話を杉野原の阿瀬川城に戻します。阿瀬川氏の居城の一つで有田側が大きく蛇行している地形の南東の丘陵部に築かれています。周囲を切岸に囲まれていて、南側は特に急になっています。頂部に広い主郭があり、東部に一段高い場所があり神社が祀ってあります。土塁も付いてますが神社のものかどうかは不明です。地元のお母さんの話や、城郭大系の記述から周辺に堀切も有るようなので、戦国時代にも砦として使用されたのかもしれません。
阿瀬川城は清水城を本城とする保田氏に支城として使われたようです。後に楠木正成に従って幕府軍と戦った湯浅宗藤(阿瀬川孫六)は保田氏の子孫とされています。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。