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小城小次郎

タダモノではない感はある (2023/04/22 訪問)

堂々たる石碑はタダモノではない感が漂っているが現地には何もない。しかし畠山氏有力被官の遊佐氏に始まり椎名氏や佐々氏などの重鎮が守りを固め上杉氏や前田氏によって都度落とされてきたその歴史はやっぱりタダモノではない。

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刑部

連郭式山城 (2023/11/04 訪問)

麓に駐車場とトイレがあります、そこから舗装された上り坂をしばらく登ると城址入り口に迷わず着きます。
余り聞かない城址と侮り主郭部へ
町の人が大勢で城址を整備してました凄い!
縄張りがほぼそのまま現存しており、中世山城と戦国時代の山城らしく遺構が良好に保存されています。想像以上に立派で見応えありました!

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刑部

牧野城 (2023/11/04 訪問)

お天気が良く訪問しやすい日よりでした。
結構、家族で来てましたね。
ここの遺構は丸馬出しのオンパレードで、ワクワクしながら歩いてました。空堀はかなり深く残ってます。土の城が好きな人は楽します!

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AJ

七尾城被害状況(※写真は被災前) (2019/08/21 訪問)

まずは被災された方々の生活が1日も早く再建されることを切に願います。その上で、またいつかあの絶景を眺められる日が戻ってくるよう、微力ながら応援したいと思います。

被害状況〈北國新聞記事〉→ https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1285926

以下、過去投稿の再掲です(*写真は2019年8月撮影)

【戦国最強決定戦 -序-】

1年に及ぶ包囲戦の末にようやく七尾城(石川県七尾市)を落とした上杉謙信は、本丸のある山頂からの絶景に感動して漢詩を詠んだそうです。軍神と謳われた男の、一風変わった喜びの表現だったのでしょうか。裏を返せば、この城攻めがいかに難しかったかを物語っているのかもしれません。

石動山系に位置する城山の7つの尾根に築かれた能登畠山氏の大要塞。格式高い三管領家の分家にふさわしく、当時は三の丸手前の曲輪で衣服を整えることが求められたとか。各曲輪は大小の堀切で遮断され独立性が高く、至る所に大がかりな石垣が積み上げられています。注目すべきは本丸前面。2mほどの野面積の石垣を階段状に積み上げることで、当時はまだ未発達だった高石垣の代わりとしたようです。本丸最高部は標高300m。謙信が眺めたであろう七尾湾を一望できます。

アクセスには市内循環バスが便利。JR七尾駅から15分ほどで山麓の資料館まで行けます。また、駅構内にはレンタルサイクルもあります。

さて、この城攻めに際し、一度は兵を引くことを余儀なくされた謙信。その後、力攻めは諦め、彼にとっては珍しく、調略で仕留めたそうです。能登を押さえることで、越中から加賀に侵攻していた上杉勢は後顧の憂いなく越前の織田方と対峙。武田信玄はすでにこの世を去っており、ここに戦国最強決定戦の舞台が整ったのです。

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todo94

御城稲荷神社 (2023/12/09 訪問)

御城稲荷神社が本丸にあたり市の史跡に指定されています。神社の裏手にちょこっと土塁が残っています。神社北東の水濠跡も確認できました。離れた場所にまだ土塁が残っているようなのでいつか確認してみたいと思います。

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イオ

陣跡めぐり(伝織田信長陣~×伝佐久間信盛陣) (2023/11/04 訪問)

(続き)

伝堀秀政陣から大曲輪を経て伝織田信長陣へ。伝織田信長陣は南北に続く主尾根に設けられた5つの曲輪からなり、最高所が主郭です。主郭の南東部には長桝形虎口が開口し、虎口の先に石碑と説明板が立てられています。長桝形虎口に掲示された推定復元図を参考に南東麓に下りて行くと、帯曲輪があり土塁が遺っていました。

帯曲輪から東にのびる支尾根には伝佐久間信盛陣があったようなので行ってみましたが、藪に沈んでいて下りて行く道が見当たらず、さらに道中に熊か猪か大きな獣のフンを見かけたためやむなく撤退…。

伝織田信長陣の主郭まで引き返して北麓に下りて行くと、西側に大きな竪堀が落ち込んでいました。竪堀の先には信長馬場と呼ばれる細長い曲輪が北にのび、伝木下秀吉陣に至ります(続く)。
 

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しんしんちゃん

宝寿台。 (2019/08/12 訪問)

霊山城の周囲には幾つもの出城がありますが東の出城にある巨岩・宝寿台の上からは周囲を良く見渡すことが出来ます。梯子がかけてあって上まで登れますが高所恐怖症の人には少し厳しいかもしれません。霊山城自体が玄武岩質の絶壁に囲まれた天然の要塞になっています。

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しんしんちゃん

陸奥の国府が置かれた山岳寺院。奇岩がそびえる堅固な山城でもあった。 (2019/08/12 訪問)

霊山城は玄武岩の奇岩がそびえ立つ霊山山頂部に築かれています。貞観元年(859)に慈覚大師円仁によって築かれた南岳山山王院霊山寺が置かれていましたが堅固な山城でもありました。本城や国司館を中心に周囲に出城を配し、東の最高所には宝寿台と呼ばれる展望所があります。奇岩が造りだす絶景は迫力満点で攻め手の兵士はさぞかし肝が冷えたことと思います。
建武4年、北畠顕家が幼少の義良親王を連れて霊山の山頂寺院に入りこの場所に陸奥国府を移したとあります。顕家は霊山入城後8ヶ月で親王を奉じて西に向かい転戦の末に和泉国石津で一族と共に憤死したとされています。

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塩川氏の城 (2024/01/11 訪問)

 古城山の山頂部から派生する2本の尾根に曲輪を配置し、背後を2重の堀切で守られた城です。東側の尾根に登城路が設けられています。西側の尾根にも階段状の曲輪が展開していることは主郭近くから見るとわかりました。主郭背後の堀切と竪堀は良好に残っています。自分的には一番の見どころだと思います。さらに尾根を歩いていると浅くなっていますが、堀切とおもわれる地形を見ることができます。
 主郭等に設置してある機器から出る獣除けの音は気になりますね。
向山に出城があります。尾根を介して行こうとしたのですが、途中藪になっている所があり、丁寧に道を探せばあったかもしれませんが断念しました。

能勢電鉄山下駅から徒歩10分くらいで登城口に着きます。

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しんしんちゃん

梁川城と並ぶ伊達氏の本拠。 (2019/08/12 訪問)

桑折西山城は西方を除く三方を産ヶ沢に囲まれた高館山に築かれています。大手門から本丸に至り、西に二の丸、その先に中館・西館があるようで広大な城域を持っています。
文治5年(1189)源頼朝と藤原泰衡が衝突した奥州合戦にて功のあった中村常陸介朝宗が伊達郡を与えられ伊達氏を名乗ったとされます。その後、官道の要衝たる伊達郡桑折の近くに赤館を築いて移ったとあります。天文元年(1532)に梁川城から西山城に移ったとする記述もあるようで柳川城と桑折西山城は伊達氏の本拠とされているようです。伊達稙宗・晴宗父子における親子の争乱(天文の乱)では戦場となり周囲の豪族の仲介と将軍足利義輝の命により和睦が成り、その条件の一つとして西山城は廃城となり晴宗は家督を継ぎ米沢に移っていったそうです。

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ぴーかる

小川城 (2023/11/25 訪問)

【小川城】
<駐車場他>城跡前歩道奥に3台分ほどあり。
<交通手段>車

<見所>空堀
<感想>2泊3日松本・佐久・吾妻の山城攻めの旅3日目ラストの13城目。現地説明板によると小川城は1492年に沼田荘田城主沼田景久が築城したとあります。景久は2男の景秋を住まわせ小川城初代城主となります。その後4代目が戦死して断絶しますが播磨の赤松則村の末裔と称する浪人が後家と婚姻して上杉謙信の後ろ盾を得て小川可遊齊と名乗ります。真田昌幸が名胡桃城進攻時には協力して戦います。武田氏滅亡後は可遊齊は越後に浪人し、門葉の北能登守が居城します。秀吉の北条攻めの前には北条氏の家臣が城代として入ります。江戸時代には上野沼田藩4代当主の真田信澄(信利)が三の丸陣屋に沼田城主になるまでの18年間過ごしたとされます。
 本丸と本丸周囲の堀が残っており、二の丸跡・三の丸跡は国道や畑に変わってしまっています。本丸部分は利根川の河川丘陵の断崖部分に造られ北と南側に深い大堀切を備えています。構造的には名胡桃城とよく似ています。二の丸跡と本丸跡を仕切る空堀は深く見応えがあります。本丸の東側土居やささ曲輪との曲輪壁には一部石積みが残っています。丸っこいので利根川河岸からの物と思われます。

 これにてこの旅終了、松本市にある行きたかった山城群に大満足、また小諸城・名胡桃城、この小川城のような河岸段丘に築造された、関西ではあまり見慣れない城跡に触れられてまた1つ勉強になりました。走行距離1200㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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しんしんちゃん

未完の城。 (2019/08/12 訪問)

神指城は阿賀野川の東側に位置しています。会津に移封になった上杉景勝が慶長5年に直江兼続に工事を命じ、兼続が普請奉行を務めました。上杉領内から人工を集め、その数8~12万人とも言われかなり大規模な工事だったようです。徳川家康の会津攻めにより工事は中断となり結局は完成には至らず景勝が米沢に移封となった後は放棄されたようです。
城域の北東端に国天然記念物の高瀬の大木があり、その周囲に土塁が良好に残っていました。南西が二の丸跡で水田が広がっています。

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しんしんちゃん

南奥羽支配の拠点の一つ。 (2019/08/11 訪問)

三春城は永正元年(1504)に田村義顕がこの地に本拠を移したとされ、その後三代続きますが天正14年(1586)に清顕が急死すると娘婿の伊達政宗の後見で清顕の甥、宗顕が城主になりました。田村氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかったため改易となり、桃山時代から江戸時代の動乱期に城主は次々と変わりますが寛永5年(1628)加藤嘉昭の娘の子である松下長綱が三万石で入り近世城郭として整備がなされたとのことです。
現在は平山城の形態をしていて最高所一帯に本丸と奥跡(御座の間)が配され、北西に二の丸跡、南東に三の丸跡があり南側一帯に重臣屋敷が配されていたようです。

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チェブ

常在戦場。 (2023/12/06 訪問)

右手に「大胡城」の石碑があり、車がすれ違いできない位のトンネルを抜けると、いきなり二ノ丸に到着しました。
ちょっと、暗めな四角いトンネルです。まさか、こんなに広い「大胡城」に着くとは思いませんでした。

大胡氏が築いた「大胡城」。
横瀬家に奪われ増田氏。
上杉家に奪われ北条氏。
武田家が侵攻し大胡氏。
武田家が滅亡すると織田家の滝川氏。
本能寺の変が起こり北条家。
北条家討伐され徳川家の、牧野 康成さんが城主を勤めました。

二ノ丸には何台か車が駐車してました。
郭は、高い土塁が守っています。
虎口から幅広い土橋を渡ると、両側に深い空堀。水の手門近くには石積みもあります。
これだけ、取った取られたを繰返した「大胡城」ですから改修も、深~く 高~く 広~くしたに違いありません。

牧野氏の家訓でもある『常在戦場』。
常に戦場にいるような心持ちでいると、「大胡城」のようなお城が出来上がるのでしょう。

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WEST

安祥城探訪 (2024/01/05 訪問)

安祥城を訪問しました。ここは安城松平家の居所であり、あの徳川家康とゆかりのあるお城となります。
城址を含めて歴史博物館、埋蔵文化センターとが一体に整備されており、安城市の歴史を含めて知ることができます。
駐車場も広く、自動車でのアクセスもし易いです。
昨年は大河ドラマの放送の影響か、企画展の開催やパンフレットの整備などが充実していました。訪問する側ではありがたい取り組みですね。
現在は、本丸跡には大乗寺、二の丸跡は八幡社となっています。散策途中に安城城の縄張りの案内図がありましたが、原図:千田嘉博先生との記載がありました。
岡崎城のある岡崎市とは隣接しており、是非訪問してみてください。

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WEST

刈谷城探訪 (2024/01/05 訪問)

刈谷城を訪問しました。刈谷城は別名亀城と呼ばれており、徳川家康の生母である於大の方がいらした水野家のお城です。現在は亀城公園となっています。駐車場も広く、自動車での訪問をお勧めします。
近くに刈谷市歴史博物館があり、刈谷城の立地、縄張等がジオラマ等で分かります。登城の前に立ち寄ってみるのも良いと思います。
刈谷城は明治時代にほとんどの建造物が解体されましたが、現在は公園として整備され、本丸跡、帯曲輪跡、水堀の一部を見ることができます。
また、ここでは刈谷城ARを実施しており、4箇所のスポットにて往時の姿をCGで再現してくれます。スマホにて確認してみましょう。
なお、刈谷城は隅櫓や石垣、城門他を復元計画がありますが、残念ながら現在は停滞しているようです。

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WEST

名古屋城探訪 (2024/01/04 訪問)

新年、名古屋城を訪問しました。6年振りの訪問です。
今回の訪問では、タイミングが良く重要文化財の西南隅櫓が内部見学できました。今年は1月上旬のみの期間限定のようです。
西南隅櫓は、現存する3基の隅櫓の一つとなります。二層三階の櫓で内堀越しからみるとなかなか立派なものです。
三階は荷重制限にて上がるのは人数限定となり、少々並び待ちましたが内部見学ができて良かったと思います。
ところで、城内から望む天守閣は威厳と風格がありますね。何度訪問しても良いお城かと思います。

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イオ

陣跡めぐり(伝堀秀政陣) (2023/11/04 訪問)

(続き)

伝滝川一益陣から下った先に堀切があり、その先が伝堀秀政陣です。櫓台状の円墳をはさんでまた堀切。さらに円墳をはさんで今度は横堀と竪堀が設けられています。横堀を見下ろす位置には礎石建物があったようで、高床建物の一部がベンチとして復元されています。礎石建物跡から堀切をはさんで伝堀秀政陣の主郭があり、円墳を改修した主郭には石碑が立てられていました。主郭の西側には帯曲輪、小郭、犬走りが取り巻いています。

伝堀秀政陣は円墳を活用して幾重にも堀を設けた陣跡で、一気に城郭らしくなってきました(続く)。
 

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todo94

空堀土塁を見落とした (2023/12/09 訪問)

館跡ということで油断していました。空堀、土塁があったとは。皆さんの投稿をチェックしておけばこんなことにはならなかったのに。いつか再訪したいと思います。「妙」の字が付く寺はたいてい日蓮宗で、妙徳寺には、日蓮の銅像がありました。

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しんしんちゃん

各郭を隔てる巨大な堀切に幾つもの橋が架かっている。 (2019/11/03 訪問)

小山城は藤原秀郷の子孫である小山政光によって平安時代末期に築かれたとされています。かつては鷲城の支城でしたが、小山氏が足利氏満と対立して敗れ、嫡子若犬丸も会津で自害し小山氏が滅ぶと同門の結城氏が小山氏を継ぎ戦国期には小山城を本城としたようです。
小山城は思川の東にある台地上に築かれ、駐車場となった中久保郭から橋を介して城域に入り込みます。現在表示されている郭名は城郭体系に記載のあるものとは異なっており 本丸(大系)⇒中田曲輪・馬出(現在) 二の丸(大系)⇒本丸・二の丸(現在)と変わっています。特にかつて本丸とされていた部分が馬出に修正されている部分は興味深いものであり、時代が進んで研究が進んだ成果だと思います。各郭を隔てる堀切は橋を架けなければ渡れないほど大きく深い物であり公園化してはいるものの小山氏の本城のスケールを感じ取ることが出来ます。

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