菖蒲城は康正2年(1456)古河公方足利成氏が金田式部則綱に命じて築かせた城です。城名の由来は竣工が5月5日の菖蒲の節句の日であったこととされ、豊臣秀吉の小田原攻めの後に廃城となり、徳川家臣内藤正成が付近に栢間陣屋を築き、5700石でこの地に入りました。
城址の中心には城址碑が建ち、周囲にはあやめや花菖蒲が35000株植えられています。菖蒲はないのかな?
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2024/12/15 10:36
2024/12/15 09:31
地球回廊 (2021/03/21 訪問)
岐阜県瑞浪市の地球回廊は令和3年3月31日を以て、老朽化のため終業しました。竹下政権のふるさと創生事業交付金の一部を使って、旧陸軍の地下壕を利用して築かれています。航空機製造の疎開工場として彫られていて、全長は240mに及びます。トンネルにも歴史が有って、原始時代の人は天然の洞穴を野生動物から身を守るために利用し、中世は金や銀を採掘するために掘り進み、近代は防空壕や疎開先として利用と‥人は進化しているのか、してないのかわからなくなりますが、中世の戦乱の時代にも襲撃を受けた人達がこうした洞穴などに逃げ込んだりしたのではないでしょうか。そういえば石田三成も関ヶ原の合戦で敗れて「大蛇(おとち)の洞窟」に潜んでいましたね。
地球回廊は広い坑内に地球の生物の歴史の展示や、全長27mにもなるディプロドクスの骨格標本などが飾られていました。
個人的には、施設として残しておいて欲しかったですが、やむをえない判断だったと思います。
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2024/12/15 09:18
香川元太郎先生
香川元太郎先生の訃報に接し、謹んで哀悼の意を表します。
先生の絵に出合ったのは「戦国の城 目で見る築城と戦略の全貌<上>関東編」でした。詳細な城の状況に加え、城下町や周囲の山などが描きこまれていてわくわくしながらページをめくっていたことを覚えています。先生が描くお城の世界に引き込まれ、多くの城址にも足を運ぶようになりました。今でも先生の絵は私のお城巡りの推進力です。
本当にありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り致します。
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2024/12/15 09:08
石見銀山遺跡とその文化的景観 龍源寺間歩 (2013/10/05 訪問)
世界遺産・石見銀山遺跡は坑道の他にも、集落全体や山城なども構成要素にふくまれていますが、やはりメインは坑道跡だと思います。
坑道は複数存在しますが、常時見学が可能なのは龍源寺間歩だけです。私は以前は洞穴などに入って探検するのも好きでした。何が出てくるのか分からないので、今は城めぐりが主体ですが、地元豊橋の「嵩山の蛇穴」に入ったこともあります。
龍源寺間歩は長さは600mほどで大久保間歩に次ぐ長さです。2007年に世界遺産に登録され、アジアでは初の鉱山遺跡とされています。入口は北側、出口は南側と別々になっています。
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2024/12/15 01:04
香川元太郎先生のご冥福をお祈りいたします… (2024/11/03 訪問)
イオさんの投稿を拝見し,香川元太郎先生の訃報を知りました。謹んでお悔やみ申し上げます。実際にお会いしたことはありませんが,お城の復元イラストは心に残ってます。「日本100名城かるた」にはお名前があるのかな…?
除細動器を植え込む手術を19日に控えていたとのこと。残念でなりません。
さて,奥牧野城ですが,完全ににのまるさんの足跡を辿らせていただきました。詳しく投稿していただき,深く感謝申し上げますm(__)m
藤野駅から舟久保までの路線バスですが,往路は9時台と11時台に運行がなく,復路は10時台~13時台まで運行がありません。なので,午後のほうが攻城リスクが少ないと判断しました。
実際には,往路は藤野駅13:12発,復路は舟久保15:32発を利用しました。舟久保バス停から奥牧野城までは,徒歩約30分です。ご参考までに。
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2024/12/14 23:14
境目って難しい (2024/03/03 訪問)
光岡城の主であった赤尾氏は豊前に勢力を張った原田氏の庶流だそうで、なるほどここが豊前の端っこなのかと妙に合点したのだが、大友氏についた途端に大内(毛利)方についた近隣諸氏に攻め落とされたらしい。境目って難しい。
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2024/12/14 22:58
出丸石垣 (2024/02/07 訪問)
「山城へ行こう2024」二日目のスケジュールが終了し、まだ明るいうちに金山城へ行くことにしました。4回目の登城になりますが、せっかく可児市に来たので寄って見ようかな‥と。じつは金山城には気になる箇所があって、前回出丸の石垣を見た際に、これは後世に積まれたものだと思ったので奥の方までは見ていませんでした。可児市の文化財課の方に伺ったところ、手前側は確かに積み直されたものだけど、奥手の方は古い石垣だということでした。
今回は予備知識があったので、出丸の奥側の石垣まで見に行っています。紅葉もまだ綺麗だったし、見に来た甲斐があったと思います。
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2024/12/14 22:08
山城へ行こう2024で登城 (2024/12/07 訪問)
今城は小規模な平山城でありながら、枡形虎口や堀切、土塁、切岸、竪堀と山城に必要な遺構をすべて備えた城として評価の高い城です。地元の方々が整備に積極的に携わってくれているので、訪れやすいところも魅力の一つです。
香川先生の訃報は非常に残念ですが、残された人たちが香川先生の分まで、城址保全や城ブームの盛り上がりを支えていくことが重要だと思います。微力ながら自分にも何が出来るのか改めて考えてみたいと思います。・・「お城かるた」を購入することもその一環になるのかな? どうなんだろう?
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2024/12/14 21:48
ご冥福をお祈りいたします。 (2024/12/08 訪問)
先ほどイオさんの投稿を見て、遅ればせながら香川元太郎先生の訃報を知りました。信じたくないし、正直ショックです。岐阜県可児市で行われた「山城へ行こう2024」では、春風亭昇太師匠らと、あれほど軽妙な掛け合いをしていたのに、4日後にお亡くなりになるとは・・
このCG全盛の時代に、手描きの絵にこだわり、温かみのある作品を世に送り続けてくれた香川先生は自分にとっては陽光のような存在でした。関係の深かった方や、関係者の方も大きなショックを受けていると思います。
これからは素晴らしい城址を歩くたびに、香川先生ならどのように描いただろうと考えると思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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2024/12/14 20:44
五百渡城(いおと) 長野県塩尻市 (2024/11/17 訪問)
標高1234m。
高ボッチ高原へ行く林道が土砂崩れで
通行止だったのですが、今年開通しました。
五百渡橋の近くに駐車可能で、トラロープ
の設置された急斜面の細尾根を登ります。
2箇所くらいの小曲輪、薄まった堀切を
経て主郭へ、背後は両側が大きく崩れた
細尾根が続き、岸壁を20年位前から付いて
るような年期のはいったロープを使って
よじ登ります。細長い平場の先に堀切が
あります。
砦として活用されたみたいですね。
12月は雪のため通行止かな。
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2024/12/14 20:13
2024/12/14 19:05
高知の山城にしては、整備されて登りやすい (2024/12/14 訪問)
昔は、草叢からまむしが出るので行かないほうが良いといわれていましたが、今は整備されていて、行きやすい。
二重空堀や竪堀と切岸、土塁がみやすい。
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2024/12/14 19:00
2024/12/14 18:41
2024/12/14 18:13
八田城 (2024/11/23 訪問)
【八田城】
<駐車場他>駐車場はなし。車が停まっていなければ、登城口前<34.615830, 136.449558>に1台入れれる。
<交通手段>車
<見所>土塁・櫓台・横堀・虎口
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅5城目。現地説明板によると八田城は同時代の資料は見当たらないようです。近世の地誌「勢陽五鈴遺響」には大多和兵部少輔が居たとし、明治に作成された「伊勢名勝志」には大多和氏の前身三浦氏の築城とする。とあります。
城跡は北の入口から模擬城門の櫓がこしらえてあり楽しめます。登城路を登って行くと主要部虎口は東側から入りますが、正面に土塁があり左右に別れさされます。右へ行くと横堀に突き落とされ、左に行くと主郭虎口に入れる技巧的な虎口です。主郭は高い土塁囲みで、南側にひと際高い土塁の見張り台、北西隅に模擬櫓があります。主郭の北西部に腰曲輪が付いています。主郭の南側に深い堀切兼横堀が走っていて東側は井戸跡・切通し道と繋がって東に落ち込んでいます。西側へは搦手の登城路になっていて、八田池の方へ行けます。
遺構の感じからは伊賀・甲賀の単郭方形高土塁の構造で戦国期に手を加えているように思いました。凸凹の遺構が明瞭に残り、模擬櫓も造られていてなかなか楽しめるいい城跡でした。
<満足度>◆◆◇
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2024/12/14 17:11
現存三重櫓 (2024/11/30 訪問)
明石城は1619年初代明石藩主小笠原忠政によって築かれた城で、築城当初は舌状台地の先端に向かって、二の丸と本丸があり、台地の下に三の丸がある梯郭式でしたが、その後二の丸を分断して東の丸を作った為、連郭式に変化した城郭です。
この城の見所でもある、2基の三重櫓は国の重要文化財で日本に12基しか現存していない貴重な三重櫓です。巽櫓は本丸の南東端に築かれた三重櫓で船上城から移築されたと伝わっています。坤櫓は伏見城から移築されたと伝わる、城内で最大規模の三重櫓で天守が築かれなかった明石城では(天守台はあるのにね)天守の代用として使われ、巽櫓より一回り大きくなっています。
また、明石城の見所の一つ、高石垣は東西の幅が380m、三の丸からの高さが約20mの規模を誇ります。
「日本100名城かるた」購入しました(*^▽^*) 自分のニックネームが入った絵札が3枚・読み札が1枚あり本当に嬉しく、一緒に遊んでくれる方が居ないので絵札を見ながらにやけている今日この頃です。
今年も残りわずかとなりましたが、急に寒くなり体調等崩さないよう気を付けて下さいませ。
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2024/12/14 16:21
古渡城・東別院を初登城初参拝 (2024/11/24 訪問)
古渡城趾と東本願寺名古屋別院を初登城し初参拝しました。東別院と地元では呼ばれていますが名古屋出張で度々訪れて近くまで来ていましたが参拝、境内に入る事はありませんでした。
今回電車での探訪に星崎城を終えて名鉄金山駅から地下鉄名城線に乗り換えて東別院駅で下車、4番出口を出て西に約2、300m程で古渡城址の故地である東本願寺名古屋別院(東別院)の壮大な山門前に着きます、地下鉄からの歩道は幅広く東別院の参道の様です。
当日日曜日なのか?大きなイベントが有り山門前、本堂、対面所前の境内はテント屋台が多く出て人で込み合っていました、食べ物、衣料品、小物品の屋台ひしめく状態、本堂の登り階段の両脇はお昼時で屋台の食べ物を座って食べてる人でベンチ状態。
本堂では時期的に親鸞聖人の誕生を祝う報恩講の最中で信者の方が本堂に入りお参りして居ました。私は本堂の入口扉前で参拝し古渡城址碑へ。
人と屋台をかき分けて東別院南西、鐘楼前の古渡城趾石碑と案内板を確認、撮影、桶狭間の戦い攻路看板も設置されている、この近くでも食事されてる方が居り、人が写らない範囲の撮影と成りました。
東門から出る、東門は高麗門形式で昭和20年の空襲で焼け残った唯一の建造物で東別院最古の建物だそうです。
東門から通りを挟んで東に下茶屋公園へ、下茶屋公園は元東別院の新御殿の庭園があった所の様です、城びと投稿の皆さんが寄るべしとの伝達で散策、名古屋城石垣石の地上展示と解説板を確認、また東側に小高い高まりに天守台?櫓台?の様な石垣土壇も有りました。
古渡城址は織田信秀が天文11年(1542年)築城し、規模は東西140m程南北100m程の平城で2重堀、天文17年に末盛城(末森城)に移り廃城と成った。(案内板による)
昼もチョット過ぎ東別院の屋台は混雑して昼飯を購入出来そうも無いので、下茶屋公園の石ベンチで人も少なく景観も良い所で携帯食とお茶で昼飯としました。
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2024/12/14 15:51
香川元太郎先生…
遅ればせながら香川元太郎先生の訃報に接し心よりご冥福をお祈りいたします。
山城に行き始めて間もない頃、曲輪や堀が藪に蔽われていてわけわからん、という状態になっていたとき、登城口に設置されていたリーフレットに掲載されている香川先生の城郭イラストと照らし合わせて見ることで、なるほどここがこうなっていて、かつてはこんな感じだったのか…と山城の見方がわかってきて、おかげさまで今や山城大好きになっていますが、香川先生のイラストに出会えていなければ、あのまま山城わけわからん、で終わってしまっていたかもしれません。
また、香川先生は歴史考証イラストのみならず迷路絵本の第一人者としても知られますが、図書館で香川先生の迷路絵本を次々と借りてきては子どもと一緒に解いたのもかけがえのない思い出です。特に「忍者の迷路」は伊賀や甲賀にあるような単郭方形の居館にはじまり、高天神城や安土城、寺内町、瀬戸内の海城、赤瓦のグスクが迷路として描かれていて、まさに香川先生の本領発揮、子ども以上に私自身が夢中になってしまいました。
つい先日の「山城に行こう!2024」にも登壇しておられたとのことですし、今なお信じられない思いですが、もうこれからは香川先生の新しい作品を目にすることは叶わないのかと考えると残念でなりません。それでも、香川先生の作品のおかげで山城の楽しさを知り、子どもとの思い出を紡ぐことができたことには感謝しかありません。ありがとうございました。どうぞ安らかにお休みください…。
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2024/12/14 11:22
お濠越しに眺めてほしい (2024/10/24 訪問)
層塔型の真っ白な天守が見どころなお城。天守の中は多くが島原の乱についての展示物。ところどころ手書きの説明書きがあったりして昭和レトロな雰囲気。なかなか凄惨な絵もあったりして、当時の大変な状況がよくわかりました。
車で来てしまうと気が付かない可能性があるのですが、実は城の南側や東側のお濠越しにみる石垣の連なりが凄くよかったです。折れが多用され、塀の真っ白な壁と黒々とした石垣のコントラストが奇麗でした。ぜひ城の周りをぐるっと歩いてほしい。
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2024/12/14 11:08
防御力高めの学校 (2024/10/23 訪問)
今は中学校の一角にあり、なんとなくここに城があったのかもなぁという程度の雰囲気があるだけの場所。
中学校の校庭の周りを水堀のように囲う水路があり、防御力高めの学校でした。
見学中に偶然まるまる一匹分の蛇の抜け殻を見つけ、金運上がるかなぁ~。
さらに近くの立花家史料館も見学。あまりお城とは関係ない展示が多いけど、大名家に伝わったお宝をゆっくり拝見できて面白かった。予想していたよりも展示物の量が少なくて残念。きっと展示替えで色々見られるんだろうけど、一度にもっと見られるとよかったな。
隣の御花も建物だけ見学。日の当たる大広間の縁側から見たお庭は綺麗だった。が、その向こうを流れる水路から船頭さんの大きな歌声が聞こえてきてちょっと残念(苦笑)まるで大宴会のようだった。
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