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たか

休暇の空いた時間に (2024/07/28 訪問)

酷暑の中、家族も出かけているため行きやすいお城は無いかと調べて行ってきました。
ご城印も石浜神社の売店で購入できるということで一石二鳥。
なんて喜んでいたのも最初だけ…とにかく暑い!
南千住駅を出てJR貨物の基地を迂回しながら隅田川を目指しました。

遺構は無く説明書きがあるだけで、確認するといくつかの候補地の中で有力なのが石浜神社という事でした。
神社も立派で参拝もでき有意義な休暇でした。

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モト

これこれ、見たかったのはこんな城跡です! (2024/07/28 訪問)

城の間取りがわかる縄張り、そこにある虎口、残る石垣、素晴らしい遺構たちでした。
城跡のある山頂付近まで車で行け、そこからは5分で三の丸に入ります。
石垣がかろうじて残る三の丸や本丸にある虎口。
またそれぞれの曲輪を守る石垣はどれも雰囲気のある見所あるものばかりでした!
ここは説明するより、まずはみなさんにぜひ行っていただきたいです!
建物はなくとも残る石垣が好きや、縄張りを把握して歩くのが良い方には絶対おすすめです。

訪問した日は神事を執り行う日でした。
毎年7月28日にやっているとの事です。
城跡を皆さんで守ってくれているんですね。
感謝です。

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肉球

伊達氏一門・大條氏居城 (2024/07/13 訪問)

本丸は坂元神社
二の丸は小学校
堀跡も確認しやすいお城です。
大手門と茶室が現存していますが
茶室は現在修築中でした。2024年8月末まで
大手門脇や坂元神社の下に駐車場有。
本丸の南側の森の中には歴代城主の墓所があります。
サンドイッチマン伊達さんの御先祖様が城主のようです。

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肉球

本郭まで🚗で行けます (2024/07/13 訪問)

北の伊達氏の備えとして相馬氏によって築かれたようです。
郭や穂空堀は地元の方々によって大切に管理され
春にはチューリップ畑に様変わりするようです。
お城の中枢部以外にも遺構があるようですが
この時期は確認できません。

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イオ

とことん江戸城・番外編(旧芝離宮) (2024/05/30 訪問)

楽寿園は江戸前期に老中・大久保忠朝が上屋敷に作庭した大名庭園で、その後数氏を経て幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、明治には有栖川宮家から宮内省が買い上げて芝離宮としました。昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜されると、旧芝離宮恩賜庭園として一般に公開されて現在に至ります。

昨年に浜離宮(浜御殿)を訪れた際に、旧芝離宮とのセット券を買っていながら来ることができず、さすがに期限切れだよなぁ…と思いつつ調べてみると、有効期限なしとのことで、幸か不幸か増上寺を再訪することになったことでもあり、浜松町駅からまずは旧芝離宮を訪れました。

楽寿園(旧芝離宮)は大泉水と呼ばれる潮入の池を中心とした回遊式庭園で、州浜や砂浜を設けて潮の干満による景観の変化を楽しめるように造られていましたが、周辺の埋め立てと工業化により現在では水位の変化のない淡水の池になっていて、海水取入口跡の石垣と水門に潮入の名残が見られるのみです。大泉水には中島、大島、浮島など大小いくつかの島が配され、中央の蓬莱山に見立てた石組の中島へは西湖の堤を模した石造の堤が続き(反対側の八ツ橋は工事中でした)、最大の大島にはたい焼きを思わせる形の鯛橋が架けられていました。

勇壮な石組も特徴で、大久保忠朝の領国である小田原から運び込んだ火山岩による根府川山、山峡を流れ落ちる滝を石組で表現した枯滝、枯滝を越えて大山に続いていたとされる臥龍橋も鯛橋と同じく根府川石だったと思われます。後北条氏に仕えた松田憲秀旧邸の門柱も小田原から運び込まれて、上屋敷の茶室の柱としたと云われています。

…う~ん、浜御殿(浜離宮)や小石川後楽園はまだしも江戸城と関係がありましたが、楽寿園(旧芝離宮)に至っては江戸の大名庭園ではあっても江戸城とは全く無関係ですね。ともあれ、お天気も良く純粋に庭園散策として楽しませていただきました。
 

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しんちゃん

唐人お吉記念館 宝福寺・下田市1丁目 (2024/07/15 訪問)

宝福寺には「唐人お吉」こと「斎藤きち」さんのお墓があり唐人お吉資料館が併設されています。お吉さんは初代駐日アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリス氏のお妾さんのイメージが強いですが、後世の創作の部分も多いようで、実際のところは良くわかっていません。ただハリスの秘書兼通訳のヒュースケンは強硬に自分とハリスに「女性」の介護人を要求しており、これを幕府側が妾を要求していると思い込んだ節があるようです。このヒュースケン、なかなかの曲者でわざわざ混浴を見物に行ってたりします。
なんとなく、ハリスより好き者の感じがしますが(若いし)、それは置いておいて‥
史料館の中には土佐藩主・山内容堂と勝海舟が謁見したという部屋が残されています。ここで勝海舟は弟子・龍馬の脱藩の罪の免除を願い、酒の飲めない海舟が大杯を飲み干したことで、喜んだ容堂が龍馬の罪を許したという逸話が残っています。
たまたま宝福寺に宿泊していた容堂を、天候の悪化で下田に避難してきた勝海舟が訪ねて来たわけで、偶然のもたらした結果といえますが、龍馬を縛る鎖が無くなったことで幕末の世に少なからず影響があったと思います。
この時、龍馬は勝海舟と共に下田に来ており、住吉楼という遊郭で謁見の結果を待っていたとされています。

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ぴんぴん

米子城に行きました (2024/07/26 訪問)

初めての訪問、石垣が美しかったです。
天守台からの眺めも素晴らしい。

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ぴんぴん

松江城訪問 (2024/07/24 訪問)

初めて松江城に行きました。
重厚感と醸し出すオーラを感じました。
さすが国宝ですね。

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三浦の晃ちゃん

休憩所に資料あり (2024/07/28 訪問)

公園全体が城趾です。
駐車場から、すぐのところに、休憩所があり、資料があります。

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T-Shionoya

関ヶ原の城郭訪問第1段 菩提山城 (2024/03/30 訪問)

2月に関ヶ原で聴講した「山城シンポジウム江濃境目の城」で興味を持ち、3月末に訪れた岐阜県不破郡垂水町の菩提山城。

濃尾平野の西端、比高約300mの菩提山山頂部に築かれた西美濃最大級の山城。

1500年代前半には岩手氏の詰城が存在したとされ、1558年にその岩手氏を追放し岩手の地に入った竹中氏が再構築。
重元、重治(半兵衛)、重門の竹中氏3代が1608年の廃城まで守備したとのこと。

現在は麓からのハイキングコースが整備され、本曲輪からは濃尾平野の眺望が利く観光スポット。

訪問時は竹中氏菩提寺の禅幢寺から大手山道をひたすら進み、小さな土橋を渡って城域へ。
先に見どころの1つである畝状竪堀を確認し、続いて本曲輪へ向かうと、台所曲輪・二の曲輪・本曲輪の接合部が写真には収まらない楽しいエリア。

禅幢寺からの登りが1時間、下りが45分、城域滞在時間が約2時間。
300m登る価値十分の、私の城郭巡りの179城目でした。

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三浦の晃ちゃん

公園 (2024/07/28 訪問)

現在の神奈川県にあった数少ない大名の陣屋です。
今は、公園としてキレイに整備されています。
小田原藩の分家筋です。

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しんちゃん

戦国400mリレー (2024/07/16 訪問)

深沢城は馬伏川と別の河川の合流する天然の要害の地に築かれています。今川氏による築城とされますが、はっきりとはせず、今川・北条・武田・徳川と錚々たる大名達がこの城を所有しています。縄張りも見事で、なんとなく武田と徳川の匂いはするものの、いずれによるものかははっきりしません。例によって武田の縄張りを徳川が拡張したと見るべきでしょうか。
なんにせよ、これだけの顔ぶれの関わった城がつまらないわけがなく、馬出しや三日月掘りを備え、大規模な堀切で各曲輪を遮断した見ごたえのある城跡です。イメージとしては諏訪原城の下位互換と言ったところでしょうか。それでも城址西側の三日月掘りは十分な迫力があります。
縄張りに関してもいろいろな解釈があり、城跡の中央部を案内板では二の丸としてますが、本丸とする解釈もあるようです。

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しんちゃん

常光寺公園 (2024/02/23 訪問)

常光寺公園と隣接する片塩小学校、常光寺池一帯が城址とされ、池の大きさもかつては東南1/3ほどの大きさだったようです。一乗院方の国民である高田氏の城とされ文安4年(1447)越智・古市方の布施氏の攻撃を受け五重の内、四重まで破られるも撃退したとのことです。
戦国時代に高田氏は松永氏に従ったものの、後に大和を支配した筒井方に中坊で殺されたとのことです。
公園にある案内板には高田氏は當麻氏と記されています。公園内に石碑や案内板がありますが、公園自体はそれほど広くないです。石碑の左右にある土盛りは土塁と考えない方が無難でしょうか。隣接する常光寺には高田城主、當麻三河守為長公の墓がありました。

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赤い城

滝宮城 香川県綾歌郡綾川町 (2024/07/14 訪問)

滝宮神社境内が城趾です。
遺構は無いようですが曲輪っぽい地形や堀跡っぽい部分はあるような。
側を流れる綾川が天然の堀となっています。

築城は不明ですが戦後期には滝宮氏が城主となっていました。
隣には滝宮天満宮、この辺りが讃岐うどん発祥の地とされています。
天満宮の説明板にその旨記載されていますがやはり空海が関連しているようです。

いわゆる讃岐うどんは中讃エリアの太くコシのあるうどん、美味しい名店もこの辺りに多く点在しています。

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しんちゃん

入れま10 (2024/02/11 訪問)

投稿の写真は永原城というよりは永原御殿で江戸時代に家康・秀忠・家光の三代将軍が宿泊した防御性を備えた御殿です。中山道の脇街道である朝鮮人街道の付近に築かれていました。天正19年(1591)に家康は秀吉から野洲郡9万石を与えられていますが、初期の御殿がどのタイミングで築かれたのかは良くわかりません。関ヶ原の合戦の翌月には永原に宿泊しているので、このころには既に何らかの居館施設があったのだと思われます。家康が7回、秀忠が3回、家光が2回、宿泊に使用しており、寛永11年(1634)家光の上洛に先だち大規模な改修が行われたようです。
改修後には本丸の南に二の丸、その東に三の丸を配し、周囲に堀を巡らせた平城のような構造をしていたようです。2017年から発掘調査が行われ、その遺構の重要さから普段は立ち入りを禁じられています。
永原御殿の南西、「下海道(朝鮮人街道)」沿いに六角氏家臣永原氏の居城・永原城(上永原城)跡があります。永原氏が上永原城を廃して移ったのが永原御殿跡とされる永原城だったようです。

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しんちゃん

楠公誕生地 ちはやあかさか (2024/02/24 訪問)

所在地‥大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分266
南北朝時代の英雄・楠木正成、その生誕の地とされ石碑や案内板が立っています。今、自分は徳川家康の関東移封から関ヶ原の合戦以降数年までの範囲で自分なりの見解をまとめているので、頭がいっぱいで南北朝時代まで頭が回りません。
歴史の見解は日々変わっているので、南北朝時代の合戦等の新たな考察が出てくるのを楽しみにしています。
誕生地跡には郷土資料館が隣接し、正成公ゆかりの城跡に関する展示がされています。すぐ近くに道の駅「ちはやあかさか」があり食事を取ることができます。ここの村カフェの名物はなんといっても棚田カレーで、季節の野菜で棚田を表現しているらしいですが、正直、棚田に見えない。どうせならダムカレーみたいにお米で「棚田」を再現してほしいですな(うるさいな~)。
最後の写真はマイカリー食堂の野菜+カツカレーです。三河人の自分にとっては地元に無いチェーン店は気になるのですが、尾張にもあるようです。なんだ三河に無いだけか‥

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チェブ

難攻不落なトンネルとキャンプ場。 (2024/07/21 訪問)

武田氏の侵攻に備えた「中川城」。
私の薄っぺたい投稿に、お付き合いしていただいている皆さんなら、お分かりだと思いますが、入口で退陣しました。
城びとオールスターの皆さんの投稿では、薄暗いトンネルの写真が掲載されていて、その向こうにある「中川城」。私は無理だと思いました。
グーグルを睨んでいると、そのもっと向こうに『西丹沢中川ロッジ』があり、こちら側からなら行けるのでは?と、安易な考えで進軍しました。
城山の信号を直進すると、右手に中川橋に曲がる道。
曲がらず直進して『西丹沢中川ロッジ』へ。すると、予約がないと通れないとの看板。
でも、心の中では『でしょう~ね』とつぶやいてました。

暑いし、海側から帰るかと小田原方面へドライブしました。
去年、小田原駅の『ミナカ小田原』でお城形の最中が乗ったソフトクリームがあった事を思い出し、行ってみたらフルーツ飴のお店になっていました。
とぼとぼ歩けば北条家マンホールが応援してくれてます。口はソフトクリームを求めてます。
『金目鯛とくぞう』でみたらし味のソフトクリームを発見。即購入。秘伝の煮汁醤油が使われてました。
いつも、写真を忘れるので あわててパシャリ。
食欲が勝り、アングルがひどい有り様です。

*カルタ出来ちゃうんですね。おめでとうございます。あきらめていたので、ビックリです。
予定ではお城Expoで、城びとの皆さんに『ありがとう』を伝えに行きますよ。
暑い日々が続きます。お身体に気を付けてお過ごしくださいね。

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しんちゃん

大庄屋諏訪家屋敷 こいつはマニアだ! (2024/02/11 訪問)

滋賀県守山市にある大庄屋諏訪家屋敷は淀藩の飛び地で代々農民をまとめる大庄屋の屋敷です。元々は諏訪左近将監長治が永正年間(1504~1521)に信州より移住して来たことに始まるようなのですが詳細は不明です。
主屋や書院は江戸期の文化年間(1804~1818)に築かれたようなのですが、この建物がなかなか一癖あるのです。門をくぐって正面に主屋の玄関が見えますが、右手にも門があり、その先は書院になっています。
この書院に隠し通路が付いていて侵入者を見張っているんですね。ドアノブは内側についていますが、外側からは隙間から紙などを通してスコッとあける仕掛けになっていたと思います。すこし変態じみていませんか? 玄関の天井も通路が回り込んで屋根裏に逃げ込めるようになっています。脱出用の仕掛けがあるとさらに完璧なのですが‥。
鬼門には社が置かれ、北西の隅部には茶室が置かれていて、まるで櫓のようにも見えます。北には水路が流れ、水門が水路に面して設けられ、少し手を加えれば枯山水の堀に水を引き込むことも可能なようです。鬼門に設けられた社から南西への延長線上は絶妙に建造物の配置を逸らしています。この構造は米沢城に似ていますね。
こうしてみると防御性を備えた居館というより、ミニチュアの城郭のようにも見受けられます。ここの城主は平時は庄屋のふりをしていますが、実は根っからのマニア(変態)だったのではないでしょうか?
ちなみにこのマニアックな屋敷は市の文化財の指定を受けていますが、日本遺産にも登録されています。

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しんちゃん

称念寺寺内町 (2024/02/23 訪問)

今井環濠は称念寺の寺内町で、一説には天正元年(1573)に近江から来た河瀬兵部が今井に入って称名寺を建てたとされています。
本願寺が織田信長に降ると、今井も降伏し赦免状には「土居構」を崩し、陣取りを禁止することが記されているようです。
かつて周囲は環濠に囲まれ、土塁を築き、櫓まで備えていたようです。現在も周囲を環濠で囲まれ通路の一部は喰い違いになっています。
そうそう‥肝心の称念寺に寄って無いですね。ま‥いいか‥メインはあくまでも「堀」なので。

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石像銅像等散策 (2024/07/27 訪問)

岡崎公園内および街中にある石像、銅像などを求めて彷徨ってみました。
桜城橋付近の道に徳川四天王の石像がありました。少し離れている岡崎城総堀跡の説明板のある御旗公園に田中吉政の石像がありました。田中吉政は家康が関東へ移ると岡崎城主となり城の改築に着手しています。城域を拡張し、石垣や城壁を整備して近世城郭につくり替えています。関東へ移った家康対策でした。それが理由ということでもないのでしょうが、岡崎城址からやや遠いところに石像があります。徳川家康の像は多くあったのですべては添付できませんでした。

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