さんがじょう

三箇城

大阪府大東市


旧国名 : 河内

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味がある 
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しんしんちゃん

三箇城は地味だが城主の人生は奥が深い (2023/08/11 訪問)

三箇城の比定地として三箇菅原神社や大畑の廃慶岸寺跡が
あげられますが、今回は勉強不足で三箇菅原神社しか
訪問していません。城址碑が神社の境内にひっそりと建っています。
城跡ははっきりしませんが城主の三箇頼照はなかなか波乱万丈の人生を
送っている人物です。
wikiの情報によりますが、三好長慶に仕えている時にロレンソ了斎の説教を聞いて
キリスト教に改宗を決意したとあります。後に京で実権を握った松永久秀に
伴天連追放令が出された際にはヴィレラやフロイスを保護したと有ります。
主君の三好義継にも仏教への改修を命じられますがこれを拒否、
堺に逃れ、後に織田信長に従いキリスト教への信功も取り戻します。
本能寺の変の際には明智に味方しますが破れ、筒井順慶の元へ逃れます。
その後、秀吉に許されますが天正15年(1587)の伴天連追放令の際には高山右近や
オルガンティノ神父らと小豆島に潜伏します。
オルガンティノを永原の信者代表に引き合わせたのち、彼の記録は途絶えていますが
時代の荒波の中で己の信仰を貫いた信念のある人物のようです。

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イオ

池の中の水城 (2023/02/11 訪問)

かつての深野池西寄りの三つの島にあった水城で、室町中期に河内国守護・畠山氏の内紛に際して築かれたようです。三好長慶が飯盛城に入った頃には飯盛城の支城として機能しており、大坂との間の舟運を担った三箇頼照の居城でした。三箇頼照はキリシタンに改宗(洗礼名サンチョ)すると城下に教会を建て、河内キリシタンの拠点として繁栄しました(ルイス・フロイスの書簡にも三箇の隆盛ぶりが記されています)。三箇頼照は三好氏が滅ぶと織田信長に従うも、本能寺の変以降は明智光秀に味方したため城も教会も焼き討ちされ、三箇城は河内キリシタンの結城如安(ジョアン)に与えられましたが、小牧長久手の戦いで討死したことにより廃城となったようです。

江戸中期に新田開発により深野池が干拓されたため遺構は消滅しており、所在地もはっきりしないようですが、城びと位置情報の三箇菅原神社が比定地のひとつとされ、三箇城址石碑と菅原神社の説明板に三箇城の記述が見られました。神社前の参拝者用駐車場から参拝がてら周囲をひとめぐりしましたが、微高地といえば微高地かなぁ、という感じでした(たぶん気のせい)。

それにしても、下調べの段階では池の中の水城といわれてもいまいちピンとこなかったんですが、飯盛城のスタンプを押しに訪れた大東市立歴史民俗資料館で、大和川の付け替えと新田開発の展示を見て、いろんなことが納得できました。大和川の付け替え自体は知っていましたが、付け替えまでは北に分流してこのあたりで淀川からの分流と合流して池や湿地帯になっており、三箇城は大坂との間の舟運を担うべく池の中に築かれていること、池や湿地帯と生駒山地との間の狭い平地を東高野街道が走っているため、三箇城に加えて野崎城を支城とすることで水陸双方の交通を掌握できること、だからこそ三好長慶は飯盛城を居城としたのではないか…。資料館や博物館を訪れることを今年のテーマのひとつにしていますが、遺構のない城であってもこうして資料館で理解(妄想?)を深められるのは楽しいものですね。
 

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侍ホリタン

幻のキリシタン城を訪ねて (2023/04/08 訪問)

JR学園都市線野崎駅から徒歩15分、当時の遺構は残っておらず、城跡と推定される菅原神社鳥居付近に「三箇城趾」の石碑があるのみです。城主である三好長慶公の家臣三箇頼照公は家臣と共に洗礼を受けてキリシタンとなりました。その様子は宣教師フロイスによってヨーロッパにまで伝わっているとされています。本能寺の変時に明智光秀公についていた頼照公でしたが、山城の戦いで光秀公が敗れると領地を捨てて逃亡したと言われています。

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三箇菅原神社 (2023/04/08 訪問)

 JR野崎駅から徒歩15分くらいで、城跡とされる三箇菅原神社に行くことができます。遺構はないと思われますが石碑があります。

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城郭情報

分類・構造 水城?
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 三箇氏
遺構 消滅
再建造物 石碑
住所 大阪府大東市三箇5-2