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零汰

変身 (2024/08/01 訪問)

鹿児島城跡にある黎明館に行きました。

出先で貼ってあったポスターで知りました。
「THE仮面ライダー展」なんとも心地良い響き。
テレビを見ない生活をしているので見逃すところでした。
早速孫たちに連れて行ってもらいました。

歴代ライダーが1号から最新ライダー迄大勢展示されてます。
行く前はここ迄期待はしていなかったのですが大正解でした。
推しは当然旧1号ライダー。
ライダーに限らずオリジナルを超えるものは中々ありません。
密かに期待をしていた桜島1号が居ないのは仕方がない。

冒頭はこの日の復元門です。

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しんちゃん

仏御前の墓 / 屋敷跡  (2015/10/24 訪問)

所在地‥石川県小松市原町208-2
平清盛と妓王(祇王)の伝説に出てくる佛御前は小松市の原町の出身で承安2年(1172)14歳で京に上り白拍子となりました。当時清盛の寵愛を受けていた白拍子の妓王のはからいで清盛の前で舞を舞う機会を与えられ、天性の美貌と才で清盛をたちまちトリコにしてしまったそうです。妓王さんも余裕こいてて後で「しまった」と思ったとは思いますが、後の祭りというやつで、その後清盛に佛御前を慰めるためとして舞を舞わされたりしています。清盛もすっかり妓王のことはどうでも良いかんじですね。
結果、妓王(当時21)は母と妹の妓女と共に出家してしまうのですが、佛御前も世の栄華の儚さを知り17歳で出家してしまいます。今でいうストライキに近いですが、清盛公にはたいして応えていないような気もします(体裁は悪いですが)。
個人的には21、19、17歳の若い女性が3人も出家してしまったのはもったいなかった気がします(オイオイ‥)。白拍子というと今でいうトップスターみたいなもんですからね。

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しんちゃん

うさPYON (2013/08/23 訪問)

越前大野城の写真です。去年の11月、大野城を訪問した時にはすでに閉館していて入れなかったんですね。閉館はやいな~。そのあと、地震が来たり石垣が崩れたりで大変だったんだけど、もう修復は終わったのかな?
土井氏の兜の前立てにウサギをあしらったものがありました。戦場でもすばしこく駆け回れるようにとの意味らしいです。まさにウサギそのものですが、ちょっとかわいすぎませんかね。いかついオッサンがこの兜で襲いかかってきたら一瞬思考停止しそうです。
恐るべし‥。
話は変わりますが、大多喜城の改装工事はまだ続いているようです。あと数年かかる見通し? 
大多喜城の天守は千葉県立中央博物館大多喜城分館というらしいですが、隣接する建物で写真などの展示を行っており、そこにもウサギの前立ての写真の展示がありました。しかし、このウサギ‥かなりシュールです。大野城のウサギはリアルに振っていましたが、こっちのウサギは怪人ウサギ男か「鬼滅の〇」のムキムキネズミみたいですな。

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赤い城

姪浜城 福岡県福岡市 (2024/07/19 訪問)

城びと未登録城です。
元寇防塁訪問訪問の後、もう少しだけ時間があったので立ち寄りました。

元寇の後、鎌倉幕府が九州の防衛拠点として鎮西探題を置いた際に築いた城です。
鷲尾愛宕神社周辺が城趾で室見駅から徒歩で10分くらい、ただし結構な急坂を登っていきます。
この日は出張で訪れたので革靴、ちょっとしんどかったです。

まずは愛宕神社に参拝、玄界灘や福岡市内を望むことができますが、遺構らしいものはありません。
この愛宕神社は日本三大愛宕神社のひとつだそうです。

一旦降りてもう一つのピーク部にあるロープウェイ駅跡に。
こちらが主郭のようです。
ということは間にある道路が堀切なんでしょうかね?
こちらにも城の遺構らしいものは見当たりませんでした。

ただ、玄界灘を見渡せるこの場所が防衛拠点に適した場所であることは間違い無いです。

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ヒロケン

天橋立 (2024/07/26 訪問)

弓木城は阿蘇海を東に見下ろす丘陵上にあり、南北2つの大曲輪群で構成された広い城域をもっていましたが、北曲輪群は小学校建設時に失われ詳細は不明です。今に残る南曲輪群は周囲が切り立った断崖に囲まれ難攻不落であったことが想像されます。

弓木城は鎌倉時代に稲富氏が城を築き、代々稲富氏の居城でしたが戦国時代に丹後国守護であり室町幕府四職筆頭格の一色義定が細川忠興に攻められ建部山城から弓木城に移っています。弓木城も度々、細川氏に攻められましたが稲富流砲術の祖とされる、稲富祐直軍の鉄砲隊や一色義定の活躍により、これを撃退しましたが一色義定が細川氏に謀殺されその後、弓木城は開城したとされています。

現在の弓木城は城山公園として日本三景の一つ天橋立を見下ろすことができます。城山公園駐車場に駐車できトイレも完備されています。本郭から山裾まで続く竪堀らしきものがありますが、往時のものか後世のものなのか分かりませんが、見応えがあります。
曲輪、切岸、土塁なども確認でき、整備もされているので散策しやすい城跡です。

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トク

112【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (小牧長久手の戦い(2/2)-長久手古戦場) (2023/09/06 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑭です。
井伊の赤備えが活躍した「長久手古戦場」を訪れてきました。名古屋駅から地下鉄東山線に乗り、終点の「藤が丘」駅で今度はリニモに乗り換え、「長久手古戦場」駅で下車します。私は初めてリニアモーターカーなる文明の乗り物に乗りました。しかも無人運転です(写真⑧)。そして駅に着いて回りを見渡すと・・・(🤔?) そこには広大なイオンモールなどの商業施設が広がり、ここは昔、本当に戦があった場所なのだろうか? あまりにも近代文明の景色ばかりだったので、目を疑ってしまいました。しかし駅前にちょっとした森と公園があり(写真⑨の左半分の森が長久手古戦場公園)、わずかにその面影が残されていたので、どうやらここで合戦が行われたのは間違えないようです。

公園の入口には郷土資料館がありました。小さな資料館(無料)ですが、長久手の戦いについての簡単な説明やおみやげ屋も中にありました(写真⑤⑥⑦)。そしてその公園には石碑と勝入塚がありました。この場所で池田恒興は、直政に討取られたようです(写真①②③④)。

秀吉軍別動隊は、まず岩崎城を落とします。これに油断したのか、最後尾の羽柴秀次は白山林で何とのんびりと朝食をとる事にしました。小牧山城を密かに深夜に抜け出す事に成功した徳川軍は、隊を二手に分けます。まず榊原康正らが油断している秀次を急襲! これに秀次はあわてては敗走します。それを見た堀秀政が鉄砲隊で一矢を報いますが、家康の馬印まで見えた事に驚き続けて敗走。前線の長久手には森長可と池田恒興が取り残され、徳川家康と井伊直政はそこへ向かいました。

まず、井伊直政の「鉄砲隊」が森長可を狙撃! そして長可が討死すると敵はもう大混乱!。そこを今度は「赤備え隊」が残った池田隊を急襲! 池田恒興と長男の元助を討取ります(次男輝政は敗走)。徳川軍は鉄砲と騎馬隊を組み合わせた新たな戦術で大勝利を収め、直政は大金星を上げたのでした(すごいぞ~!😱)。直政はこの時から、赤い鬼角の兜をかぶり、長槍を持って勇猛果敢に駆け回ったため、敵方から「井伊の赤鬼」と恐れられたようです。

私は勝入塚の前に立ってみました。侍大将としてのデビュー戦を見事に飾り、ここで「えい、えい、お~!」と勝時を上げる赤鬼(直政)と赤備え隊の姿が、何だか目に浮かぶようでした。


【余談】きしめん
名古屋で麺といえば「きしめん」だと聞いた事があります。しかし私はこの年まで、きしめんなるものをまだ見た事がありません(九州にはない)。そこで、地下鉄からリニモに乗り換える藤ケ丘駅でお腹が空き、きしめんの文字の店が見えたので、どんなものか入って恐る恐る注文してみました。暑かったので冷やしで頂きます。せっかくなので真昼間からサワーと枝豆付のほろよいセットで(写真⑩)。きしめんとは、どうやらうどんを平たくした麺のようでした。そのせいか、よく手打ちされているのか、なかなかいい歯ごたえと食感がありおいしかったです。(でもなぜ麺が平たいのだろう🤔?)。

次はトクの8月恒例。平和について考える旅に出てきます。その後に、井伊直政の後半戦へ続けさせていただきます。引き続きまたよろしくお願いします。
 

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シェル

模擬天守から主郭と千葉の街を眺める (2024/05/14 訪問)

 JR本千葉駅から徒歩10分。
 智光院・千葉県庁側の亥鼻公園の入り口の階段を登ると、右側に千葉市立郷土博物館(模擬天守)がそびえています。
 階段から天守と反対の左側に進むと、千葉城(猪鼻城)の主郭部分にあたり、ここに土塁が残り説明板も設置されています。主郭跡から北の階段を降りると神明社があり、境内に猪鼻城址の碑があります。城址碑には、なぜかお水のお供えがありました。城址碑も御利益あるはずですね…(たぶん)
神明社がある場所は、物見台跡とのことです。
 そこから北に階段を下りていくと、「お茶の水」があります。千葉常胤が源頼朝に、ここの水でたてたお茶を差し上げた伝説と徳川家康が鷹狩りで東金に向かった際に、ここの水でたてたお茶を飲んだという 二つの名前の由来があるみたいです。
 主郭付近を一通り見たところで、模擬天守へ移動。模擬天守の博物館は入場無料‼
 鎌倉時代~戦国時代の千葉氏や後北条氏など資料が展示されており、無料ですが、かなり見ごたえがあります!!
 最上階は展望スペースになっており、千葉城(猪鼻城)の主郭を見下ろすことや千葉市街や千葉港も見ることもできました!!

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しんちゃん

大庄屋諏訪家屋敷  (2024/02/11 訪問)

ミニ城郭の雰囲気を漂わせる滋賀県守山市の大庄屋諏訪家屋敷、道沿いの水路に浮かびあがる様はまさに城郭です。茶室は明治天皇ゆかりらしく、明治時代に大津円満院から移築されたものとされ、江戸時代前期の様式とされています。枯山水の庭園には堀が築かれ、水路の水かさが増すと堀に水が流れてくるようです。パンフレットには池泉回遊式庭園と書かれていますが時期を選ぶみたいです。
なんとなく雪隠ですら哨戒所としての雰囲気を出している気がします。書院に隠し通路があったり、玄関の天井には屋根裏に通じる通路があったりと、なかなか凝った造りをしていますが、水路で囲まれた集落一帯が一族の集まりのようなので、全体としての防御力は侮れないものがありそうです。淀藩の飛び地の大庄屋ということで、屋敷に防御性を与える必要があったのかは不明ですが、なんとなく楽しんでやっている気がします。

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しんちゃん

北の庄城・柴田公園 (2013/08/23 訪問)

福井県福井市の柴田神社の周辺は柴田勝家の築いた北の庄城(1575~1583)の天守閣の跡地とされており、石垣の遺構もわずかですが残っているようです。周辺は公園となっており、天守閣の模型や浅井三姉妹とお市さん、柴田勝家公の銅像があります。お初さんは二度の落城を経験したのち、京極高次の元へ嫁ぎます。この高次の妹が豊臣秀吉の側室で後に淀殿とバチバチやる竜子さんです。
この5人、なかなか濃ゆい人生を送っていますが、お初さんの人生はその中でも比較的幸福だったのではないでしょうか。織田氏は桓武平氏、浅井氏は藤原北家(土師姓大江氏という説もあり)淀殿の血筋も悪くはないのですが、竜子さんは宇多源氏佐々木氏の流れを汲んでいるので武家としては文句なしの名門です。もし、秀吉がもっと長生きして竜子さんに子供が出来ていたら、豊臣将軍家の初代になっていた可能性もあるわけで、なかなか意味シンだとは思いませんか?

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肉球

鳥屋館・宮城県丸森町 (2024/07/13 訪問)

丸森城が伊達氏の領土となり江戸時代になると
丸森城を廃城とし北を流れる阿武隈川沿いに鳥屋館を築き
伊達氏一族の大條氏が城主となったようです。
跡地には鳥屋嶺神社が建ち敷地内には土塁、
空堀らしきものが確認できます。

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肉球

伊達氏と相馬氏 争奪戦の地域 (2024/07/13 訪問)

伊達政宗の曾祖父稙宗の隠居してからのお城のようです
大規模なお城ではありませんが郭、空堀、土橋がはっきりと確認できるお城です
二の丸下に駐車場があります

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イオ

神戸港を見下ろす山城 (2024/06/08 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期までに赤松則村が六甲山系の崖端部に築いた城で、戦国後期には三好長慶の命により松永久秀が城主となって現在見られる姿に改修しましたが、長慶の死後、久秀と三好三人衆が対立すると、滝山城は安宅信康らの攻撃を受け、水の手を切られて落城。その後、篠原長房が城主となりましたが、織田信長の摂津攻めにより長房が阿波国に撤退すると、荒木村重が築いた花隈城の支城となって池田泰長が入りました。荒木村重の謀反の際には花隈城攻めの付城として機能し、花隈城の落城により廃城となったようです。

(続き)

さて、猿のかずら橋を渡ってポートアイランドや六甲アイランドの眺望を楽しみつつ登って行くと、登城道沿いにいくつかの小曲輪群が連なり、猿のかずら橋から10数分で新神戸駅(大手道)への分岐に到着。分岐から東曲輪群の北麓を西に進み、幾条かの竪堀を越えたところに中央曲輪群への虎口があります。虎口脇の土塁には石垣の痕跡も見られました。虎口を抜けると東曲輪群と中央曲輪群が大堀切によって隔てられていて、堀底に滝山城跡の説明パネルが設けられています。東曲輪群に上る道はなさそうなので直登してみましたが、東西に細長い曲輪群が続くくらいで目立った遺構は見られませんでした(竪堀らしきものはありますが…)。

中央曲輪群には東曲輪群よりも広い曲輪が階段状に連なり、ところどころに崩れた石垣も見られます。北側、南側には竪堀も落ちています。中央曲輪群頂部の本丸は城内最大の曲輪で東屋が設けられ、北西隅の櫓台には瀧山城阯石碑が建てられています。南東に派生する支尾根には小曲輪群があり、土塁や堀切もある…にはありましたが、時季的に草木が茂っていて今ひとつでした。中央曲輪群と西曲輪群の間は二重堀切で遮断され、ずいぶん浅くなってはいるものの、二重の堀がはっきりとわかります。西曲輪群は本丸よりも高所にありますが、ほぼ自然地形の曲輪がいくつかあるだけで、南西端の堀切までが城域のようです。

来た道を引き返して新神戸駅への分岐から大手道を下って行くと、尾根沿いに小曲輪群が続いてはいるものの、こちらも時季的に草木が茂っていてあまり面白味がありません。大手道の見どころといえば、途中に開けたところから神戸港が見渡せたことくらいでしょうか。

…ということで、神戸の中心街近くにありながら、堀切に竪堀に石垣にと見応えのある山城ですが、大手道は長く歩くわりに見るところが少ないので、新神戸駅から登城する場合は滝見物しながら登って行ける布引の滝ルートをおすすめします。ついでにちょっと足を延ばして布引五本松堰堤もどうぞ!
 

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赤い城

今回は生の松原地区のみ (2024/07/19 訪問)

出張で博多に行った際、早起きし朝駆けしました。
下山門駅から徒歩で10分弱で生の松原へ到着、石碑が立っています。
朝の光を浴びながら釣りやランニングをする人も。
時間的に暑くなる前(それでも暑いけど)の海風は気持ちよかったです。

海沿いの遊歩道を進むと復元された防塁の石垣があります。
これがその当時20kmに渡り築かれていたそうです。
元の脅威はよっぽどのものだったのでしょうね。
当時の本気度と技術力の高さが伺えます。

皆さんのレポートにもあるように他にも遺構はありますが時間なく今回はここだけ。
松林も風情があって癒されました。

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しんちゃん

宮脇城② 宮脇城にいったつもりが‥ 結果オーライ?? (2024/07/14 訪問)

宮脇城に行くつもりが、腰曲輪につられて反対の山の方へ、登城道なんか無いし斜面は急だし、しんどいしんどい。でも比高100mほども登ると扁平地にたどり着きます。この辺は城跡というより曲輪付烽火台といった雰囲気。あとで分かったんだけど、この尾根をさらに登って行った先は三津新城に行きつくみたいです。どうやらその繋ぎの塁のような感じですね。
扁平地には意味深な岩がいくつもあります。この並んでいる岩はなんだろう? さらに進むと標高177~180mのあたりには東側(外側)に向けて土塁が付いているようです。石垣もあるんだけど周辺は畑地にも使われていたようで、後世の物のようです。でも遺構の石垣もあるかもしれません。一連の砦の中には岩を防御に利用しているものもあるようなので。
ひとしきり登ったところで引き返しましたが、今回の訪問で 三津城(三津古城)→発端頂砦(北砦)→出城→三津新城→今回の訪問場所→宮脇城が繋がったような気がします。
元々三津城は南北朝の時代に畠山氏が築いた城とされますが、その他の城塞群は北条氏の時代に築かれたようで、個別の城というよりは一連の連なった城塁のように思えます。またそれぞれ狼煙台や見張の役目も負っていたのではないでしょうか。
長浜城は現在県道で遮られていますが、かつては網代山砦、岩尻山砦と尾根上でつながっていたようです。であれば、岩尻山砦と三津城もしくは発端頂砦(北砦)を繋ぐルートが存在すると思います。それが繋がってくれると、長浜城から宮脇城までを尾根上に内浦港を抱え込むように周遊するコースが成立するはずです(実際の城域全体はもっと広いのかもしれません)。
国の史跡の長浜城との繋がりが立証できれば、三津城を始めとする城塞群が「附(つけたり)」として国の史跡に追加登録される日も夢ではないのかもしれません。地元関係者の方々の研究の進展に期待します。
今回は写真の場所しか訪問しておらず、中途半端な結果になりましたが、三津城からは富士山が良く見えるみたいなので、いずれまたゆっくり訪れてみたいと思います。

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三方ヶ原の戦い関連 (2024/08/01 訪問)

 浜松城跡の西北約1kmに犀ヶ崖古戦場跡があります。三方ヶ原の合戦で徳川家康は、大敗して浜松城へ逃げ帰りますが、夜になって徳川軍は犀ヶ岳の近くに陣取った武田軍を急襲しました。地形に詳しくなかった武田軍は不意をつかれ、崖下に落ち多くの戦死者を出したと伝わっています。このとき、崖に布製の橋を掛ける計略を用いたと言う伝承もあります。
犀ヶ崖資料館近くに崖が残っていますが藪になっていてよくわかりません。ちなみに犀ヶ崖資料館の観覧料は無料です。

 犀ヶ崖資料館前には本多忠真の石碑があり、近くには夏目吉信(広次)の石碑と説明板があります。

浜松城から近いこともあり浜松城の周辺観光で投稿しました。

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城下町散策 (2024/08/01 訪問)

 浜松城周辺を散策しました。よく来ていた城ですが、周辺は曳馬城跡付近しか行ったことがありません。

浜松秋葉神社
 浜松城が築かれた1570年、家康が武運長久と城下の安全を願って城の裏鬼門の方角に建立した神社です。もともとこの場所には、奥平信昌の屋敷があり屋敷跡を示す碑が建っていますが、草が繁ってわからなくなっています。また、浜松秋葉神社は家康が武田の遺臣を迎え入れる際、臣従することを誓わせた起請文を奉納した神社でもあり、これによって井伊直政が武田軍の象徴だった「赤備え」を継承したことから、「井伊の赤備え発祥の地」といわれています。

西来院
 家康の正室・築山殿の廟堂「月窟廟」があることで知られます。月窟廟の西側には、家康の異父弟・松平康俊の墓もあります。

遠江分器稲荷神社
 家康が三河国から浜松へ入った1568年に創建されたと伝わる神社で、西側には本多忠勝屋敷があったと伝わっています。

 他にも松下之綱屋敷跡の標柱や徳川秀忠公誕生の井戸などがありました。


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野面積み (2024/08/01 訪問)

 昨年に続いての登城です。浜松城がある元城町は浜松市役所等があり市街地化が進んで、城の大部分が失われてしまいました。堀があったようですが、すべて失われています。現在残っているのは天守曲輪、本丸の西側部分、清水曲輪の北端、作左曲輪北東部のみです。多くは残っていませんが、石垣は好きです。無骨な野面積みが当時の雰囲気を醸し出してくれます。石は浜松市内の大草山、根本山、湖西市知波田産の珪岩で水運を使って運ばれました。天守曲輪の西面南側の石垣は屏風折れと呼ばれる石垣で全国的に見てもめずらしいようです。天守閣から富士山が見えるはずですが、夏のせいか年をとったせいか今回はよくわかりませんでした。

 ところで最初にこの城に登城したのは昭和という時代でしたが、当時ここに浜松市動物園があったことを天守閣内の展示で思い出しました。昭和58年に現在の場所に移転したのですね。

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零汰

調査中 (2024/05/23 訪問)

「アレ?本当にここ?」到着した際に一番に思った事です。
「何でここに城建てようと思ったんだ?」次に思った事です。

南北に道路で分断されています。
その日は発掘調査をしていました。
南側に立派な土塁が入っています。
北側は空堀と呼んで良いのかどうか。
築城時も現在の様に南側以外は見晴らしの良い平地だったのでしょうか?
江戸時代の末期で戦を想定していない城造りだったのかな・・・。

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しんちゃん

駿河湾海戦 (2024/07/14 訪問)

長浜城は発端丈山から内浦湾に伸びる尾根の先端に築かれています。また発端丈山から湾を周遊するようにして尾根が連なり、近年いくつもの砦や城跡が発見されています。
天正7年(1579)ごろに小田原北条氏によって築かれたとされ、駿河湾の覇権を争う上で重要な城になっています。長浜城には梶原備前守景宗が入り、この時期に発端丈山周辺の尾根上の複数の城が整備されたものと思われます。また翌年、千本浜(沼津市)で武田水軍と北条水軍との間で駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦が勃発しています。千本浜は長浜城から北西へおよそ8kmの位置にあります。
現在は県道17号線に接するように田久曲輪跡に原寸大の安宅船の看板の模型が設置してあります。そこから登城道に沿って腰曲輪から北側の腰曲輪群を見て第二曲輪から第一曲輪に到達しました。その間には見張櫓のようなものが再現され、10年前の訪問時には土が露出していた堀跡がコンクリで補強され整備が進んでいるようでした。

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三つの郭群の奥にも (2024/07/28 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。毛利元就の伝記でも記憶にあり。吉田郡山城の北東約6kmの五龍城 宍戸氏は、当初、毛利氏と戦いますが、同盟関係を結び、以降、重臣としてずっと従っていきます。
江の川と本村川が侵食した半島型の城域は、急斜面ながら尾根上は広いです。突端の東の郭群、中央の本丸を含む郭群、西の長大な郭を含む群の三つの領域があり、大きな堀切または自然の狭隘部で隔てられています。元就が落とせなかっただけあり、厳しい地形&大規模な土木作業量です。さらに、カズサンさんが書かれているように、真砂土で足下が滑ります。
西の郭群の堀切の外側(半島型の根元側)に足軽の段があり、井戸跡もあります。足軽の段の西は、更に高くなっていますが、そちらに、堀や土塁もなく、足軽の段は防備の外側? しかしながら、東の郭群にある、司箭神社の絵図には、足軽の段の西に、岡佐丸と関所が書かれており(参道口の縄張り図は足軽の段まで記載)、納得。

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