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カズサン

本丸内部の景観 (2024/11/24 訪問)

 本丸外周の景観の続きです。

 電車での城探訪の徒歩で足の筋肉痛、足裏の痛みが発生しだしましたが、城の中にいる高揚感、一体感で痛みも忘れて、名古屋城北東周辺、二の丸周辺、本丸外周を眺めて、本丸北東の搦手東御門跡から本丸に入る、大天守閣、小天守閣には現完成在入れませんが大勢の人で賑わっており特に外国人観光客の多さにもびっくり、天守南から日陰に成った大小天守を眺めて、復元された本丸御殿へ、4時半でも列に成って順番待ち状態、本丸御殿は第一期完成、第二期完成、第三期完成ファイナルの度に訪ねて内部見学はしており、本丸御殿の写真集も購入しており、御殿の外周の眺望を楽しむ、御殿の屋根越しの大小天守閣の写真を撮り奥に進むと湯殿御殿は別受付らしく、係りの方に声を掛けられて入館し、もう一人の方と2人でガイドの方を占有する状態で詳しく説明を聞きました、終わりにラッキーでした、湯殿御殿と黒木御殿セットで説明見学を受ける、主御殿の方は人が多く混んでる状態がつなぎ目で確認できます。御殿は5時のチャイムが鳴り終了。(説明ありがとうございました)
 湯殿御殿を出て本丸内部より南西隅櫓を眺め、本丸南側の内側石垣に円形の石積みが数か所あり、石垣職人の粋な扱いなのか?私としては新発見。

 5時過ぎに名古屋城から名城線、名鉄名古屋線で金山から豊橋、JRで浜松、遠鉄電車で自宅へと1時間半無事帰宅、2,3日足の筋肉痛、足裏の痛みが有りましたが晩秋の終りに電車、徒歩で楽しい時間を過ごせました。
 
 名古屋城三編に渡りご覧頂きありがとうございます。
 
 

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トク

小弐氏の栄枯盛衰(3/3):浦ノ城 (2024/12/09 訪問)

小弐氏の続き(3/3)です。

「浦ノ城」は、前回お伝えした岩門城(岩門合戦)で弟の景資を滅ぼした兄「小弐経資」の居城です。弘安の役の翌年、弟景資が岩門城を築くと同時に、兄経資は大宰府政庁を守る目的で、1282年この浦ノ城を築城しました。大宰府駅から北へ徒歩5分のところにある浦之城橋(写真①)を渡った丘の台地にありました。現在は公園になっていて、あまり遺構は残っていないようです(写真②③④)。今は住宅に囲まれていますが、当時はここからは大宰府天満宮・大宰府政庁・大野城が全てよく見渡せる三角形の中心場所ではなかったかと思われます(写真⑤⑥)。ちなみに、この写真①の橋からまっすぐ登ると、写真⑤に見える岩屋城や大野城まで車でも登る事ができます(離合注意)。

弘安の役の後、鎌倉幕府より恩賞として、父資能(初代)の後を継いだ長男の小弐経資(二代)には、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護職が与えられ、小弐氏は経資の時に、ここ浦ノ城にて全盛期を迎えます。

しかし弟の景資にとって、気分がいいわけがありません。「活躍したのは、この俺だぞ!」と主張して家督争いが生じたため、北条得宗家はこの機に乗じて兄の経資をけしかけ、経資は弟の景資を岩門城にて討ち滅ぼしてしまいます。すると安達泰盛を滅ぼした北条得宗家は、知恵者の泰盛と戦強者の景資もいなくなったので、(今がチャンス!)とばかりに大宰府へ兵を送り、目の上のたんこぶの小弐氏(経資)をここで追放してしまいました。だまされたと気づいた経資は、浦ノ城を離れ肥前南部へ落ち延びたようです。経資はいったに何のために弟まで殺したのでしょうかね?🤔

その後鎌倉幕府は、鎮西探題を設置し六波羅の北条兼時を探題として派遣し、九州の御家人たちを監視しますが、その北条得宗家も51年後の1333年に足利尊氏に滅ぼされてしまいます。その後、後醍醐天皇による「建武の新政」で足利尊氏は都を追われ九州に落ち延びますが、憎き北条を滅ぼしてくれた尊氏を小弐氏(六代:頼尚)は、ここで出迎え尊氏を支えます。そして対抗する尊氏の弟の足利直義を支える肥後の菊池氏らを多々良川で破り、小弐氏は一時勢力を盛り返しました。そしてこれにより、都へ戻った足利尊氏は室町幕府を開く事ができたのです。その後、戦国時代に入ると、小弐氏は大友氏・大内氏と渡り歩きますが、最後は龍造寺氏によって完全に滅ぼされてしまったようです。

私は浦ノ城に立ち、ここから大宰府天満宮を眺めてみました(写真⑥)。今では住宅や木に囲まれて全く見えませんが、当時はここから大宰府天満宮の朱殿がよく見えたと思います。弟を殺したあげく、北条にだまされたと知った経資はどんな思いで、ここから天満宮を眺めていたのでしょうか?

以上、小弐氏の栄華と哀れな末路でした😩。
 

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todo94

献血前の攻城で城カードゲット (2024/12/07 訪問)

小豆島から四国にわたり高松で昼食をとってから徳島に向かいました。徳島城博物館にて城カードを購入。冬の企画展「これが凄い!徳島の歴史」も拝見してまいりました。柳橋水車図屏風が一番お値段が高いそうで2億円とのこと。作者は違いますが、阿部龍太郎の「等伯」に「柳橋水車図」は出てきていたので感慨深いものがありました。献血まで時間があったので、庭園を散策した後、本丸までしっかりと足を伸ばすことができました。

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しんちゃん

吉見観音(安楽寺)蒲冠者範頼ゆかり (2024/05/06 訪問)

吉見町の源範頼館の近くに、幼いころの範頼が稚児僧として身を隠していたと伝わる吉見観音があります。伝承としては行基が聖観音像を安置し、坂上田村麻呂が堂宇を建立したとされています。本堂と三重塔は源範頼が建立したと伝わりますが、戦国時代の天文年間に武州松山城の落城に際し、これらの伽藍もことごとく消失したとされます。現在立っている三重塔は寛永年間に杲鏡法印によって再建されたものとされます。

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しんちゃん

蒲冠者 (2024/05/06 訪問)

息障院の境内は源範頼の館跡とされ周囲には土塁が残っています。吉見町の安楽寺(吉見観音)には範頼が稚児僧として長くこの地に留まったという伝承があり、本堂と三重塔を建立したと伝わっています。また、範頼の子供たちは助命され、子孫が吉見氏となり源氏の名門として続きますが、執権北条氏の時代に吉見義世が謀反の疑いで処刑され、吉見氏の嫡流は途絶えてしまいます。二代義春の弟で能登国に移った吉見頼宗の子孫が吉見氏の系統を継ぎ、能登吉見氏(もしくは武蔵吉見氏)として続いたようです。

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12月21日(土)お城EXPO城にて「日本100名城かるた」ワークショップ開催!

「お城EXPO 2024」、いよいよ今度の土日です!
迫りくるのをひしひしと、ひしひしと、そりゃあもうひしひしと感じております。
今こそ分身の術を修めておかなかった自分を悔いています。
コピーロボットほしいです。
アメーバは分裂できてすごいです。

のっけから混乱状態のお見苦しさ、ご容赦ください。
皆さま、もう城びとの「お城EXPO徹底ガイド⑥見逃すな!お城EXPO 2024 の気になるイベント・ワークショップ紹介」(https://shirobito.jp/article/2036)をご覧いただけましたでしょうか?

お城EXPOのどれもこれも見逃したくないのは重々、重々承知ですが、ここはもう! 
21日(土)15:30~16:30 は、我らが「日本100名城かるた」ワークショップ一択ではないでしょうか!?(暴論)

かるた監修の加藤理文先生によるかるた解説のほか、お試しかるた取りもやります!

皆さまと一緒に、かるた晴れの舞台を喜び合いたいです。お城EXPOにいらっしゃる方、ぜひ、ワークショップにもいらしてくださいませんか?

参加方法:
① 1Fインフォメーションで21日(土)13:00~配布される整理券を入手(無料。先着40名)
② 15:30少し前に会場の3F・⑰ワークショップ&セミナー会場に集合

今年は残念ながら城びとブースがないのですが、その分、城びと部員たちはこのワークショップにて気合マンマンで皆さまのお越しをお待ちしております。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

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にのまる

大手門二階櫓開放 (2024/11/13 訪問)

JR秋の乗り放題きっぷの2日目です。
行き先を決めないまま中央線に乗り、路線図を見ながら考えたコースは、
《高尾→小淵沢→小諸→篠ノ井→松本→高尾》です。

乗りっぱなしでも楽しいこと間違いないのですが、せっかくなので小諸で乗り換えを少し遅らせて小諸城散策に出かけました。

4度目の訪問になりますが、今回初めて大手門二階櫓の資料展示室開放日に当たり、内部を見学することができました。大手門石垣を上から見たり、いつもと違う経験ができてよかったです。

お昼休憩を目論んでいたお蕎麦屋さんは行列が出来ていたので諦めて、しなの鉄道(料金別途)で篠ノ井へ向かいました。

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三浦の晃ちゃん

復興天守閣 (2024/12/14 訪問)

三十年ぐらい振りの訪問です。復興天守閣ですが、昭和の初めの建築なので、街に馴染んでる感じがしました。

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朝田 辰兵衛

浄福寺城散策2/2(主郭~畝状竪堀) (2024/11/04 訪問)

主郭からすぐに東側の尾根へ進んでしまうと,西側の竪堀を見落としがち。西側の竪堀を散策してから,東側の尾根へ進入していったほうが宜しいかと思います。ラストに畝状竪堀が待っていますョ❢
けど,うまく写っていませんでした…<泣>。たしか,赤い城さんもうまく写せてなかったと思います。
そもそも,畝状竪堀の撮影ってムズいと感じています…📷

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朝田 辰兵衛

浄福寺城散策1/2(登城口~主郭) (2024/11/04 訪問)

東京都コンプリートに向けて,残りの中で一番天候に影響されそうな城が浄福寺城でした。ホントは11月2日で攻城の計画を立てておりましたが雨天となり断念。しかし,何とか同じ遠征期間内に変更できました。
八王子駅から浄福寺付近までバスが出ておりますが,ウォーミングアップで少し歩きたいと思いました。
高尾駅北口から「美22」系統のバスで,川原宿大橋下車。約1㎞歩いて登城口の浄福寺到着。主郭の先のほうが楽しそうだったので,あまり時間をかけずに登りました…🐾

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チロ子

再訪 (2024/12/16 訪問)

2度目の来訪でした。今回は、石垣に注目して見てみました。
お堀の石垣をよく観察すると、あちこちに刻印石があり、とても面白かったです。 ボランティアガイドさんに少し案内してもらいました。蛸石と呼ばれる巨石は、意外にも薄っぺらく、約80センチの厚みしかないそう!!他にも色々教えて頂き、とても勉強になりました。

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井伊谷の祐

念願の忍城登城しました (2024/12/14 訪問)

晴天、寒風、残紅葉の忍城へ初登城しました。
石田三成の水責めにも耐えたお城だけど、やはり小田原城が落ちて、忍城もならったんですね。
忍城の図面を見ると本当に水の上に浮かんでいるような攻めづらい凄いお城だったんですね。
お城退城後は、近くのお店で行田名物のゼリーフライとフライ焼きそばを頂きました。

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WEST

臼杵城探訪 (2024/12/04 訪問)

臼杵城を訪問しました。このお城は、戦国時代大友氏が築城し、その後太田氏が現在の近代城郭に整備したとのことです。
登城口に近い観光交流プラザを訪問し、パンフレットを入手して、登城しました。このプラザには駐車場があり、自動車でのアクセスも容易です。
このお城は現在周りが埋め立てられていますが、古橋口からは見上げる形となり臼杵湾に浮かぶ丹羽嶋の岩上に建つ天然の要害だったいうことが分かります。
再建された大門櫓を抜けると二の丸跡、さらに奥が本丸跡になります。本丸跡には天守台石垣が残っていますが、唯一残る16世紀の石垣だそうです。
なお、現存する櫓は畳櫓と卯寅口門櫓のみの2基です。太田氏の時代は31基の櫓があったとのこと。びっくりです。

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todo94

香川県の城びと登録物件コンプリートに立直 (2024/12/07 訪問)

香川県の城びと登録物件コンプリートを目指して小豆島へと渡りました。四国行きの定番・前日夜8時前に家を出て淡路SAで仮眠をとり、早朝に高松港にアクセスして高速船に乗船。土庄にてレンタカーを借り受け、皇踏山城に直行しました。野外活動センターからすぐにアクセスできると高をくくっていたのですが、入り口はチェーンで封鎖されていたので、近くの路傍スペースに車を停め、そこから歩いて登城したら結構な歩きでがありました。展望所が二ヶ所あり、小豆島の観光スポット・エンジェルロードを俯瞰することができます。石塁も結構な長さがあり、山頂からの眺望もなかなかのものでした。すっかり時間をかけてしまい、午後には徳島で献血の予約を入れてあったので、星ヶ城の攻城は断念。それでも帰りがけ、晴天の下でエンジェルロードを堪能することができたので満足です。ピクミンブルームの山デコの白ピクミン(皇踏山)まで手に入れることができました。

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赤い城

飲み会前に登城 (2024/12/07 訪問)

楢崎城リアの後、少し時間があったのでもう1城。
国指定史跡の桜山城です。
備後一宮である吉備津神社駐車場を利用、南の住宅地に登城口がありました。
登城口は他にもいくつかあります。

少し登ると神社が建ち、尾根道が南に伸びています。
途中堀切も見られます。
しばらく進んだところに「桜山城入口」の道標があり、右に進むと主郭部にいきますがまずは直進。
南側の尾根道を進みます。
こちらにも堀切、さらに先には墓地がありました。
墓地の先にある祠のある曲輪までで引き返し主郭へ。
主郭も綺麗に草が刈られ整備されていました。

帰りは主郭先の尾根から下山、西側の民家裏手に出ました。
そんなに大きな規模の城ではありませんがそれなりに見どころはあるかと。

飲み会前のよいウォーミングアップになりました。
この後のビールが格別であったことは言うまでもありません。

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天守無しがアツい

高天神社 無人のため御朱印授与ならず (2024/12/13 訪問)

(参考サイト)https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/fs/3/7/0/1/7/2/_/______.pdf

政局という家康の家臣(外戚でもある)が囚われていた石窟(1枚目)が…城跡の一角にありました。この城にて天正二年(1574年)に激戦がおこなわれた際に武田側に降り、それから勝頼の怒りを買ってこの石窟に幽閉されたそうです

なんか…護良親王や日蓮上人が幽閉されていた土牢を連想させられますね…夏場は虫が湧き、冬場は寒風がヒューヒュー吹く…過酷な環境が容易に想像できるシチュエーション…ここに何年も閉じ込められた政局

こんな所…絶対入りたくない😅😱

天正九年(1581年)城陥落の際に家康に救出されて温泉療養♨️ それから3年後の小牧長久手の戦いで討死…と説明書にありました。せっかく助かった命なのに…それから数年後にそれを落とす事になるなんて…なんか切ないですね

最初の分岐点…本丸or高天神社の場所まで戻り、今度は神社方面に向かいました🚶‍♂️ (名称忘れたけど)小さな社に井戸があり…賽銭箱に10円玉を入れてお詣り

それから階段を上って…高天神社の本堂(2枚目)に辿り着きました。100円を賽銭箱に入れてお詣り…柱にチャック付きの透明ケースが掛けてあり、その中にメモ書きノートが入っていて、参拝者が自由にコメントできるシステムとなってました

そのノートに「◯◯市からきました。ここは思っていたより城の規模が大きく、階段を昇ると息があがってしまいました。高天神社にて参拝を済ませましたが御朱印は受けつけてないのでしょうか?よろしければ書いてもらいたかった。けれど悔いはありません」と書き残しました🖊️

それからもう一度…社務所の側まで足を踏み込んで確認すると…なんと御朱印受付の案内が…サンプルも窓にしっかり飾られてました。1枚300円…と言っても対応してくれる職員がいなければ授与できない…という事で残念ながらもらえずじまいで終わりました

高天神社との分岐点があり、もう一つの方向へ進むと二の丸がありました(3枚目)建物の具体的な規模こそ不明…けれど天目茶碗など国内外の陶磁器が多数出土されており、この城が単なる軍事施設ではなく、城内に詰める兵士たちの生活の場にもなっていた様子が伺えるそう

現在は木々が並んでいるだけの様子…けれどここでは柱跡が幾つも見つかっており、武田氏の勢力圏だった頃は何百人もの人間が暮らせるほどの規模の建物があったようです🏠

本間八郎三郎氏清と丸尾修理義氏清の墓🪦(4枚目)…二の丸からさらに右手に…奥に進むとそれがありました。その近くには天正年間の合戦で戦死した者への慰霊碑…空堀も(高低差がエグくて、堀に落ちた敵兵をフルボッコにできたらしい)

墓に葬られてる人物に関しては全く存じてませんが…おそらく城陥落の際に戦死した武田側の武将でしょう。降伏を潔しとせず最期まで戦い散っていった

一応…一回でほぼ全部周れたけど…やっぱり思っていたよりこの城は見どころが多かったですね。それだけ城の規模および機能が多様…そして二の丸で帰りのタクシーを電話手配した私は…入口まで戻って無事にタクシーと合流して乗車🚕 駅まで戻ったのでした

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しんちゃん

足利基氏館 埼玉県東松山市 (2024/05/06 訪問)

足利基氏館は現地に足利基氏の塁跡と記した案内板が立っています。足利基氏は足利尊氏の次男で初代鎌倉公方とされる人物です。貞治2年・正平18年(1363)に芳賀高貞が反乱を起こした際に(岩殿山合戦)基氏が当地に布陣したとされ、戦の間の短期間しか使われず、また地元豪族が造った館を陣地として利用したものと考えられています。
案内板の西側に南を除く三方を土塁と堀で囲まれた一帯があり、民家とも隣接しています。民家の脇から、敷地をさけて訪問し林の中の遺構を確認しています。周囲には坂上田村麻呂ゆかりの弁天沼も有り、弁財天を祀っています。

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しんちゃん

源氏骨肉の争い (2024/05/06 訪問)

大蔵館は木曽義仲の父・源義賢の居館とされています。館の中心部は大蔵神社の周辺とされ高土塁が残っています。大蔵神社の東側にも土塁が残っており、その北側に大手虎口が設けられていたようです。
源義賢は久寿2年(1155)8月、異母兄義朝の長男・悪源太義平に大蔵館を襲撃され討たれてしまいます。当時二歳の駒王丸(木曽義仲)は畠山重能・斎藤実盛らによって助けられ、木曾谷の中原兼遠に預けられました。

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しんちゃん

青蓮寺 (2024/05/06 訪問)

小代氏は武蔵七党児玉党の出身で入西相行の次男 大夫遠弘が入西郡小代郷に居住して小代氏を名乗ったのが始まりになるそうです。青蓮寺周辺が城址のようですが、遺構はみあたりません。ただ周囲より小高い位置にあるので、なかなか見晴らしは良いです。
境内には小代氏の一族関係者が弘安4年に建立したとされる「弘安四年銘板石塔婆」がありました。

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ぴーかる

高城 (2024/11/23 訪問)

【高城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.600096, 136.469149>の畑の方に車を寄せれば1台停めれる。
<交通手段>車

<見所>竪堀・主郭の凸凹
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅6城目。高城は北畠氏の北伊勢の拠点、阿坂城の支城で山脈から東に延びる尾根の先端部に高城があります。
 登城口は上記駐車ポイントのすぐ北側にあります。土手を上がって黄色い手すりの極小の橋を渡ってすぐ左方向の笹をかき分けて進むと踏み跡の道に出ますので西方向に進むと説明板、左手に竪堀、主郭の東虎口があります。城跡は単郭方形の高土塁ですが、ちょっと変わっているのが主郭内部の平地が凸凹とした遺構になっています。主郭内に堀や土塁があったみたいで、陣城みたいな感じになっています。主郭の北西部にも虎口があり北西隅の土塁がひと際高く、土塁上が櫓台になっていたようで削平地になっています。単郭方形の城跡で広い主郭を持つ内部は現在は埋められているが、かつてはこんな感じだったのもあったのかも。

<満足度>◆◆◇

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