太閤が 夢見し跡の 名護屋城
(たいこうが ゆめみしあとの なごやじょう)
名護屋城では、石垣の破却跡を見る事ができます。でもよく見ると中途半端に終わっているのが分かります。それゆえ破却中の様子を想像できます。破却を行ったのは唐津藩主「寺沢広高」です。1602年家康の命で天守や御殿などの建物を解体し、それを自身の唐津城の築城に再利用したと伝わっています。そして1615年一国一城令で本格的に石垣の破却が始まりますが、あまりに立派すぎて唐津藩の力だけでは十分に壊せなかったようです。そして子の「寺沢堅高」の代になり、唐津藩の領地である天草でのキリシタン弾圧や、農民による天草一揆がはじまると、もう破却どころではなくなり、最後1637年には天草島原の乱の責任で堅高は切腹し寺沢家は断絶となります。乱の後に代わって入った大久保氏により、幕府の命で再度破却が試みられますが、やはりこれは無理と断念したのが実情ではないでしょうか? とりあえず天端石をとり石垣の隅部を破却して自然に崩し、この上にすぐには建物が建てられない状態にして、そこでもう力尽きたという感じです。また朝鮮との国交回復をしたのは唐津藩ではなく、対馬藩金石城主の「宗義智」で、人質を朝鮮へ返し謝罪する事を条件に交渉がなされているので、名護屋城の破却は、朝鮮との関りというより幕府の一城令によるものが強く、しかも完璧にはほど遠いまま終わったというのが実情ではないかと私は思います。
秀吉の朝鮮出兵には、安宅船が使われました。この船は帆と櫂で進むので、1日せいぜい50kmぐらいの航海が限界ではないかと思います。漕ぎ手を休ませながら天候や風向(夏は南風、冬は北風、春は西風)や潮の流れなどの好条件がそろわないと進めないので、そういった必要性から壱岐・対馬には兵站基地として勝本城や清水山城が築かれました。
今年も「名護屋城大茶会」が11月23-24日に行われます。また名護屋城歴史博物館では、朝鮮出兵の様子などが詳しく解説されており、安宅船の特大模型や、蔚山の戦いを描いた巨大絵図、特に再現された「黄金の茶室」は必見です! 唐津城とセットで訪れられたら、より分かりやすく楽しめるのではないかと思います。詳しくはHPで。
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