はまだじょう

浜田城

三重県四日市市


旧国名 : 伊勢

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①冠木門
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:浜田城 (2024/09/25 訪問)

近鉄四日市駅から徒歩5分くらいで、鵜森神社鳥居前(34.964519、136.617401)に着きました。

1470年(文明2年)田原忠秀によって築かれたようです。
1575年(天正3年)織田信長によって攻められ、当主元綱は討死し、元綱の子重綱は美濃国へ逃れた後に織田信雄に仕え、1584年(天正12年)美濃国加賀野井城で討死したそうです。

現在は鵜の森公園となり、遺構は鵜の森神社周辺にわずかに土塁跡が残っています。
冠木門、城址碑、説明板は鵜森神社鳥居を潜ると左側にあります。
城址碑の写真を撮り忘れているのを帰宅してからわかりました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=岸岡城を目指す為、電車で近鉄四日市駅から千代崎駅に向かいました。

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しんちゃん

主郭部の鵜森神社の周辺に土塁が残る (2023/07/15 訪問)

浜田城は現在、鵜の森公園となっていて、東側にある鵜森神社の周辺には
土塁が残っていて冠木門が備え付けてあります。
南側にある池はかつての堀の名残で、南西部には茶室・泗翠庵
北西部には土塁のような土盛があります。

かつては、田原忠秀によって築かれ、二代 田原元綱の時に、織田信長家臣
滝川一益によって攻められ、浜田城は落城、元綱は討死し
その息子の重綱は生き延び、織田信雄に仕えましたが
小牧・長久手の戦いで討死して田原家は滅んだとされます。

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カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅷ 俵藤太末裔の城 (2023/03/21 訪問)

 細野城(長野氏城)を終えて16年振りの津城再登城をゆっくり済ませた後、東名阪道を使い四日市の浜田城を目指す。

 駐車場は四日市文化会館の駐車場を当てにしていたのですが当日旗日催事利用者でないと使えないとの事で入口の東側にあるコインパーキングを利用。浜田城跡の在る鵜の森公園までは直線で600mほど四日市駅方向へ駅ちかの公園で、近くにもコインパーキングが彼方此方ありました。

 情報ガイドは古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。

 結構広い公園で約150m四方、出入り口は四方に在ります、公園の北東部に鵜野森神社が鎮座し神社の周囲に土塁が残っている、東に鳥居がありその周辺に、平成28年復元の冠木門、復元冠木門の提要の看板、浜田城址碑、鵜森神苑碑、俵藤太十六間四方白星兜の案内板などが設置されている、樹林の桜も開花し満開前、多くの市民が集っていました、参拝者もちらほら、工事中で一部閉鎖されて居る所もありました。

 田原氏の築城で俵藤太(藤原秀郷)の末裔、15世紀末から約100年この地で栄え信長の伊勢侵攻で信長の家臣滝川一益に攻められ落城したとあります。
 
 鵜森神社の社宝として俵藤太(藤原秀郷)の愛用の兜と伝わる十六間四方白星兜が国重文として大切に守られている。毎年十月の鵜森神社の例祭・式典の後一般公開されてると案内板に有りました。
 

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todo94

献血前の攻城 (2023/01/04 訪問)

今回、青春18きっぷの残りでの行き先を三重にしたのは、四日市の献血ルームサンセリテでの献血のため。リニューアル情報を得ていこうと思っていたら、新型コロナウイルス感染症の所為でここまで延び延びになってしまいました。その献血前の攻城です。浜田城は都市公園として整備されていましたが、土塁などは残っていました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 田原忠秀
築城年 文明2年(1470)
主な城主 田原氏
遺構 土塁
指定文化財 市史跡(浜田城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県四日市市鵜の森1
問い合わせ先 四日市市教育委員会事務局社会教育課
問い合わせ先電話番号 059-354-8238